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わたしはマララ 教育のために立ち上がり、タリバンに撃たれた少女

わたしはマララ 教育のために立ち上がり、タリバンに撃たれた少女
マララ・ユスフザイ、学研パブリッシング、2013
2136冊目

2012年10月9日、パキスタン、北部スワート渓谷で、学校から下校する時にタリバンの兵隊に撃たれた少女。教育を受ける権利、女性にも社会に出て活躍する権利を訴え続けている。その記録。

ジャーナリストが執筆を手助けしたとあるが、すごい情報量である。

3.11以降、パキスタンが米国と協力するふりをしながら、アルカイダに支援金を渡していたために、彼らが勢いを増して、紛争が激化したこと。とうとう政府軍との戦闘がスワート渓谷でも始まったために難民となって逃げたこと。

戻ったときには渓谷の木々は失われ、洪水によってたくさんのものが失われたこと。

11歳の時から、教育の権利を訴えて、インタビューなどにも答えていたこと。

そんなこんなの状況を「グル・マカイの日記」としてネットで発信することをジャーナリストが助けてくれた。そこから国際社会にも発信できるようになったこと。

彼女が通っていたのはおとうさんが設立した学校だ。

しかし、女の子を学校に通わせるのはよくないというような動きは、こんな風に始まったのだ。

2003年におとうさんが設立したハイスクールは男女共学だったが、2004年にはもうそんなことが考えられないようになっていた。

スクールの向かいに住んでいた宗教指導者を名乗る人。女の子が通う学校はイスラムで禁じられていると。
同時にイスラム化運動も激しくなってくると、宗教指導者の持つ権力は大きくなった。
学校を監視していて、ことあるこどに文句をつけてくる。女の子を通わせる家族が減る。

また、ここでは無人機プレデターが使われた。P.138

2004年7月17日、ネック・ムハンマド、武装勢力の指揮官。まわりの人々も即死。
2006年1月、村を攻撃、ターゲットは逃げたが村人18人が死亡。

マララの父は武装勢力の行動に引きずられないように対策を取ろうと呼びかけたが、人々は応じなかった。

そして、タリバンがやってきた。ファズルラーによるラジオ放送が始まる。イスラムに基づいたよい習慣を推進し、悪い習慣をやめようと、宗教指導者としてのアドバイスのように、それは始まった。150

半年もしないうちに、人々はテレビを捨て、DVDやCDを捨てた。

彼らが恐れるのはペンの力だ、だから教育を受けさせたくないのだと、マララのおとうさんは言う。

いま、イギリスにいて、マララさんは政治家になって教育をすべての子どもたちに届けたいと、学んでいる。

1月8日クローズアップ現代でも取り上げられていたね。
by eric-blog | 2014-01-09 08:23 | ■週5プロジェクト13
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