特集「大事なものは目に見えないII」
暮らしと教育をつなぐWe2022年8月9月号239号
4400冊目
とても重要な情報をいただける定期購読誌、二本目。
ああ、やっぱり。
チェルノブィリと同じことが、起こっているんだ。
「10年誰にも言えなかった」―福島子ども甲状腺がん訴訟・原告の思い 片山夏子
『ふくしま権利条約作業員日誌』の著者。
やっぱり甲状腺がんなんだね。
医師は言下に「原発事故とは関係ないから」という人もいるらしい。
「声をあげた甲状腺がん患者たち」 岩崎眞美子
「311子ども甲状腺がん裁判」
MINAMATA 上映会とトーク。
アイリーン美緒子さん。
https://ericweblog.exblog.jp/14851576/
わたしたちは時間稼ぎをされているのだと思う。忘却することを。無関心になることを。当事者が孤立することを。希望が死に絶えることを。
■ジソウのお仕事、その後 青山さくら 「おいしいごはんの作り方」
お母さんは裕福な家庭で何不自由なく育ったらしい。幼稚園から大学まで「お嬢様学校」に通い、卒業してからは読書と散歩。働いたことがない。お母さんの母は、娘を愛玩動物のようにかわいがり、先回りしてすべてのことを整えた。・・・
ひとりでスーパーに行くと、何を買っていいかわからず、不安になって目が回って倒れたこともあったらしい。・・・味見してと言われても、濃いのか薄いのかわからず不安になる。・・・食べている姿を誰にも見られたくない。
こんな極端な育ちがあり得るのだなあ、と思った話が紹介されていた。
■証言者と語り部 高村美春 p.68-69
「福島第一原発から25キロに住む一人として」高村美春さんは、「証言者と語り部」という提案によって「知った責任」「伝える責任」をより広い人と共有したいという。福島第一原発事故は、広い意味では東京人も「当事者」だ。わたし自身、3月14日に計画停電の中にある東京駅を離れていく新幹線の中での体の震えを忘れられない。そういう意味では当事者であったし、その後の数ヶ月、あらゆる場所で、多くの人が多弁に語っていたことを思い出す。みんな当事者だったのだ。
2011年5月、やっと日常の感覚が戻った、と思たと同時に、東京から「福島」が消えた。その後、は続いていたにもかかわらず。当事者性は薄れた。薄れていく中で、反対運動への熱だけは高まっていた。当事者だったものの責任感の表れとして。当事者だったことを忘れまいとして。
そのことも含め、高村さんは、その後の証言者として、「あの時、私が見たこと聞いたことを調べ、そしてそれにつながる言質を掴み、行動した事実を捉え、真実を人々へ伝えていく。私は「語り部」ではなく、「証言者」なのです。
「私のような体験者の話を聞き、そして言質を訪れその目で見る。それから自分の住む環境へ戻ったら、今日の話を現地のことを自分の口から伝え語ってほしい。あなた方こそが「語り部」なのです。」と。 p.69