Learning to Care:
Education and Compassion John Fien Australian School of Environmental Studies Director, Griffith University EcoCentre Professorial Lecture 15 May 2003 http://www.griffith.edu.au/__data/assets/pdf_file/0018/314613/fien03.pdf 日本語訳は三部に分かれています。 http://ericweblog.exblog.jp/18988618/ http://ericweblog.exblog.jp/18988625/ http://ericweblog.exblog.jp/18988628/ 教育目標としてのケアする心の大切さ、および「ケアの中核」を核にカリキュラムを組み立てるための提言を、Nel Noddingsは二冊の本にまとめています。すでに紹介した「Caring」と、『The Challenge to Care in Schools』 て゛す。これらの著作の中で、彼女はわたしたちがケアし、ケアされることが究極の人間の経験である世界に住んでいると見ることと、多くの人々、医療における患者、福祉制度における受益者、学校の若者、ある種の家庭における幼児や高齢者が、ケアされていないと感じている現実があるというパラドクスを示しています。Noddingsはケアする心を個人的な属性と考える事と、ケアすることは、共感と積極的な連帯を共に生きるプロセスだということの二つを分けて考える議論があることを認めています。これらの見方の和解をはかるために、彼女は、ケアするプロセスの特徴として三つの構成要素があると概観しています。 (i)概念的感情的理解 (ii)他者の、他の生き物の、植物の、無機物の、本質的な価値とそれらの存在がいだく感情に対して深い前向きな関心と尊重を持ち、それらの権利を認め、そして (iii)これらの感情、価値観、権利を保護し、実現させていこうとする動機づけ、喜んで行おうとする態度、そして、それが実現できるスキルを身につけていること。 これらのケアについての三つの側面は、結局のところvanHooftが「深いケアする心」と呼んでいるものと同じであるし、またわたし自身が「共感・憐れみcompassion」と呼んでいるものなのです。定義としてすることが難しいのですが、compassionは単なる憐憫や共感ではないのです。たぶん、その言葉の対語として辞書にあげている言葉の反対を思い起こせば、よいのではないでしょうか。無情であること、残酷であること、無関心であること、石頭であること、鈍感であること、などです。 キリスト教における愛の概念のように、compassionは仏教における徳目でもあります。 倫理的徳目として、積極的、実行性のある連帯と同様に、愛、ケア、compassionは、わたしたちが感じようと決めることができる感情ではありません。わたしたちは、愛すること、ケアすること、compassionから行動することを決めることはできません。しかしながら、わたしたちは、他者からわたしたちに向けられた愛の行動、ケア、compassionを経験することができます。そして、わたしたちはそれを他者に対して表現することを教えてもらうこともできます。ゆえに、カントは、わたしたちがcompassionを感じることができる能力を養うことは、わたしたちの倫理的義務であると、論ずるのです。そして、そのcompassionに基づいて行動すること、それが人間界であれ、人間以外の存在であれ、貧しいもの、周辺化されたもの、苦しんでいるものを養う機会を求めることです。 そのためにcompassionは、他の人の感情に喜んで感情的に入り込み、共感と連帯を示すことです。そして、分かち合い、他者の惨状を緩和するために支援することも含みます。 このように、compassionはわたしたちをして、感情的な現実から倫理的現実へ、わたしたちが感じる、行動する世界から、わたしたちがある世界、わたしたちがなさなければならない世界へと、突き動かすのです。 若い人々に、ケアする心という倫理を育て、実践することを助けるために、Noddingsは「ケアを中核」としてカリキュラムを開発することを論じています。