手話による教養大学の挑戦

手話による教養大学の挑戦

斎藤くるみ編著、ミネルヴァ書房、2017

3142冊目


日本手話が「言語」であることは、よく指摘される。著者は、日本手話を学ぶことは、少数者の言語を学ぶこと、多文化教育に通じるものであり、マイノリティについての学びとして教養教育としての意義があるという。


日本手話が言語として認知されるようになって、「ろう者の大学事始め」と題する市民大学講座を著者らが主催し始めたのが2008年。平成20年。10人の講師陣が日本手話で専門的な内容を展開。


2011年平成23年に障害者基本法改正で手話が言語だと謳われるようになる前のことだ。


日本社会事業大学が日本手話を言語の一つとしてカリキュラムに取り入れたのが2007年。2014年には手話を受験科目として入試を実施。大学院の修士論文を「日本手話」で提出、修士号を取得したのが2016年と矢継ぎ早だ。


1990年平成2年の『ろう文化宣言』で木村晴美さんはいう。「第一言語(日本手話)で述べたものを日本語に翻訳してもらって提出するシステムを了解してもらえるように、大学側に働きかけていかなければならない」3


3章 ろう者が自らの「市民性」を涵養する権利と「日本手話」による教養大学 法律学授業を題材として 田門浩


教養教育とは「市民性」の涵養である。66


日本学術会議は市民性を「社会の公共的課題に対して立場や背景の異なる他者と連帯して取り組む姿勢と行動」と定義している。66


聾唖者に対する社会的な抑圧

労働、就学、などの差別。


明治から大正期までの教育方法は手話や筆談であっ。81

しかし、1923年大正12年、盲学校および聾唖学校令が発布された頃から、口話法が推進されるようになる。


「このような口話法教育は、聾唖者の聴者社会への同化を推し進め、手話や聾唖コミュニティーを抑圧する結果をもたらした。」81


手話が否定されたという状況に強く反応し、遅くとも昭和初期には、聾唖コミュニティーの中に、聾唖者自身の使うコミュニケーション手段たる手話が、言語そのものであるという認識が広まっていった。83


1928年昭和3年、日本最初の聾唖劇団「車座」創立。

聾唖コミュニティーにおいて公共圏の形成が一層進み、手話の重要性が高まってきた・・・元々公共圏とは、自由で対等な開かれた対話を通じて交易を討議する場である。聾唖者にとっては、このような対話を可能にするツールが手話であった。88


学校教育が進んだことで、進学も可能になり、そして職域も広がった。90


しかし、太平洋戦争開始後、聾唖者団体の活動は休止状態に陥り、再建されたのは戦後になってからであった。91


1947年、全国組織としての全日本聾唖連盟が活動を始めた。1948年、盲ろう教育の義務教育化が実現。



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by eric-blog | 2018-07-14 18:47 | □週5プロジェクト2018 | Comments(0)
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