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日本の美林

268-1(1164) 日本の美林
井原俊一、岩波新書、1997

Old Growthは美林とでも訳せばよいのだろうか?

原生林だけでもない、人工林だけでもない、日本の多様な森林経営の姿がレポートされている。その数24。

共通するのは残した、作った、構想した人の物語だ。
見る側、利用する側、育てる側それぞれにとって「いい森」役立つ森。

スギ、ヒノキばかりを「いい森」とした戦後の誤算を経て、著者は改めていま「いい森」を取り戻す知恵を求めて全国を訪ねたのだ。

屋久島 スギ原生林
1640年頃から泊如竹の献策で伐採開始。利用と保護の調和が「山の神」信仰によってもたらされた。最高齢の縄文杉は7200年。

白神山地 ブナ原生林
17000ヘクタール 世界遺産 青秋林道の建設に地元赤石水産漁協が反対 保護にいたる

奥秩父 コメツガ原生林
9000ヘクタール 1947年から伐採開発 1969年に西武池袋線が秩父まで開通 保護運動が 周りのカラマツ人工林と天然林化している民有林の二種の森林とともに未来を考え
る必要がある。

木曽 天然ヒノキ
2万数千ヘクタール 社寺仏閣材 天然林施業 戦国時代が終わり未曾有の建築ブーム!資源が枯渇し1665年から尾張藩が保護政策

秋田 天然スギ
1704年から保護政策に。30年ごとに切り出す「番山繰り制度」など百年かかって美林に。藩有林から明治の国有林に95000ヘクタール。潤沢に切り出され、いまや5000ヘクタール
が残るのみ。大木を抜きぎり択伐後自然発生した苗木を育てる天然林方式から、ドイツ林学を手本に人工林方式へ。回帰しようとした矢先、戦中の大量伐採で施業方式が崩壊。

青森 天然ヒバ
大畑営林署 17000ヘクタール 年間4万立方メートルを伐採。30年に一度大径木を中心に約
30%抜き切り。 松川が1930年に始めた天然林方式だ。

高知魚梁瀬スギ
小倉と野中が1617年に目指した幹回り八尺での伐採サイクルとは樹齢300年にあた
る。廃藩置県とともに崩れ、いまや1800ヘクタール 200樹齢での伐採サイクルを目指した
取り組みが始まったばかりだ。

奈良 吉野スギ
酒樽用の樽丸林業地 年輪と平行にとる板目どり。 16ヘクタールに五本の年輪。水がもれ
にくい。密植・多間伐・長伐期 間伐を10回以上100年から120年で収穫。村外所有
者と現場の山作業を行う「山守」 間引き材からの収益も含め常時収入につながる
山林経営へ
1ヘクタール当たり年間47万円ほどの収入に。
日本の山持ちの9割が10ヘクタール以下。吉野の例は山林しかない山村には魅力的だ。

慶長スギ 鳥取智頭の里
400年前に植林したものが残っている26本。
切らずが肥え とはいえ相続税などで山は痩せて行く。

庄内・クロマツ林
延長34キロ幅1〜3キロ。18世紀から植林の取り組みが始まり、1746年には「一枝おれば一指折れ」という厳しい保護策も取られたほど。海岸林の完成は1965年。植林の結果、生活環境も随分改善された。にもかかわらず1970年には酒田北港工業開発の手が入る。200年かかった努力が、皮肉なことだ。

南部・アカマツ林
北上山地北部。極端な陽樹。人間が本来の森林を切り開き、明るくなった跡地に進出。人間の生活圏の拡大とともに、その生育地を広げてきた。天然更新という育林技術。自然に落ちた種から林を仕立てて行く。ぽつんぽつんと立つ母樹から。1ヘクタールあたり、30-40本の母樹を伐採時に残す。しかし、人と社会のアカマツ離れから、減少中。

信州・カラマツ林
いまとなっては信州の風物詩であるカラマツは明治初期に苗木の育成に成功、導入されたもの。4万3000ヘクタール、人工林の8割を占める。

紀州・ウバメガシ林
備長炭の原料。収穫は4年に一度。抜き切り(択伐)。この育林技術が確立したのは300-200年前。和歌山県全体で6000ヘクタール。皆伐方式の出荷方法に脅かされている。
綾・照葉樹林
宮崎県綾町。1800ヘクタール。国有林。1967年、町が伐採に反対。国定公園の指定へ。

奥多摩・水道水源林
対照的な二つの里山がある。黒い針葉樹の青梅林業地、私有林中心。天然林の側は東京都水道局の水道水源林。100年前から管理。2万1500ヘクタール。山梨県域64%、東京奥多摩町36%。
1893年、神奈川県域であった多摩三郡を多摩川の水を守るために東京府に編入。本多静六の提案。天然林重視の政策は1976年から。

