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死産される日本語・日本人−「日本」の歴史−地政的配置

かくたです。
                     2004年6月4日配信
今日は牧さんにもほめてもらったから、気分がいいです。
でも、日焼けしたのと、目の角膜が痛いのとが少し気分悪いです。
気分直しに新しい眼鏡を買いました。
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44-5(186)
死産される日本語・日本人−「日本」の歴史−地政的配置
酒井直樹、新曜社、1996

テッサ・モーリス=スズキの「辺境から」に引用されていたもの。なるほど、引用が
長くなるなとわかる。しっかりと論じている部分と、そして論じてきたことからの結
論の部分とがはっきりしているのだけれど、そのまとめ方が美しい、という「わあーー
ー、こんな言い方できるんだ」という感じになるので、ついつい長く引用してしまう。

299ページもある圧倒的なところから、以下、とってもおもしろかったところがたけ
のことですから、もし、その良さが伝わらなくても、ごめんなさい。

「はじめに」で語られている「ひとつの国が別の国を非難することではなく、歴史に
よってそのような関係に私たちがおかれてしまっていることなのだ」という問題意識、
そして酒井個人は「私は、自分がひとつの国民共同体の黙殺と否認の制度の外にある
ことをしみじみ感じた」しかも、その黙殺と否認は、べつの黙殺と否認と共犯関係を
つくる。(ここで酒井は、「ひとつの国民共同体の...制度」、そして「べつの国民共
同体の...制度」としているが、国民共同体や制度に限定しない方がおもしろいこと
がいろいろと考えられそうなので、あえて、書き変えています。)
「黙殺と否認の制度こそが帝国主義的な国民共同体を密かに支えていくものであるこ
とを知った」1982年のワークショップ体験より

4
近代は、歴史的には近代に先行するものとの関係で、また地政的には非近代、もっと
はっきり言えば非西洋との関係で了解されてきた。
<近代的>西洋と<非近代的>非西洋
そしてこの組み合わせは<非近代的>西洋と<近代的>非西洋という組み合わせを排除す
る。その組み合わせとの共存の可能性を排除する。
西洋なる同一性を定立するためには必須。

6
西洋は特殊を規定する普遍の契機を代表するのだ。,,,西洋は普遍的な極を構成し、
この極との対照で非西洋は自己を特殊として認知することになる。その点で西洋は世
界のあらゆるところに偏在する。

11
アメリカ合州国で経済的価値が他の価値に比べて重視されている事実は、アメリカ社
会が本質的に普遍主義的な社会であるということを表わすとされる一方で、他の社会
も普遍主義的要素を分有するとされた。したがって、ある社会内ての普遍主義的傾向
と特殊主義的傾向の対立は、その社会の合理的な変化の可能性を決定することになる。
歴史的時間は特殊性から普遍性への、抽象的普遍性から具体的普遍性への移行。

14
自己批判能力を欠いた普遍主義が、その内在的矛盾の事実に直面したとき何が起こる
か、(をポロックの「意味の破砕」が示している。)

17
日本文化を同定するために日本語の同一性を持ちだし、日本語の同一性をいうために
日本人の国民的同一性に根拠を求め、日本人の国民的同一性をいうために日本人の文
化・言語的伝統を証拠として利用する。この一連の同語反復,,
18
日本文化なる仮想された同一性が成立したのはむしろ比較的最近の歴史においてであ
り、...

