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ジェンダー・トラブル

54-2(222) ジェンダー・トラブル
フェミニズムとアイデンティティの撹乱
ジュディス・バトラー
青土社、1999年、2004年第8刷

Gender Trouble=Feminism and the Subversion of Identity, 1990

おもしろいことに副題である「フェミニズムとアイデンティティの撹乱」というのは、フェミニズムとアイデンティティの両方に掛かっているかとも思わせるタイトルなのだが、明らかに英語では撹乱されているのはアイデンティティだけである。
撹乱=subversionというのも、「破壊」というような意味がある一方、subversiveという形容詞はseditous「扇動する」という言葉やtreasonous「反逆」と類語であったり、subという接頭辞とversion, vertical, など、緑や芽生えにも通じる「沸き起こる」言葉とからなり、下から萌え上がるような撹乱であり、反逆、転覆の意がこもっている言葉であることが知れる。
そして、筆者は「女というカテゴリー」とそこに生まれるアイデンティティ、そしてそれに依拠するフェミニズムの心底からのsubversionを願っているのではないだろうか?その徹底的な「懐疑」によって。
バトラーが問うのは以下のようなことである。

22
「ジェンダーをつねに生み出し保存している政治的および文化的な交錯から「ジェンダー」だけを分離することは不可能なのである。」
これは何度も表現を変えて出てくる。たとえば35「ジェンダーは、文脈によって異なる変化する現象なので、実体的な存在を意味するものではなく、ある特定の文化や歴史のなかの種々の関係が収束する相対的な点にすぎないものである。」58「ジェンダーは,,,そういうふうに語られたアイデンティティを構築していくもの」59「アイデンティティは、その結果だと考えられる「表出」によって、まさにパフォーマティブに構築されるのである。」

(フェミニズムの普遍的な基盤としての家父長制とか男支配の抑圧があるということを規定したとたん、フェミニズムが家父長制に普遍性を与えてしまう。)

23
「女に共通の隷属構造をさせるとみなしている支配構造の、まさにそのカテゴリー好きの架空の普遍性に向かって、フェミニズム自身がまっしぐらに突き進んでしまうことになるのである」
25
「アイデンティティを存在論的に構築していことの意味を、,,,徹底的に再考すること」
「フェミニズムの理論の基盤を主体としての「女」におく排除的な実践は、「表象/代表」すると主張している領域を広げようとしているにもかからわず、そのフェミニズムの目標を切り崩すことになってしまうのではないか」

バトラーの言いたいことは、ここに尽きる。そして、「カテゴリー好きの架空の普遍性」を獲得しようとしているものが、
・ひとは<つねにすでに>ジェンダーである=身体は文化そのもの
・異性愛セクシュアリティへの同一化を強制する=明確に区分された男あるいは女への同一化と同義である。
・女の身体性を「母」とみなす解釈学によって、すべてのsubversionを「母なるもの」に収斂させるという植民地化
・異性愛構造を成り立たせているセックスというカテゴリーの虚構性
・身体性の捏造
(以上、訳者である竹村による解説からの言葉による、本文より引用しやすいので)

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セックスを原因や起源として、セクシュアリティやジェンダーをその帰結ととらえる考え方を逆転させ、ジェンダーを統べる法が、セクシュアリティそしてセックスをその起源として結果的に生み出すという因果律の逆転

ちなみに、ルビで英語がふってある単語を書き出して見る。(原著ではカタカナ)
表象/代表=representation
政治、政治性=politics
セックス=sex
総称としての身体=the body
個々の身体=bodies*
機構=economy=意味機構
同一化=identification
性=sexuality
同定する=identify
女の書き物=equitur femin
存在=ontology
両性性=bisexuality
体内化=incorporation
取り込み=appropriation

それ以外に「権力」に「ちから」とルビなど、意味の重層性による確認がさまざまになされている。
しかし、読めば読むほど、subversionは下位的なバージョン、補足的なカテゴリーとしての「女」と読めてくる。さらに言えば「反逆的カテゴリーとしての女」を獲得したいものである。
翻訳のおもしろいところである。

*32
「総称としての身体」はジェンダー化された主体領域を構築している無数の「個々の身体」と同様に、それ自体が構築されたものである。
そういう意味で『ことばは男が支配する』(14-2-55/2004/8/9)にも言及したいが、「支配的言語」についての朴和美さんが「ベル・フックスの『関係性の教育学』」について、書いていることを紹介しよう。

----------We2004年7月号「リレーエッセイ」60-62-------

「単一民族、単一文化、単一言語」神話にドップリつかっているかぎり見えない問題群を見ることができる、マイノリティの視点の意識化=ベル・フックスを読むことはの素晴しさ
「母語」と「母国語」の舌のもつれに悩まされ続けてきたわたしに、一つの啓示としてベル・フックスの言葉が届いた。「奴隷にされた黒人たちは、英語をブロークンなままに取り入れ、そしてそれを自分たちの対抗言語につくり上げていった」「まさに、ブラック・バナキュラー(黒人独自の生活言語)を使うというその位置において、わたしたちは英語を使いたいように使うのだ。,,,支配に挑むため,,,自分たちを解放するため,,,」
豊穰で親密な話言葉をつくりだし、圧倒的な白人社会への抵抗を示していく

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この言葉に、わたしは、創られたカテゴリーを自分たちを解放するために使うことの可能性を感じる。しかし同時にそれは、「文字を必要としなかった社会」の濃密な身体性のあるアフリカーンヌの前に、絡めとられた漢字文化圏のものの脆弱さをともなうのではないかという、危惧なしではいられない。
白川静の「字訓」「字統」などでもひもとこうか。
「知る」ことだよね、やっぱり、解放は。与えられたカテゴリーやアイデンティティではなく、獲得した、自覚したアイデンティティによる共闘を、フェミニズムには求めたい。
by eric-blog | 2004-09-07 13:47 | ■週5プロジェクト04
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