富良野・トドマツ混交林
東京大学・北海道演習林。2万3000ヘクタール。クマゲラひとつがいに必要な森林面積は300-500ヘクタール。そのクマゲラが100羽を越して生息しているという。20種のほ乳類、120種をこす鳥類。毎年800ヘクタールの森林を対象に、立ち木の205、蓄積量の10-14%を抜き切り方式で伐採する。
伐木、搬出、土木、会計、動物担当などの演習林の職員が検討会を開き、切る木を選ぶ。
林道の延長は850キロ。皆伐しない森づくりの基礎は1976年まで林長だった高橋延清による。択伐林分、補植林分、皆伐林分(林の成長が悪く、後継樹も育っていない場所を皆伐、全面的に植え替える。)の三つのタイプ林分に分けた「林分施業」を実施。基本は択伐林。ドイツと違い、林の自然更新をさまたげているササの存在の対策が日本では必要。成長量を最大に保つプレクライマックス状態の維持。

山原・イタジイ混交林
国頭、東、大宜味三村合わせて2万7000ヘクタール。イタジイは「役立たずの木」として取り残され、大木となり、そのウロが野生生物の住処を提供している。貴重種が多いヤンバルだが、ノグチゲラ一種でも、保護のためには3000ヘクタールのつながった保護林が必要。にもかかわらず、開発の脅威が広がっている。

朽木・ブナ混交林
滋賀県くつき村。京都大学芦生演習林。4200ヘクタール。スギと広葉樹の混交林は、手間いらず。広葉樹を15-20年のサイクルで抜き切りし薪炭材やパルプに。スギは50-100年の樹齢で切る。
丸太の品質が劣る、作業効率が悪い、動物被害が多い、などの問題はあるが、人工林と同じ程度の木材収穫量はある。この土地に生育するアシウスギは特に耐陰性が強く、発根性に優れている。広葉樹を切りすぎるとスギが育たないこともある。

襟裳岬・魚付き林
明治初期から入植者による伐採のために砂漠化が進行。1939年まで放置。1953年から緑化への再挑戦。草地緑化、樹木の植栽、クロマツの発見。現在130ヘクタールの森林に。効果が現れたのは1955年。泥水がへり、海水がよくなった。コンブの品質が向上。漁業も挽回。

足尾銅山・土砂防備林
17世紀から始まり、明治に最大の産出量を誇った銅山。燃料となる木を切り出すのと同時に、亜硫酸ガスによる被害にも。足尾銅山による森林被害は5万ヘクタール。1956年に緑化が軌道に。1973年に閉山。いまも緑化の作業は続いている。もともとのブナミズナラ林にするにはさらに数百年かかる。

明治神宮・境内林
72.2ヘクタール。林学から本多静六、本郷高徳、農学・造園の原凞、折下吉延などが両系統から参加。「永遠の杜」を目指して常緑樹を中心にした自然林を目指した。
陽樹から陰樹へ、極盛層という植生遷移を実践。完成には100-150年かかる。陽樹のマツ中心から、耐陰性のある針葉樹、そして最後に代々木にあった常緑樹の森になって安定。1916年1917年に献木を受付。12万本を植樹。

高野山・マキ群落
女人堂下に30ヘクタールのコウヤマキ植物群落保護林。一にヒノキ、二にコウヤマキ、スギ、アカマツ,ツガ、モミの「高野六木」を積極的に植林。山上都市を支える必須樹木で囲まれてるのだ。深山の霊木コウヤマキも、人間の利用がなくなると同時に、なくなりつつある。

身延山・巨杉群
追分登坂の「千本杉」樹齢約285年。0.8ヘクタール。
明治になり、国有林、御料林となるが、返還運動を実施。第二次大戦後の財政難で大量伐採。それに対する批判から、現在では保護・環境重視。

吉野山・桜樹峰
50ヘクタール、推定三万本。国、県、個人、吉野桜保勝会などに所有が分散。300戸が総出で手入れをしてきた歴史はいまはすたれ、サクラ山の樹勢も衰退している。

日本の森林の二つの節目・
1600-1700年.の木材の大消費時代、大伐採時代。
美林のほとんどはその後の努力。原生林が失われたのも1600年頃。
天然林から人工林にかわった明治時代が二番目の節目

環境と資源

森林の二つの機能を充たす美林の後ろには人がいる。
by eric-blog | 2008-09-05 12:06 | ■週5プロジェクト08
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