37
だから<われわれ>という立場、つまり西洋あるいは日本という想像された立場から語
ろうとすれば普遍主義・特殊主義の対の支配から逃れることはできないのであり、い
かに過激な風を装ってみせたところで、その批判はたんなる不満や不平そして批判の
対照に対する嫌悪感の表明にしかならない。

西洋と非西洋=東洋の作用と反作用、か。

44
日本は近代的国民出ある。日本という領土の住民はその自己を保持するために自らを
「国民」として組織し、国家のうちに自己表現したのではなかったのか。,,,,西洋が
主体的同一性にかかわらない自然共同体ではないのと同様に、日本も自然共同体と考
えることはできない。日本は自己を表象しようとし、言説によってその統一体のイメー
ジをうちたてたはずだ。
「アメリカ人」という想像体が言説によってつくり出された効果であるのと「日本人」
の場合もまったく変わりがない。つまり日本は極端に「ヨーロッパ的」あるいは「西
洋的」なのである。

62
(丸山の「忠誠と反逆」)
民族といった共同性の像は、人種という社会美学的−感性的範疇がそうであるように、
国民共同体の、あるいは近代的な世界の成立の効果ではないかという問いが、あらか
じめ排除されてしまっている。,,,フランス買いめくやアメリカ合州国の独立のよう
な近代的な建国神話もまた神話にすぎない、という点が見逃されている,,,,ひるがえっ
て、古代神話といわれているものもまた近代的なものであるという視座が欠如し、明
治憲法下の建国神話の基礎となっている連続史観そのものの近代性が無視される結果
になっており、,,,民族の自立という考えそのものに潜む、近代的な神話性を見逃し
てしまっている

71
批判の対照と歴史的実践の標的となるのは、「西洋」にあって「日本」にないものだ
けでもなければ、「西洋」になくて「日本」にあるものだけでもなく「西洋」と「日
本」が共に抱え込んでしまったもの、たとえば、人種主義や帝国主義の遺制、そして、
排他的国民主義,,,むしろ「西洋」や「日本」という主体が十全に自己構成すること
は不可能であって、「西洋人」は必ず「西洋人」になりそこない、「日本人」が正真
の「日本人」であることはないという点を私は強調したいのです。そして、まさに、
この不可能性にこそ歴史的実践の倫理があると考えられるべきなのです。

78
米国の)憲法の役割のひとつは、社会紛争の効率的な解決ということよりも、社会問
題の創出にある,,,憲法は、社会問題をつくり出す。だから国民としての同一性は、
自らも、社会問題をつくることに参加する決意として表現されることが多い。
79
憲法に則って門抱いていきをすることによって遂行されるのは、不利な立場に置かれ
ていると感じている者が、その感じを公的な場で分節化することである。ここで避け
なければならないのは、社会的に有利な立場と不利な立場があらかじめ客観的に定式
化されてい存在しているという考え方である。

81
西洋中心主義を分節化する「仕事」は,,,,それまで当り前のこととして問題視せず、
不利な立場に女性や非日本人を置くことによって自己の立場を享受してきた者たちに、
それまで普遍視してきた彼等の常識とその合理性を懐疑することを迫るために、しば
しば、男性主義回帰や日本回帰を引き起こし、既存の合理性に関する問いかけへの拒
否を招くことになる。,,,予想しうる反発

82
憲法のひとつの役割は、このように、既存の合理性からいえば不可能性としかいいよ
うのないような「仕事」を国家の規模で肯定することであると、私は考えている。
,,,国民としての文化的一体感を強めていくことではない。,,,社会問題の創出を通じ
て人々が共存共生することを可能にする制度である。
しかし、なぜ社会問題の創出がこれほど重要なのか。それは、歴史による条件づけ、
つまり、過去の歴史の、現在における効果によって不利な立場に置かれた人々にとっ
て、同化主義によらない社会参加の可能性を切り開くからである。肌の色、性、帝国
主義の遺産、あるいは民族的に継承されてきたもの,,,,歴史は、現在における効果に
おいてその猛威を奮う。

