憎むのでもなく、許すのでもなく ユダヤ人一斉検挙の夜
ボリス・シリュルニク、吉田書房、2014
2717冊目
子どもはどう記憶しているのだろうか、震災を。
第二次世界大戦中のドイツ軍によるユダヤ人狩りを辛くも逃れ、「ユダヤ人」がなんであるかもわからない間に、そのことを隠すように伝えられ、平和になったら、「ユダヤ人」なのだから、学校でおこなわれているキリスト教の祈りに参加しなくていいと告げられる。
戦中は、ユダヤ人であるために、自分を語れず、戦後はその悲惨な体験のゆえに、語ることができなかった。
自分自身にも、文化的に許容できる物語として記憶を物語化する傾向もあるという。
しかし、それがトラウマになるかどうかについて、著者は「子どもの時に愛された経験」と「言語化」にあるという。
人に語れる物語であれ、語れない経験であれ、自分自身に対して言語化していることが、記憶がトラウマとなってからだを縛ることから逃れられるのだと。
言語化能力が感情を抑制する手段なのだ。67
戦後の東西の政治的対立も言葉を凍りつかせる。
「服従することによって団結し、団結することによって自分たちは強者だという感覚に浸った。」
「我々が服従するおかげで、我々の崇拝するリーダーは強いのだ。」
罰するのか、許すのかと、いずれの陣営もが聞いてくる。
隷属に幸福を見出すために服従するのか?
それともほんの少し自由になるために理解するか。320
正直に書き綴ることは、恐ろしく難しい。321
後ろを振り向き、自分の過去を眺めても「塩柱」になってしまうことなく、幸福に向かって歩んでいけるようになること。322
記憶は事実の断片。思い出はそれらを組み合わせて意味を付与したもの。思い出とは自分に語り聞かせる物語になる。自分に語って聞かせる物語によって希望を抱くことができなければ、我々はトラウマに悩まされることになる。325(訳者解題より)
レジリアンス
ヘコタレナイ精神。
トラウマになる人とならない人の違い。