恩寵の谷

恩寵の谷
立松和平、新潮社、1997
2365冊目

田中正造ツアーからこちら、田中正造づいている。

どう語りつぐか。

事件の記録や田中正造伝はたくさんでている。マンガ『田中正造』あたりがいちばん手軽。

その中で、これはすごい。

立松さんは、よく足尾にも通われて、植林活動などにも力を入れておられたそうで、足尾環境学習センターには、立松さんの活動写真集が壁に掲示されていた。他の著者らにはない扱いだ。彼の環境活動家としての側面もあってのことだろう。

そんな思い込みもあり、この本も、もっと田中正造なのかと思って読み始めたのだが。あまりの面白さに読み切ってしまった。

最初は、明治時代にフランスから日本にやってきた鉱山技師の物語から始まる。そして生野銀山。さらに足尾。

鉱山に生きる人々がどのような思いで、山奥の、たいてい人里離れた、不便な場所で生きて行くかを描き出している。しかも、「あたれば長者」のわくわく感とともに。

言って見れば、足尾銅山を開発した側からの物語なのだが、それも古河その人を描くのではない。鉱山師であり、鉱山夫からの視線なのだ。

上流の村、下流の村の悲惨も伝わってくる。そこでの生活が破綻して足尾の活況に乗ってくる人々のことも描かれる。

すごい。

「作品」である。

作品とは、『保守論壇亡国論』(K&Kブレス、2013)の山崎行太郎さんのことば。左派論壇が崩壊していることは言うまでもないが、それにも増して、最近の保守論壇の劣化が政治をまずくしているという。そして、それは論壇を張る人々に「作品」がないからだという。

評論ではない。つぎはぎの思想ではない。

山崎氏の指摘を「おわりに」にまとめられていることを引用する。283

思考力の劣化は、「深く考えること」や「粘り強く考えること」を嫌い、「わかりやすさ」と「単純明快な答え」を求める。そこから「存在喪失」が始まる。「存在喪失」から「悲劇」は生まれないように、私の言う「作品」も生まれない。小林秀雄は「考える」とは、「かむかふ」、つまり物(存在)や身体と直接的に向き合うことだと言っている。
・・・昨今の保守論壇の思想的劣化、思考力の劣化は、「存在喪失」から始まっている。つまり、「深く考えること」や「粘り強く考えること」を嫌い、「わかりやすさ」と「単純明快な答え」を求めて、「思考停止」と「思考の空洞化」に陥り、その当然の結果として、思想的に地盤低下している。」

立松氏のこの本は「作品」である。

足尾銅山について描かれた一冊をと言われれば、これをあげる。


『毒 風聞 田中正造』1997
『白い河 風聞 田中正造』2010、立松さんの絶筆。戦争との関連を描いたもの。
「汗水流して働いた百姓から税金を搾り取っておいて、百姓たちが望んでもいない戦争にその税金を注ぎ込み、しかもその百姓を戦場に送り込む。」155 白い河、立松和平より

そうか、曾祖父が足尾銅山の鉱夫だったのか。
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by eric-blog | 2015-10-02 09:48 | ■週5プロジェクト15 | Comments(0)
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