「アクティブラーニングは日本人に向いていない」を嗤う

育てたように
子は育つ

そんなことも知らない教育者がいることに驚く。


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アクティブラーニングは日本人に向いていない
日本の教育現場への安易な導入に反対する
佐藤匠徳

http://webronza.asahi.com/science/articles/2015052600001.html?vcode=1M3AhqpZEtJ4gKSJejp9cTUdezpGiLCxg9hRfBAWCylt44p4rGVR2gOgoXvvyajm&iref=wr_fbpc

「生徒や学生が主体的に議論したり発表したりする「アクティブラーニング」を授業に導入する方向で文部科学省が準備を進めている。」
「学生に主体的に考える力を持たせ、生涯にわたり学び続ける力を身につけさせることを目的としている。」

著者は、この目的には賛成だと言いながら、欧米発のアクティブ・ラーニングの方法だけの安易な導入は「一般的な日本人の気質には適しておらず、それどころか一般的な日本人が「主体的に考える力を持ち生涯にわたり学び続ける力を身につける」ことを妨げると考えるからだ。」と警鐘を鳴らしている。

アクティブ・ラーニングの方法そのものは、欧米で最適化された方法で、欧米の生徒や学生にとっては、よい方法なのだと、評価しているのだろう。
著者自身も、さまざまな大学で教えた経験があるようだが、批判のポイントは、二つあるように思う。
一つは、「日本人の気質(遺伝とすら言っている)」が欧米的な人間関係を前提にした学習方法に向かない。
もう一つは、「型から入る」導入のあり方に対する危惧であろう。

本当の批判は、では、なぜ日本の大学では「最適化」された学習方法が開発・実施・評価されてこなかったのかという問題なのではないだろうか。
教育学者ではないから、とか、教授法の開発の専門家ではないからとか、言い訳はありそうだが、いずれの大学であっても、大学が研究と教育の二本柱を責務としている以上、大学人総体の怠惰だと批判されてしかるべきなのではないだろうか。
日本に大学が生まれてからすでに150年近くがたとうとしているのだ。何らかの経験知が積み上げられてしかるべきなのではないか?
という問題が一つ。そのことは一番強く指摘しておきたい。でなければ、文科省の、たぶんに非民主的な政策決定の結果に、現場が振り回されるという事態は続くからである。

その他の問題点について、指摘しておきたい。
問題点1 欧米の大学教育においても、「アクティブ・ラーニング」は新しい取り組みである。なぜ、彼らが、従来の、日本の大学教育もそのまねをしてきた教授法から、「アクティブ・ラーニング」へと方向転換しようとしているかを理解していない。これこそ、表面的な理解の上での批判である。
かれらのその「なぜ」は、日本社会にとっては無関係だと言えるのだろうか?

問題点2 無言で、こつこつという学び方
その「なぜ」は同時に、「無言で」「こつこつ」という学習方法は、どのような教育目標について有効であるかを問う必要があることも示唆している。
どのような教育目標であったとしても、同じHowで達成できると考える方がおかしいのである。
「積極的に、異質な他者とコミュニケーションをとり、ともに共通の課題についての問題解決をはかる」ことが教育目標である場合、無言で、こつこつという学びがもっとも適しているのだからと、その学習方法に固執することの教育的効果がわからない。

問題点3 学習の結果としての「学習スタイル」
「無言で」「こつこつ」というのが、気質であるのか、学習の結果であるのかがこの論では判然としない。遺伝とまで言い切っているが、教育の結果である可能性の方が高い。そして、その教育を形作っているのは教員免許制度を支え、かつまた教員免許更新講習を支えている大学教育だ。
最近、わたしが体験した小学校での授業について、考えてみる。授業時間の半分ぐらいが「説明」と、全員が静かに「説明を聞く」姿勢のトレーニングに費やされ、「工夫する」や「失敗する」時間は皆無であった。結果、全員がほぼ「間違いなく」共通の学習活動をできていた。
いま、大学に来ている学習者たちは、このような学習スタイルの繰り返しを12年間続けてきた人々なのである。聞く、待つ、揃える、整える、間違えない、同じことをやることが身に付いているはずだ。
しかし、この授業を「問題解決能力」「失敗から学ぶ力」という教育目標をたてた場合、授業目標は達成されたと言えるだろうか。

問題点4  教育の再方向付けをどうするのか
日本政府が提案し、国連10年の行動計画が実践され、2014年の最終年に今後のグローバル・アクション・プログラムを採択したESD持続可能な開発のための教育は、教育の再方向付けを求めている。最終年の国際会合が開催されたのも、日本である。
これほどコミットしている教育の再方向付けという国際的な合意に対して、どう答えるのだろうか? いまのままの「無口」で「こつこつ」で、その再方向付けの要請に答えられるのだろうか?
答えられないのであれば、その主張は、暴論でしかない。

問題点5 なぜ、その文化を変えないのか?
もちろん、教育は真空で行われているのではなく、日本社会、日本文化が反映されたものである。教育と文化は不可分に結びついている。論者が引いている「多くの日本人の中には、多かれ少なかれ年齢を軸とした上下関係が無意識のうちに存在する。」文化は存在するのだろう。その文化は、持続可能性にとって、マイナスというばかりでもないだろう。しかし、その文化が社会的な再方向付けにとってネックになる部分もあるのではないか。

このような論に触れると、「あああ、またか」とうんざりする。もし、この佐藤某さんが、それなりの地位で「アクティブ・ラーニング」推進担当になったとする。彼は、それに邁進することだろう。
そして、そのとき、いまの彼が言うのとまったく同じ論を展開する傍人が、必ずそこにいるだろう。
大学人が学問の自由をふりかざして、好きなことを言う。それはかまわないが、一方で、真剣な議論の場もあって欲しい。そして、大学教育は「持続可能な開発」というものをどうとらえるのかを示してほしい。心からの議論として。

「わたしの担当じゃない」「わたしの分野じゃない」「わたしは忙しい」「わたしは関係ない」

議論をしようと言うと、どこかで逃げを打ちながらの、知的怠慢を抱えたままなのでは、あまりにもむなしすぎる。
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by eric-blog | 2015-06-01 18:37 | ◇ブログ&プロフィール | Comments(0)
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