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翔べ! はぐれ鳥 立ち直った崩壊家庭の子どもたち

124-4(579) 翔べ! はぐれ鳥 立ち直った崩壊家庭の子どもたち
小林道雄、講談社学術文庫、1991、原著1986年

『退化した子どもたち』が、ジュンク堂にもなく、図書館にもなかったので、別の本
を紹介します。

小林さんの本は、『崩壊する日本警察』『少年審判』も読みましたが、「東京憩いの
家」の活動を通して、現在の子どもたち、そして家庭の姿にせまっているこの本がい
ちばんいいと思いました。『少年審判』は小説仕立てで読みやすいという点がお勧め
です。また、少年法の改制についての議論が起こっていた時のことなので、「いまの
子どもたちは精神的に幼くなっている。その子どもたちに合わせて、少年法の年齢を
上げることはあっても、下げるのは逆行している」という指摘が印象的でした。学校
というところで、うすっぺらに育つ子どもたちの姿、学校を外れたら「フツー」でな
くなる子どもたち。「フツー」でなくなると切り捨てられる社会。日本の戦後、個性
の尊重と言って来たけれど、これでは戦前の全体主義、ファッショとどこが違うのだ
ろうか、との指摘も。
規範意識が希薄というとき、管理する側からの規範と、内発的な規範意識の違いも明
確にする必要がある、と。いまの日本では、内発的な規範意識の涵養につながる働き
かけが少ないのだと。
小説以上の読み物ですね。

せまいなあー、学校から吐き出される人間の幅が。切りまくってるね、人間のつなが
りを。それでもって「子どもが切れる」なんて言っているんだから、どうしようもな
い。切り返されていることすら、気づかないんだから。

人間の安定した成長には、家族、風土(気象と気候)などという息、空気、水、土が必
要なんだろうなあ。って『家栽の人』みたいだね。

「憩いの家」は、教護院を訪ねたりした時に、その活動に一度出会っている。が、恒
常的な支援者となるまでは行かなかった。とても、通信などを読むのがしんどい思い
があったからだ。

著者である小林さんも、勧められて取材をしながらも、活動の取材が即当事者である
子どもへの取材とならざるを得ないことに当惑し、そしてこの本が社会に受け入れら
れ、評判となり、文庫にもなるのに、自分は何もその後のフォローもできていないし、
何も貢献できていない、と諄く。そんな思いに、誰しもがかられるのが、「憩いの家」
の活動なのだ。

義務教育年齢までの子ども、そして高校進学した子どもだけしか受け入れない養護施
設。そもそも一人のスタッフが15-18人の子どもを見ている三交代制の養護施設のあ
り方そのものにも問題があるのだが、15-18才の空白の期間、要養護と判断された子
どもたちが一人で自立の道を歩けるはずもない。その空白に手を伸ばしたのが憩いの
家であり、その後「自立支援ホーム」として増えた小舎型(コテージ・システム、グ
ループホーム型)実践の始まりでもある。

きっかけは、戦争直後から続いていた浮浪者救済に関わっていた財部実義氏と大学院
生だった広岡知彦さんとの出会いからだ。財部さんのルーツは賀川豊彦のセツルメン
ト活動につながる。
1965年、戦争孤児の問題とは違う「崩壊家庭」という課題が見えて来たころ、子ども
のための施設を創りたいと財部が表明し、それを見た広岡が、ヒューマニストの寝言
的な言い方ではなく、実践的に考えれば、実現するよ、と場所探しから取り組んだ。
以来30年。

養護施設批判でも、なんでもなく、逆に人間が育つということにどんなものが必要な
のかを憩いの家の活動は描きだす。
一人の人から見られていること、
一人の人から愛されていること、
一人の人から気に懸けられていること。
それらが具体的な身体のこととして、実感できること。ハグ、視線、ことば、行動。
他者の中に、トータルな存在として映し出され、位置を占めること。

