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なぜ人と人は支え合うのか 「障害」から考える

なぜ人と人は支え合うのか 「障害」から考える

渡辺一史、ちくまプリマー新書、2018

3261冊目


すべての人が持っている普通の生活を送る権利をできる限り保証する=Normalization 、ノーマライゼーション


相模原事件の加害者、植松聖被告は、この本が書かれていた段階でも彼自身の考えを改めることはなく、自分の考えに賛同しない人に書簡を送りつけることを続けているという。20184月、その手紙が最首悟さんのところにも届いた。「大学で指導する人が、社会の負担になる重度障害者と暮らすなんてありえません。」と。


最首さんは障害を持つ娘さんと暮らしている。手紙に怒りを覚えたが、植松被告を否定するのではなく、なんとかコミュニケーションできないかと接見と交流を続けている。


植松被告は、接見の時、話が混み合うと「ごめんなさい、勘弁してください」と思考を停止するだけだという。そして、自分の意見を伝えたいだけなのだと。


検察は「自己愛的性向」と分析しているようだが、最首さんは、わからないという。


最首さん自身は、娘さんとの生活でハットさせられることが多いという。ただただ生きる。そのことに打たれる。そして、温かい日向に、彼女がじっと抱かれたまま穏やかにいるとき、「まるで悠久の時間の流れにひたっているようなしあわせな気分をもたらしてくれる」という。77

そこには何かが共有されていると感じる。それは植松被告が求める「言葉による意思表示」や明示的なコミュニケーションではない。しかし、はっきりとそこにあるものなのだ。

そして、3年間という施設での経験の中でも、植松被告にはそのような触れ合いがなかったということだ。最首さんは、決して彼を非難することなく、いつか彼がほぐれることを待ち続けている。


人と触れ合うことができる人がいる。

「こうあるべきだ」という人間像に縛られて、それ以外のリアルな人間に、どうしても触れることができない人がいる。そういう不自由さを植松被告に感じる。そして、その眼差しは、きっと、彼自身が一番痛いほど、感じてきたのだろうと思う。健常者の不自由とは、The Normals常人の不自由とは、障害者の不自由よりも、見えにくいものなのだ。


ナディアを助けてくれた人がいる。

高齢者を助けてくれる制度がある。

障害者に介助しようというボランティアがいる。

「社会的障害」をなくそうと運動する団体がある。


それもこれも、人間の社会で起こっていること。支え合う心の現れだ。


それを「無駄」というのは、きっと、支えられたことのない、助けられたことのない、孤立した孤独な「健常者」なのだと思う。



by eric-blog | 2019-01-10 18:04 | □週5プロジェクト2018
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