冷戦から内戦へ
ハンス・マグヌス・エンツェンスベルガー、晶文社、1994
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19世紀に近代の諸国民国家を形成することとなった闘争は、単に没理性的な喧嘩の類ではなかったことが、思い出されるべきだろう。そこにはいやらしい排外主義的なパトスも働いてはいたけれども、そのことのみに目を奪われると、あの古い型のヨーロッパ・ナショナリズムの建設的営為を、見逃しかねないことになる。ともかくも当時のナショナリズムは憲法を生み、奴隷制を廃止し、ユダヤ人を解放して、法治国家と普通選挙権とを実現したのだ。今日の内戦の戦士たちには、このような新しいものを産出することは、全く念頭にない。30
彼らの口にする民族自決権とは、あるテリトリーの中で、誰が生き延びてよく、誰が生きてはならないか、を決定する権利のこと。
戦争はすでにそんな商売になっている。国家的に組織された大虐殺は、もはや十分な利回りを産むことがない。19
武器輸出は現在世界貿易の0.06%を占めるに過ぎない。
内戦を行なっている国は投資の対象国から外されてしまう。20
アフガニスタンの内戦は、ソ連による占領が終わったら、民族の解放が原因ではなかったことが明らかになった。
彼らには指導者すら必要ない。憎悪があればいい。
戦士たちは、勝利があり得ないこと、かれらにあり得るのは敗北だけであることを、先刻承知なのだろう。その上で、持てる全力をあげてかれらは、自分らの状況を極端にまで悪化させている。40
分子的な内戦も巨視的な内戦も、細部に至るまで似ている。41
自己破壊。
その自己犠牲が何のためかという対象は失われている。
内戦は永久には続かない。が繰り返し新たに始まる危険は、常に存在している。116
シシュポスが山頂に担ぎ上げようとしていた石こそが、平和なのだ。
分子的内戦とは都市ライオットのことだが、その場合も攻撃対象は自分たちのコミュニティであり、機能不全になれば自分たちが不利益を被ることがわかっているようなものでも、破壊し続ける。