そのカリキュラムにおいては、わたしたち自身をケアすること、近しい他者をケアすること、仲間や知り合いをケアすること、離れている他者をケアすること、人間以外の動物、植物をケアすること、地質学的世界をケアすること、人工的につくられた物質世界と人工物をケアすること、考えや理念をケアする事をあげています。 彼女は、現代の教育の多くが、他の「ケアの中核」の何よりも、考えや理念についての学習に費やされており、教育目標やプロセスが結果としてひずんでしまうのです。まさしく、彼女は、現在の学校教育カリキュラムのモデルや学級における実践が、知識の習得、認知的パフォーマンス、計測可能な成果を大切にするあまり、わたし自身を、他者を、生き物、無生物の世界をケアすることがおろそかにされていると見ているのです。そして、ケアする心は、今日のケアしない世界のパラドクスに対する鍵であるのです。健全な人々、健全な共同体、健全な環境 という三つのことを教えようとする環境教育者たちは、カリキュラムを、この問題を解決するためにNoddingsの言うところの「ケアの中核」を中心にカリキュラムを再生させることにいい立場にあると思います。 わたしは、これらのケアと慈悲のより広い範囲について、二つの特別なポイントを指摘したいと思います。一つは、国際理解と平和のための教育の重要性です。二つ目は、人間以外の自然に対するケアと慈悲の心です。 ケアという倫理の背景にあるグローバルな必然性というのは、30年も前に書かれた環境教育についての論文の前文にあきらかです。1975年のベルグラード憲章は、教育が、貧困、上、搾取などから生じている社会的、環境的問題を解決するために向けられるべきであると宣言しています。 「国家間そして国内の貧者と富者の間の不平等は大きくなっており、物理的環境が、世界的な規模で劣化している証拠もたくさん出てきています。 求められているのは、貧困、飢え、非識字、汚染、搾取、支配の根本原因を撲滅することです。これらの緊急の課題についての、これまでのアプローチは、個別的で、ばらばらで、もはや効果がありません。 世界の市民が人々に有害な反動がないような経済成長を支える手だて、環境やその生存条件を減少させることのない手だてを求めると主張することは、絶対的に重要なことです。 わたしたちは、新たなグローバルな倫理を確立することこそが求められているのです。それは、個人と社会に対して、生物圏の中に生きる人間性と共振する態度と行動を育てる倫理です。 」 Gro Harlem Brundtlandは、世界環境と開発のためのコミッションの議長として、そのような生態系的に持続可能な、そして社会的に公正な社会に向けての移行と、そのための教育にとって大切なことは何かを、こう書いています。 「持続可能な発展への移行は、わたしたちの社会の中核的な課題に関わっています。それは人間の態度、行動を決定する基本的な価値観、倫理的規範に関わり、また、他の人間や自然に対する配慮に関わるものです。現在の否定的な傾向を覆すために、社会のすべてのレベルでの取り組みと行動が緊急に求められています。今日、連帯と責任が未来の世代にまで向けられなければならないことについて理解がすすんできています。 先生たちは、この世代間の移行において、一つの世代から次の世代へと知識をつなぐ、大切な役割を果たします。意識化は変革のために必須です。先生方は、子どもたちに自然やグローバルな環境を尊重し、責任を果たすという感覚を育てることができます。 しかし、環境に対する尊重だけではわたしたちの共通の未来を救うために十分ではありません。世界の、恵まれない人々や存在と連帯することも、同様に大切なのです。わたしたちがグローバルん環境を救うための闘いに、わたしたちが世界の貧困の問題に取り組むことなしで成功することはありえないのです。わたしたちは、次の世代に、貧困と無産の存在に対するケアをする必要を教えなければならないのです。 」 平和と国際理解のための教育は、そのために、環境教育を通してケアすることを学ぶために、必須の要素なのです。わたたちは、この点でとても幸運です。Toh Swee-Hin教授、UNESCOの平和教育賞の2000年の受賞者であり、多宗教センターの所長に就任する予定ですが、が指摘しているように、文化、平和、持続可能性、教育についてわたしたちの教えることと、調査研究の間のリンクが強化される必要があるのです。 もう一つの、ケアすることを学ぶべき分野で、わたしが特に強調しておきたいことは、人々と環境の関係です。