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ことば・言葉・言語 TESTin大阪 2019 補足

ことば・言葉・言語

『いっしょにESD(ERIC2007年出版)より


PLTコーディネーター会議(2006年、バージニアビーチ市開催)Bertica Rodliguez-McClearyさんのプレゼンテーションから学んだ概念、BICsCALP


https://ericweblog.exblog.jp/3671967/


(当時はまだproficientyを熟達と訳していましたが、今は「流暢性」と言っています。熟達という単語にはプロセス指向性が高すぎて、結果として獲得された力という意味合いが薄いように思うからです。)


p.19の表の「一次言語」の説明で、今回、研修で紹介した「母親語」の特徴が書かれていない。p.53の表の「◎家庭教育」においても説明がありません。

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正高信男さんの『ことばの誕生』(1991)を読んだのは2005年ですから、すでにわたしの情報としては入っていたはずなのですが、なぜか、あまり「母親」からの働きかけとことばの獲得についての説明はしていませんね。ジェンダーバイアスについての配慮を書き込む余地が「一概念、一ページ」で構成していた『いっしょにESD!』に入りきらなかったか。

https://ericweblog.exblog.jp/1979998/


もう一つここで取り入れている概念としてp.18の図にも紹介していますが、「遺伝型」「継承型」「表現型」という、遺伝子によって決定される生物的条件の上に、人間は「遺産型」あるいは「継承型」と呼ばれる「社会的決定因子」によってことばを獲得し、社会を形作り、文化を継承する。

そのことは『読むことの歴史』の紹介の中でも触れている。

https://ericweblog.exblog.jp/3530571/

この本は20064月に紹介していますから、PLTコーディネーター会議の前には読んでいたということですね。


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「表現型」とは、そのような遺伝的条件と社会環境的条件のなが育ちつつ、一人一人が「表現」している個性のようなものだ。


この表現は、リチャード・ドーキンスの『延長された表現型』からとっていますが、ドーキンス自身は、あくまでも「利己的な遺伝子」、つまり、わたしたちの行動は「生き延びようとする遺伝子」によってコントロールされているという立論の中で使われており、「個人的な選択の自由」としての「自己表現」とは程遠い概念です。(20069月読了)

https://ericweblog.exblog.jp/4358326/


2005年から2006年にかけて「言語」の獲得についてかなり本を読み込んでいたことがわかります。


課題としてはドーキンスの「利己的遺伝子」論と教育論の間の「認知的流動性」は許されるのか、ということかなあ。

それと、本当に「利己的な遺伝子」の最善の生き延びが、「いま」の環境破壊なのか? という点。


わたしの尊敬する三人の女性学者の一人、ヴァンダナ・シヴァさんはいまの社会のものの考え方そのものが破壊に繋がっていると指摘しているし、もう一人のヘーゼル・ヘンダーソンさんは「パラダイム・シフト」の必要性を主張している。

https://ericweblog.exblog.jp/969845/

https://ericweblog.exblog.jp/894704/

これらの本は2004年に紹介している。


アマルティア・センが言うような「アイデンティティを超える理性」などは、人間の「延長型」の特徴の一つなのではないか。


『風土』と言うのは、「日本人論」の一つとして、日本列島における「環境への働きかけ」が作り出している自然環境、里山であったり、森林経営とその結果としての景色であったりする。


「風土」は、「遺産型」なのか、延長された表現型なのか?

https://ericweblog.exblog.jp/3298634/


面白い課題ではある。


この頃に形成された「理解」の枠組みを崩すようなことは、まだ起こっていないなあ。

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ワークショップの「補助線」としての「分析の枠組み」の提供だからとはいえ、この「家庭教育」のブラックボックスは、空白すぎるだろう?


あちゃー、覚え間違い

アイデンティティに先行する理性 単行本 – 2003/3

https://ericweblog.exblog.jp/877911/

200312月読了



この本だっけ、インドに持っていって、誰もがアマルティア・センを知らなくてショックを受けたのは?


日本の翻訳文化のパターナリズムについて


二つの事例をあげた。

完訳版と帯にウタッテイる『スポック博士の育児書』。なんと第6章だか7章だったかの「父親の役割」とスバリ、タイトルもそのままの章が丸ごとカットされている!


もう一つは村岡花子さん翻訳の「赤毛のアン」シリーズ二作め「アンの青春」で、アンがアヴォンリー小学校の先生として初めての授業で、コオロギを通路で競争させている男の子、モーリー・アンドリュース、を罰した時、「叱られたことで胸が詰まった」と訳されていた。原文は、「コオロギを没収されて胸が痛んだ」。で、確認のために図書館でシリーズを探して、読んでみた。あれ?「罰されたことよりも没収されたことに胸が痛んだ」になっているぞ! (p.60、思い違いだったのか? 実は、この文庫版は、2008年に大改訂されていて、「村岡花子さんのニュアンスは保ちながら」書き換えたと言う。きっと、修正したのに違いない。)


・アンの青春 新潮文庫、平成202008年、最初の翻訳が出たのは1955年。原著の初版は1908年。100周年を記念して改訂したと、後書きにある。


このように、意図的、非意図的に「日本社会は・・・」とか「日本人は・・・」のような判断が翻訳には入ってくる。あるいは翻訳者の文化的思い込みとも言えるか。


永遠の赤毛のアン。とはヘミングウェイが言ったことらしい。


シリーズの中でも『赤毛のアン』は多様な翻訳が出ている。

シリーズそのものも掛川恭子さんの翻訳によるものが講談社文庫で2005年がある。くだんのくだりは「モーリーにとってはコオロギを取り上げられたことの方がずっとこたえた。」p.64


じっくり読み比べてはいないが、村岡さんの古色蒼然たる言い回しが、合っていたようにも思う。



■TEST in 大阪 2019
セッション1で紹介した参考文献


川田順造

無文字社会の歴史

川田 順造、岩波書店、1990

https://ericweblog.exblog.jp/969827/


コトバ、言葉、ことば

https://ericweblog.exblog.jp/858274/

アフリカの声

川田順造、青土社、20046

https://ericweblog.exblog.jp/1259044/

川田順造、ちくま学芸文庫、1998

単行本は筑摩書房から1988年。

https://ericweblog.exblog.jp/1355826/


白川静


漢字  生い立ちとその背景

白川静、岩波新書、1970

https://ericweblog.exblog.jp/2222589/


読むことの歴史

読むことの歴史 ヨーロッパ読書史

ロジェ・シャルティエ、グリエルモ・カヴァッロ、大修館書店、2000

原著1997

https://ericweblog.exblog.jp/3530571/





by eric-blog | 2019-05-06 18:26 | ☆よりよい質の教育へBQOE
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