207-3(998)アウシュヴィッツの残りのものアルシーヴと証人
ジョルジョ・アガンベン、月曜社、2001
アルシーヴというのはarchive国文書館のような公文書が保管されているアーカイブ。文書そのものというよりはその内容が重要なのだと著者は言う。そして、アウシュヴィッツは言語を絶する行為であり、事実であり、場所であり、人々の生のことであったがゆえに、アルシーヴに入れられている証言の再評価を通じて、後世は理解を超えた理解に挑戦しつづけるしかないのだ。
二つのことを紹介したいと思った。
ひとつは解放されたときには三歳ぐらいであって、言葉を発することのできないフルビネクという子どものこと。そしてひとつの意味不明の言葉以外には何も「証言」することなく1945年3月に死亡した。50
同様に、「回教徒」と呼ばれているからだに栄養失調のためのむくみの出た収容者たち。
彼らは生きることへの本能だけの存在になっている。
その存在そのものが証人である。
後に小説家となったレーヴィは、非人間的なアウシュヴィッツの生を生きのびることを「証言のため」と心決めて生き抜く。
子どもの頃に級友からいじめられていた時、将来このいじめをネタにしてやると思って耐えていたというタレントが居た。
わたしたちの時代は、どれほどの証言を積み上げられても、結果的にはこのタレントの「証言」とアウシュヴィッツの証言との違いを、言えない時代になっているのではないか。
アルシーヴに意味を探りつつ、時々には取り出して新たな光を当てつつも、光も影も意味が違ってきてしまうことについて、まだ1942年生まれのアガンベンは許していないのだということはよく理解できた。