86
究極の国民的同一性の構成を(カール・シュミットは)敵と味方が曖昧さなく区別され
る、戦争状態に見た。


「ノー・ノー・ボーイ]における国家の偏在について
112
母の姿勢は彼女が自殺寸前にみせる頑なさ、偏執性を予想させるが、そこにあるのは
帰属感への固執と、アメリカ合州国社会を否認し、そうすることで、逆にアメリカ合
州国の対極していの日本を、アメリカ合州国を否認する度合に応じて理想化しなけれ
ばならなくなる裏返しの同一化の論理
理想化された日本像における日系移民におしつけられた「日本人」のステレオ・タイ
プの内面化、「あめりか」と「日本」を序列関係でのみ規定する人種主義の倒立した
形での再生産

146
自己陶酔としての天皇制
153
天皇制に関連した議論
−戦争責任 154「尾宇部ウェブサイトの先進民主主義に権威を求め、それと
の落差によって日本を定位するという思考方法からは、欧米の側に内在する限界を批
判しつつ、日本の責任を追及するという複眼的思考は容易に生まれなかった。
−文化としての装置

162
ナショナリズム、ナルシシズム、天皇制

166
死産される日本語・日本人
−日本語という統一体の制作をめぐる(反)歴史的考察
国語あるいは国民語の起源をめぐる歴史的問いは、「日本語」そして国民的主体とし
ての「日本人」が、生まれると同時に死んでいた、あるいはすでに喪失されたものと
してしか生まれることができなかった
171
自己充足的な統一体としての国民共同体の形象は、国際社会における相互関係によっ
て支えられており、自己の国民共同体はつねに他の国民共同体との比較と区別を媒介
にしつつ構想される。
188
統一体としての日本語は、その存在を経験的に検証できるものとしてではなく、日本
語についての体系的な知識あるいは経験の可能性の条件として設定されるある理念な
のであって、統一体としての日本語そのものは経験できないということを意味してい
る。 
189
統制的理念は必ずしも、多言語性を排除しない。むしろ、理念は、反復との連関から
みれば、むしろ雑種性として可能であることを忘れるわけにはゆかない。,,,多言語
性を必ずしも、非分割体(individual)としての統一体としての、言語の多元的並存と
して考える必要がないのである。「理念は多数性である」,,,つまり、こうした統一
性を必要としない多言語性を構想する能力の喪失を伴いつつ、日本語は誕生したので
ある。
雑種的な言語(クレオール)から純粋日本語,,という仮設が雑種的な多数性を脱皮しつ
つ雑種的な多数性を排除するかたちでどのように構想されるようになったか、を分関
しなければならない。

同時に読んでいたのが「We 2004年6月号」だったので、183の歳時記考とともに、
「言葉は分かつ」んですよね。でもわたしたちが「日本」という言葉を使わないこと
がいいわけでもないのですから、言葉なしではわかりあえないのですし。

以下がテッサ・モーリス=スズキが引用している風。
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もろもろの「えすにっく集団」のあいだに引かれる物象化された境界線を疑問視する
ことは、酒井直樹による最近の著作のテーマでもある。彼は、近代国民社会はすべて
潜在的にはほとんど際限なく多様な「文化集団」へと下位区分することが可能である
と注意を喚起する。,,,とすれば、ある「文化的」もしくは「エスニック」な差異が
「国民のアイデンティティ」の外側にむかった境界を定義する過程にとって中核をな
すものだと選択されてきたのに対し、別の違いは取るに足りないものとして無視され
るのはどのようにしてか、という重要な問いかけがまた生ずる。,,,酒井によれば、
エスニック・マイノリティの同定と複製が国家にとって必要不可欠であるのは、ある
マイノリティを「異なるもの」として定義することが「多数派」の同質性と忠誠とい
う幻想を維持することに役立つからなのだ。
(辺境から眺める、モーリス=スズキ、164-5)

■ひきこもりの国民主義
岩波書店、2017
人間科学はその発展とともに、自らのうちに、主権と植民地主義の両者を通じて配置される「世界史」という前提条件を宿してきたのである。139
戦後の日本はアメリカ合州国の属国   197
1950年代以降のアメリカ合州国の東アジア政策にとっての日本の重要性  198



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