「米軍が恐れた不屈の男」瀬長亀次郎の生涯
佐古忠彦、講談社、2018
3075冊目
2017年に公開された映画の監督が、映画の内容を書いたもの。見そびれている。
「弾圧は抵抗を呼ぶ
抵抗は友を呼ぶ」
瀬長さんは1999年92歳から入院していたが、なんと2001年9月11日の朝、心肺停止に。それから24日。10月5日に死亡。
1987年に衆議院議員を引退。
1970年、沖縄復帰を前に行われた国政選挙で63歳で当選して以来17年だ。
1956年には那覇市長に立候補。当選。しかし、米軍の嫌がらせは布令をも変える。翌年、6月には不信任決議を出され、同時に、逮捕歴のある人の被選挙権を剥奪するという行為に出たのだ。
次の市長選で勝ったのは、瀬長が押した兼好氏。
瀬長を追放したい米軍の焦りは、市長選にも勝利され、次期市長選も勝利され、高まるばかりだった。
そもそも、瀬長の政治活動は、1947年の沖縄人民党設立から始まる。
瀬長は、民主主義、法治主義を主張し続けた。
占領軍による支配ではなく、沖縄の権利としての統治を求めた。
1952年に琉球政府が設立された時にも、ハーグ陸戦条約に従って、「占領された市民は、占領軍に忠誠を使うことを強制されない」という条文から、米軍の支配に対する宣誓と取れる文書を拒否。
そのことによって、米軍に「好ましからざる人物」と記憶される。
この時、米軍は、日本本土と沖縄とでダブルスタンダードで支配を進めていた。民主主義のポーズを強く押し出していた本土では労働組合の活動を進めつつ、沖縄ではそれを弾圧していたのだ。
瀬長の人民党は標的となる。
1954年、でっち上げの罪状で逮捕、裁判、2年間の実刑判決。
瀬長は、刑務所の中でも戦った。「テロ禁止」「入浴などのルールの遵守」などを求めたのだ。
瀬長は、演説の神様であったという。
土地を守れ、支配を許すな。
その精神は、今にも受け継がれているという。
沖縄が捨て石だった太平洋戦争。そして、ダブルスタンダードの米軍支配。
その全てを見てきた沖縄人民の心を代弁できる男が、米軍が最も恐れる男であったのだ。
沖縄人民は忘れない。
やっぱりこの映画、見たいなあ。どこかでやっていないかなあ。