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沈黙

沈黙

遠藤周作原作、マーティン・スコセッシ監督


21日の初日に池袋で鑑賞。3時間の大作だが、ずっと惹きつけられた。何に?

美しい風景と人間の心に、だ。


オーストラリアでロケをし、多国籍からなる「日本人」エキストラ3000人が出演している「場」は、本当に日本のどこかの海岸沿いの村落風景と見まごうばかりだ。美しい。泥と掘っ建て小屋とシラミと口臭で薄汚いはずの情景が、爪の先まで黒く汚れがこびりついている手が、どこか暖かく、懐かしいのだ。


衣装の毛羽立ちの細部に至るまで違和感がない。というか、知らないからかもしれないが。


映像的に違和感がなかったことが、集中して観ることができた大きな要因。


そして、ポルトガル語で話しているという設定の英語のセリフと日本語のセリフの切り替えにも、違和感がない。しかも効果的だ。素晴らしい。


西洋社会の宣教師たちが、植民地主義や奴隷貿易の尖兵であったこと、戦国時代から江戸時代初期にかけて、東アジアが列強に蚕食され始めていたことが、切支丹弾圧の時代背景としてあることは、どこにも出てこない。筑後守がちらりと西洋からの圧力に言及するのみだ。それも、神父とは噛み合わない。

http://www.shikishimanousagi.com/blank-1


原作では描かれているキチジローが生まれ故郷を離れた経緯と葛藤、そしてその村が差別されていることも、描かれていない。日本社会についての理解をより複雑なものにする要素ではあろうが。


映画は純粋に師の後を追って、キリスト教の布教にやってきた若き神父二人の行動と、その二人を匿おうとする隠れキリシタンの村人たち、殉教していく彼らの姿が描かれていく。


神父たちが来なければ、隠れキリシタンは見逃されていたのだ。村の長をリーダーとして、密かな信仰として。


そのことも、直截に語られる。厄介者払いをしたいのだと。


棄教を迫る弾圧は激烈、凄惨である。この辺りも原作にとても忠実。


しかし、原作ではそれほど強く感じなかったことが二つあった。これが、多分、監督がメッセージとして込めた想いなのだろう。


一つは、窪塚洋介さんが演じるキチジロウは、弱きものこそが救われなければならないことを、明確に体現していたこと。何度もなんども裏切り、その度に弱い自分を嘆き、そして告解し、罪が浄められることを求めるのだ。そして神父はそれに伝え続ける。


もう一つは、最後、棄教した神父に向かって神の声がかぶる。「私は沈黙していたのではない。あなたとともにあったのだ」と。これはすごい救いだなあ。


そしてフェレイラ神父の役者が素晴らしかった。


取調官の通詞が、ちょっと嫌味すぎる気がした以外は、よくできている。


信仰が、弱い人間に強さを与えることはよくわかった。しかし、その強さは間違って方向付けられることもある。


キリスト教に対抗するために、ことさらに仏教や日本の宗教が持ち出されていくようにも見えたのは、原作では感じなかった映画の効果か。




ものすごく詳しく映画の内容が紹介されています。
http://desireart.exblog.jp/23614184/#23614184_1
by eric-blog | 2017-01-22 17:09 | ◇ブログ&プロフィール
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