わたしたちは、「人々と環境」と言います。「人間と人間以外の自然」という言い方よりは、です。それは、西洋的な哲学的な流れであり、わたしたちが環境教育において自然について考えるやり方です。そのアプローチは、自然における人間の場所を問い、自然から人間が疎外されることを問題にします。この分離は、David Suzukiの物語にあきらかです。 「歩道にころがって動かなくなっている甲虫をさして、「あの昆虫を見てご覧」と祖母は言った。「ああ、電池が切れたんだね」と少年は応えた。」 Suzukiは続けて「偽の書であるかいなか」にかかわらず、この物語は「現代の人々が自然からどれほど切り離されているか。少年にとっては、虫は、人間によって作り出された物体でしかない」ということを示していると。 今日では、自然公園や動物園にときたま行く以外は、子どもたちの動物とのふれあいの経験は、消費世界の取引でしかなくなっているのです。お母さんが5ドル払って、ショッピング・モールの真ん中に作られた子ども動物園で、子羊といっしょに写真をとるような経験として。しかし、もっとひどい事には、わたしたちが自然から切り離されていることの結果として、自然と人間相互が切り離されているだけでなく、現実からも切り離されているということです。アメリカの環境教育者であるDavid Orrは次のように言っています。 「消費者社会は、人間が自然と接すること、かつては直接的で、頻繁で、密度が高かったのに、いまやテクノロジーと組織に仲介されるようなものになってしまった。わたしたちは、室内に移動してしまった。もっと考案され、管理された風景が、そうでないものにとってかわり、野生の動物は、教師であり、仲間であったのに、従順で依存的に育てられた動物で置き換えられています。 わたしたちの現実感覚は、四季、空、森林、野生動物、サバンナ、砂漠、川、海や夜空、などとの複雑な感覚器的交流によって形作られていたものが、テクノロジーと人工物の現実によって形作られるようになっています。強制的消費は、悩みの結果やあるいは退屈の証拠かもしれませんが、わたしたちがかつてはホーム、故郷と呼んでいた世界が消えていき、見知らぬものになってしまったことを発見したことへの反応であるのです。 」 わたしの言いたいことははっきりしています。人間として、わたしたちは自然から切り離されているのではない。わたしたちはその一部なのです。Albert Einsteinの言葉を引用しますが、その当時の性差別的な表現については、謝罪しておきます。 「人間は、わたしたちが宇宙と呼んでいる全体の一部であり、時間と空間によって限定されている一部なのです。人間は、残りの他者から切り離された何者かとして、自分自身、考え、感情を体験します。自身の意識という視覚的な幻想です。この幻想はわたしたちにとっての監獄です。わたしたちを個人的な考えや欲望に閉じ込め、わたしたちの間近にいる人たちという限られた人々にだけ愛情を感じるのです。 わたしたちが、この監獄から私たち自身を解放するという任務は、わたしたちの慈悲のサークルを広げ、すべての生きとし生けるもの、すべての自然を包含することなのです。 」 本当に、多様な社会的政治的なパターンが、時を隔てて、文化を越えて、わたしたちがどのように自然と自然におけるわたしたちの位置を定義する方法について見られるということは、それがとても多様で、歴史的な時間、地理的文化的空間で、何度も何度も再定義され続けた結果だということがわかります。 にもかかわらず、「自然」は、物理的現実であり、人間という種とその他の創造物と植物、空気、水、地球 などを構成するものです。すべてのものが生物圏や生態系的ウェブにつながりながら、「すべてのものは、それぞれの生き方へと発達していく(人間だけではなく)」 余地をそこに得ているのです。そのような見方は、わたしたちに、人間と否認源の自然の両方が、文化的な創造物であり、人々の意思決定と行為で形作られてきたものなのです。結局、野生というのは、経済的政治的意思決定が、そこでの人間活動を最小限にするように働いたからこそ、野生のままだということなのです。 そのために、人間と人間以外の自然の間には大切な違いがあります。価値を判断し、評価し、優先順位をつける能力です。Fernando Savaterはこう言います。 