遅いから切る
勉強ができないから切る
言うことを聞かないから切る
集団行動ができないから切る
フツーじゃないから切る

切った子どもを「透明な存在」「お客さま」として扱うこと。そのような扱いを他の
子どもたちにも「見せしめる」こと。無関係な他者にしてしまうこと。

そんな中で、どんな子どもたちが育つのだろうか。

なぜ、子どもという存在が、大人の心の中に存在を占めることが難しい社会になって
しまったのだろう? いや、子どもだけなのではないのかもしれない。

わたしたちは、わたしたちなのだ。切っても、切っても、わたしたちが切り傷を負う
だけなのに。

子どもたちとの細い糸をつなぎ続けること。このような活動をしている人々の多くが
キリスト者たちであることにも気づく。先日、キリスト教系団体の方が、日本社会に
おけるキリスト教者の減少傾向について語っておられた。0.9%。

せいぜいがんばっても「ご近所の底力」しかない日本は崩壊する、しかないのか。わ
たしたちの根っこに、ルーツに「博愛」はあるのか。
根っこにないなら、頭で切り開こうよ、広岡のように。わたしたちの社会のかかって
いる生活習慣病、いな自己管理不全病から脱却するために。

【引用】
1974年、孤児はひとりもおらず、崩壊家庭の子どもが養護施設のほとんど。孤児対応
だった施設がその変化に対応していない。27
「みるほうの集団」と「みられるほうの集団」のぶつかりあいになり、人間関係は薄
くなる。39
決まりとしての罰則や職員の体罰を源として、子どもの社会にも力の支配が浸透する。
31
子どもが自分のためだけに勉強するというのは、たいへん難しい。親のア以上や期待
から、勉強する意欲を持っている。32
集団養護のもう一つの問題点は、社会から隔離されたかたちの閉鎖性にある。32
集団養護方式で、翔べるはずのない子を飛び立たせ、墜ちたらお情け型の援助をする。
35
精神的な崩壊家庭。51
我々の社会は、自分たちの秩序や常識に適応できない人間を、とかく「あいつはダメ
だ」と差別したがる。...差別された者は反発する。だが、反発と回避を続けていれ
ば、結局その人間は差別を引き受けてしまうことになる。
憩いの家の仕事というのは、つまるところその差別を受け入れさせないための指導と
いっていい。79
大人としの「面子」98
教師が教師とという面子を捨てるほうが先。100
(ワルぶるのは)社会の複雑なメカニズムを理解する力もない弱い立ち場にいた人間が、
一つのイデオロギーなり教義なりを手に入れたとたんに強くなるのと、それはまった
く同じと言える。119
他律的な規制の強化は、自分を棚に上げたかたちの依存しか招かない。171
さらに悪いことは、そんな管理による秩序でも、表面的にそれがいじされていること
によって、本来要求されるべき主体的な努力が問われなくなる。...自主的な意思力
を育てるための教育がなおざりにされるということだ。..他律的な規制の強制ほど、
教育を害うものはないのではないか。171
かつては多かった職親的な存在は極端に少なくなり...産業社会自体が「育てる社会」
ではなくなった。193
見えているものに躓いたのではない。見えていないから躓いたのである。195




【情報アラカルト】
自立援助ホーム一覧
http://www2s.biglobe.ne.jp/~center/itiran.htm
28施設、定員217名

米国務省統計によると2005年の海外養子縁組数は2万2739人。年間20万人の養子縁
組が実施されている。

日本では約3万人が教護院、養護施設などで、養育されている。

静かなたたかい  広岡知彦と「憩いの家」の30年 お奨度:☆
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著者:財)青少年と共に歩む会編-朝日新聞社、1997年  ¥2000-
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著者の略歴- 広岡知彦の経歴=1941年、東京生まれ。東京大学卒業。理学博士。
1986年憩いの家の専従職員となる。1990年吉川英治文化賞受賞、1995年
肝臓ガンのために、54才にて死去。
http://www.netpro.ne.jp/~takumi-m/book/160-shizuka-tatakai.htm


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by eric-blog | 2006-03-02 10:21 | ■週5プロジェクト05
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