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リキッド・ライフ 現代における生の諸相

283-3(1271)リキッド・ライフ 現代における生の諸相
ジグムント・バウマン、大月書店、2008

差し出されるものと軽くかかわり、そしてそれを上品に手放す
所有物、状況、人びとは滑るようにどんどん通り過ぎていく

「私には浅田先生がいた」を対比させて読むと、このリキッド・ライフが描き出す「軽さ」は特権だと思える。

では、その変化と軽さが、生命にとって「異常なのか」と言うと、わたしたちの身体自体は「リキッド」な存在であることに思いいたる。

120日で入れ替わる細胞。体重60キロであれば、毎日500グラムが入れ替わる。
毎日2000-3000カロリー、炭水化物500-600グラム、油脂10グラムその他を摂取し、プロセスし、からだを維持している。

その芸当から比べれば、現代の社会が飲み込み、処理し、捨てている「流れ」など、取るに足りない。

わたしたちが、身体を「固体として捉えていたのと同じように、わたしたちの社会を「固体」と捉えていたのだ。

生命を「流れ」として捉える視点が得られた時、社会も「流れ」として捉えられ始めたということか。ただ、それに慣れていないために、「めまい」がするだけだ。

「流れ」でありながらも、「生物」という「物」であるためには、「大きさ」が必要だった。それと同様に、社会が「流れ」でありながら、「固体」であるためには、規模が必要だっただろう。リキッド・モダン、リキッド地域研究、リキッド・ライフの認識は、地球規模という規模を認識論的に獲得できて初めて、課題とされるようになった。

そんな感想を持った。

個人、個性、自由と選択などの諸概念がどのように、いつ生まれたか。

「個性というものが、自己を解放し自己を主張しようとすることであるなら、それははじめからアポリア、つまり解決不能の矛盾を背負わされてしまっている。個性的であるには社会が必要である。個性は社会の中で育まれ、社会に向けて示さなければならない。・・・個性的であることは、個人志向社会が、そのメンバーである個人に課した課題である。」37

「グローバルな貧困層は敗走している。ただし、金の力で追い立てられたからではない。それまでいた僻地が病弊し変貌してしまったために、そこにいられなくなったからである。」ジェレミー・シーブルック、43

「アイデンティティが、何かに対する一度きりのコミットメントで、いったんなされたら永遠に続くはずのものだったこともある。しかし、いったん、そうだなくなってしまえば、そして、取り除けないはずの過去の遺産が失われ、信頼しきることができた安息の地と死に別れて、孤児になってしまったら、「アイデンティティ」はむしろ個人の一生涯の課題となってしまう。」62

「生産主義症候群が支配した「生産社会」の二つの価値「じっくり取り組む」と「楽しみは後回しにする」ことを、消費主義症候群ははっきりと否定する。」144
「消費主義症候群のポイントはスピード、過剰、浪費にある」145
「消費社会は過剰と放蕩の社会である」146
「消費主義とは、欲望を充たすことではなく、さらなる欲望を引き出そうと、欲望を駆り立てることである」159

子どもこそが、ターゲットにされている。
by eric-blog | 2009-02-26 10:43 | ■週5プロジェクト08
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