くう・ねる・のぐそ 自然に「愛」のお返しを
伊沢正名、山と渓谷社、2014/単行本2008
2653冊目
1974年ごろ、高校生の時に今関六也さんの菌類図鑑とカメラ、自然保護運動に出会う。
その後、菌類やキノコの写真を撮り続け、自然保護運動の中で出会った下水処理場建設の問題から、「野糞」派として、動物として、土に帰る糞の出し方にこだわり続ける。
自覚的になってからは、記録も作成。どのような変化によって、土に帰るかの観察研究にも取り組む。
わたし自身、カンボジアで二ヶ月暮らした時、野糞に出会った。
向こうの人は全員、野糞派というか、トイレがなく、朝、田んぼに出かけて行き、なんとなく、糞してくるという。その辺りをかける犬やら、にわとりやら、歩き回っている牛やらぶたやらも野糞しているのだから、人間の糞だけを衛生的に扱ったとしても、糠に釘、ヤケクソというようなものである。
しかしながら、日本人は、トイレがないと脱糞できないという情報がもたらされてもおり、急遽、竹組みで組み立てられた仮設トイレが設けられていた。そこを使うのは私ひとり。
しばらくすると、たまった糞にうじが湧いた。うーーん、問題を引き起こしているのは、ワタシだなと、思った。うじを殺す化学物質など、入手することなどできない。消臭剤もない。場所を移してもらおうかと、思案した。
と、次の日、トイレのドアを開けると鶏が数羽、慌てて飛び出してきた。うじから孵るハエを目当てに、結集していたのだ。自然は、それなりの解決をしめしてくれたのだ。これからは、ドアをノックしてから入ることにした。
気持ち悪がっていたのはきっと、カンボジアの人々だろうなあ。
東北カンボジアの少数民族の村も訪ねた。
野糞をしに行ったら、犬に後ろを取られた。糞はあっというまに、飲み込まれた。たのむから尻は噛まないでと思っていたが、向こうも、他の動物に先んじたい気持ちと、人間に打たれるかもしれない恐怖心とのせめぎ合いで、必死の表情であったのだ。
ま、野糞が問題なのは、人口圧と自然のサイクルとの兼ね合いだろうなあ。
野糞派とは言いながら、著者もそのことは重々わかっていて、アウトドア活動での野糞中心であるので、ご安心ください。
彼の心の傷は、そして、行動力は、子どもの頃に、「助けて」と声を上げていた女の子を見殺しにしてしまった体験らしい。110番する知恵すらなかったことへの忸怩たる思い。行動するということって、知ることとついであるなあ。