死者たちの戦後誌 沖縄戦跡をめぐる人びとの記憶

死者たちの戦後誌 沖縄戦跡をめぐる人びとの記憶
北村毅、お茶の水書房、2009
A Postwar Ethnography of the War Dead in Okinawa
2363冊目

死んだ後にも「戦後」はあるのだ。

歴史が時代によって変化するということは、死者たちについての記憶も変わるということだよなあ。そんな当たり前のことに気づかされた。

それは靖国神社の問題を見ていてもよくわかる。誰が、どのように、なんのために、どういう位置づけで「祀る」のか。それが時代とともに変遷する。歴史が不変ではないように、死者たちの戦後史も、不変ではない。

今回、田中正造ツアーに参加するにあたって、持参した本がこれだ。そして、やはり、田中正造も死後変化し続けている。そこに共通点があるように思った。

いま、田中正造は、市町村行政の枠内に取り入れられている。市立博物館の中に、環境学習センターの中に、そして記念館の土地建物の提供を受けて、田中正造は存在している。

存在の意義付けは次のようなものか。
◎足尾鉱毒事件に学ぶ「公害」の歴史学習として
◎地域の名士として
◎世界遺産候補地として

しかし、今回のツアーで感じたのは、田中正造の息づかい、リアルに接した人々の記憶にも、とどめられているということだ。

沖縄戦において死者は
◎戦死者が死に立ち向かわされた状況の一切が「血=犠牲」によって購われた「平和」という意味づけに一気に流れ込む凝集点(221)
◎沖縄を返せと父を返せが違和感なく接合される

ここで沖縄戦で沖縄県以外からの軍人軍属が65000人も死んでいることの意味も、付与されていく。

摩文仁の丘に都道府県別の慰霊塔などが設立されるようになるのは1960年代である。実に32府県、太平洋戦争の軍人軍属の死者の40%が合祀されている。292

それらは「殉国者」「愛国者」として奉賛される。記念碑の「靖国化」。293

戦前において忠魂碑が草の根の靖国神社や護国神社として「忠魂」や「英霊」を顕彰する末端的なネットワークを全国に張り巡らせていたように、「平和の礎」もまた「国の礎」に類すべき機能を有していることが推察されよう。301

戦後すぐは納骨所は散在し、納骨口もあらわになって、中を覗き込むこともできた。それが碑がたてられ、納骨口が閉じられ、そして、納骨所そのものも限られた空間に合葬されていく。そのプロセスは、家族や地域の悲しみから、そして記憶から、行政による場所の提供と管理と国家やお上による意味付けへと変わって行くプロセスでもある。

摩文仁の丘に広がる平和の礎。立派であればあるほど、付与される意味は過大になるのであるなあ。

今回の田中正造ツアーで感じたことは、主流化による記憶の定式化であり、一面化であった。
・供養は仏教式で行われた。
・中国殉難烈士碑に線香台が置かれた。
・田中正造が自治体による歴史資料館、記念館になっている。

そういう意味で、いまだ建立場所が決まらず、供養祭が行われるたびに角塔婆や卒塔婆が増殖していく「朝鮮人強制連行慰霊碑」の方が健全に思えた。取り込まれ、色づけられていないという意味で。その時々の意味付けが塔婆の大きさや材質に現れているという意味で、慰霊は、まさしく慰霊した人々のものであることを、率直に表しており、それに黙祷するものは、その慰霊の思いを想起しつつ、自らの慰霊を祈念することが可能である。

大僧正による供養はとても良かった。意味不明の読経ではなく、わかりやすい言葉で、この供養の意味を述べられた。テープに取っておきたかったぐらいだ。真言宗は、わが家の宗派でもある。しかし、そのことと、供養の行為そのものが一つの宗派性のもとで行われること、儀式が仏教的であることなどへの違和感は別である。

わたしは、何を恐れているのか。

どうすれば、「わたし」の意味の付与が実行されるのか?

神社に行けば、たかだか明治時代に序列されたにすぎない「勅祭神社」の格式を誇る立て看板に出会う。

寺に行けば、差別戒名や差別墓石は歴史のこととして、価格格差のある戒名に出会う。

「わたし」を過剰にしないというデンマークの例なども考えつつ、ふむむむ。

ですなあ。
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by eric-blog | 2015-10-01 12:36 | ■週5プロジェクト15 | Comments(0)
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