人気ブログランキング | 話題のタグを見る

サバルタンは語ることができるか

309-5(1349)サバルタンは語ることができるか
G.C.スピヴァク、みすず書房、1998

スピヴァクを理解するためにはマルクスとデリダから始めなければ、何を言っているのか、わからないのだろうなあ。『スピヴァク、みずからを語る』は、多少はおもしろかった。サリーを来たインド人として1961年にニューヨークにいるという状況を想像するだに、その大柄で、インド人美人の典型のような彫りのくっきりした顔で、すっぴんで、短髪で(いまはともかく、昔はどうだったのかな?)という、その当時の「WASP社会における女性像」を裏切る姿であったことは知れる。サリー姿に「インド人女性の伝統主義者」の姿を見たがる人も
いたことも。そんな彼女の自己形成史は、マルクス、デリダを知らずとも、読める。

ジュディス・バトラーとの対談である『国家を歌うのは誰?』も難解だ。

しかし、どうしても、この「サバルタンは語れない」という彼女の論を紹介したい! 『わたしのからだは頭がいい』なんて本は、本のタイトルがすばらしいと、紹介しているように。この本は、その結論だけから、一人ひとりが考えを進めていける素材として紹介したい。

116
サバルタン*は語ることができない。グローバル・ランドリー・リストに恭しく「女性」という項目を記載してみたところで、こんなものにはなんの値打ちもない。表象=代表の作用はいまだに衰えていない。

サバルタン女性(the subaltern woman)[従属的地位に置かれている女性]p.2

だから、女性知識人がサバルタンを代表、代弁して語る時、その人は「女性知識人」としての自分を引き受けるべきなのであって、サバルタンであるふりをすることはできない。とスピヴァクは戒める。

また、スピヴァク・リーダーの編集者らがまとめたところによると、

サバルタンは「その声を聞かれる」場合には、サバルタンではなくなる。144
サバルタンという、社会を構成するもっとも抑圧された不可視の階層が、そのようなものとしては存在することをやめるようになることが、スピヴァクの求める倫理的関係性の最終目標である。144-145

寡婦殉死を「女性たちはほんとうに望んでいた」82という報告は、何を意味するのか。

人権は人権を求める人に与えられる。人権を求める心が普遍的なのだ。

「従属的地位に置かれている女性」を取り巻く社会環境に切り込まなければ、「声」をだせる倫理的関係性の構築には、至れないよね。
by eric-blog | 2009-08-29 10:29 | ■週5プロジェクト09
<< 特別支援校 人権研修 劇場型社会の構造 「お祭り党」... >>