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総合学習を学びの広場に 手づくりと協働の知恵

319-4(1380)総合学習を学びの広場に 手づくりと協働の知恵
岩川直樹、大月書店、2000

『貧困と学力』を伊田広行さんと一緒に出している。埼玉大学教育学部がんばれ!

この本が出された時から状況は総合学習にとっては逆風だ。2002年にESD持続可能な開発のための教育推進が合意された。2005年から始まった10年行動計画。来年がその中間評価時期に当たる。

教員養成はどう変わったのか。
現職教員に対するESDへの舵きりへの支援はどれほどすすんだのか。
教材開発の支援はあったのか。
教材の提供はどうか。

現場での実践についての評価はできているのか。
子どもの変容はモニターできているのか。

全体的な状況を見ると、絶望的だ。

教育新聞などに、個別の取り組みは紹介されている。
そして、ESD-Jや国際交流協会などから、元気な実践報告も見える。

しかし、総体としての学校教育は、どれほどESD化したと言えるのか。

<私>をキーワードに学びと学びあいを取り戻そうという主張は、1980年代の「教育の人間化」の中の「学習者中心主義」的カリキュラム理論と共通だ。そして、もちろん、1980年代に開発された『ワールド・スタディーズ』の参加型アクティビティによる教え方・学び方は、その流れを受けている。

<私>を学びの中心にすえ、その<私>の手探りと手作りが学びをつなげていくという発想は、総合学習の基本である。科学は細分化専門化高度化し、そして学際的と言われる試みも総合科学とはなりえておらず、カリキュラム論で言うならばクロスカリキュラムに留まっている。

コアカリキュラム、何かを中核として、学習内容を総合する。そのコアとなり得るものの一つが<私>だろう。わたし自身は大学院の時の総合学習の教材開発研究では「米」「水」などのテーマをコアにカリキュラム統合を試みた。
<私>であっても、一つの物であっても、すべての存在にはすべての科学的分析が可能であるので、教科的な学習内容を総合するコアとしては、実は何をとりあげてもいいと悟った。ただ、どれほどの科学的な探究が可能な素材であるかがポイントではあった。

<私>をコアにすることとの違いは、その動く主体性にある。だからこそ、参加のスキルや参加の機会、参加の権利・シチズンシップの学習などが同時に達成されるカリキュラムが望ましいわけだ。

学びを参加のプロセスととらえなおす。
学びのプロセスをらせんに描く。
惰性に抗う教師たち
抵抗=創造のポリフォニー

など、賛同できるフレーズばかりだ。

残念なのは、この総合学習の試みにESD的な、国際理解教育的な、つまり人類共通の課題解決的な要素が感じられないところかな。それでも190ページは書かなきゃ伝えられないのだから、総合学習の実践を共有し、方向性に合意し、人材育成に活かして行くという作業は大変なことだよね。
by eric-blog | 2009-10-07 09:47 | ■週5プロジェクト09
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