「わたしたちは、「自然」が海の中の魚に対する共感より、より大きな共感を彼らをだめにする化学物質に対して感じることや、森が自分たちを破壊する火災に対して反対するというようなことも考えにくい。・・・しかし、「評価する」ということは、まさしく、ものの間に違いを作り出すこと、いずれかをもう一方に対して優先させること、それが価値があるからという理由で、何が保全されるべきか選択することです。評価することは、優位にある存在の責務であり、人間の文化の基盤です。自然においては無関心[これまでの議論の中では慈悲の反対語です。]が通常です。文化においては、違いと価値なのです。 」 ここにおいて、自然のすべての側面について深くケアすることの倫理的義務があるのです。Savaterは、わたしたちがケアについて三つのカテゴリーの基準を使うことができると言います。 (i) 審美的価値 文化的に決定される好みによれば、さまざまな自然の側面について考えることは可能です。花、鳥、風景、星空、生態系的プロセスなど。そしてそれらを「美しい」と思い、大切にし、残したいと思うのです。わたしたちは審美的気づきと理屈づけを教えることができるし、自然や年の環境で、これを達成するためにたくさんの方法が開発されています。 (ii)功利主義的価値 この「活用価値」という指標は、わたしたちが自然について、人間にとって有用なもの貴重なもの、そして、代替できないものを保全しようとすること。この観点からは、自然環境を損することは、わたしたちの家や近所の家に火を放つことが悪であるのと同じように、悪なのです。これはブルントラントによる持続可能な開発の考え方です。「わたしたちが、愚かさ故にか欲深さのゆえにか、明日必要になるものを今日破壊するのは、自殺行為です。同様に、わたしたちが他の人間あるいはわたしたちの子どもたちが必要とするかもしれない環境を悪化させることは、悪であり、犯罪的ですらあります。 」わたしたちは、功利的な価値観と意思決定のスキルを持続可能な開発のための教育において教えることができます。そして、このゴールを達成するためのたくさんのガイドラインが作られています。 (iii) 本質的な価値 自然のすべての側面、構成要素は、それ自身が価値を持っています。しかしながら、この前提を理性的に打ち立てることは難しいです。それは信念に関わる者であり、しかし、信念についてはわたしたちは現実的な判断を下します。結局は、人間以外の自然は、本質的に平等な価値をもっており、深いケアの対象になるものであるならば、わたしたちは、何も食べれず、服もなく、ということになります。なぜならば、これらの人間以外の自然が食べ物や衣服のための繊維を提供しているからです。まさに、虫を殺さないために、座る前に場所を掃き清め、吸い込んでしまわないようにマスクをしていたというジャニ教徒ですら、果物と野菜は食べたのです。これは、本質的な価値についての異なるレベルではの判断です。そのような問題を考えると、わたしたちは、そのような判断のための基準が必要となってきます。わたしは、さらに、神経系統が痛みを感じることのできる動物たちの苦痛を軽減するために、感覚のある生き物のいのちはより尊重するのはどうだろうか、という問題も出したいと思います。しかしながら、Savaterが言うように、「難しいのは、「不必要」というのはどういうことなのだろうか? 」 ここでねわたしたちは自然に対する功利的な価値に帰ってしまいます。なぜなら、人間のニーズがそれらを決定するものさしになるからです。Savaterはさらに続けて、動物の苦しみを見るために拷問にかけることは「不必要」であるが、動物を人道的に、人間のタンパク質のニーズのために殺すことは、「必要」だと言えるのか。もしそうであるならば、文化的な理由で闘牛させることは、クジラを捕獲することは、がちょうのフォアグラのために強制的に食べさせることとは、必要なのか不必要なのか。鶏からたまごをとるために、小さなケージに閉じ込める方が安上がりだからというのは。あるいは、フレイザー諸島のディンゴや森林の下草をだめにするブタを間引きしたりすることは。環境がもろい国立公園の馬を間引くことはどうだろう。 わたしたちはどのように本質的な価値と功利的な価値を人間以外の自然について分けることができるのでしょうか。しかし、もっと大切なことは、先生たちが「深くケア」するという倫理を育てようとする時、それは教化なしで行うことができるのだろうか。そして、どの価値が「深くケア」するという倫理につながっているのだろうか。 これらの質問に対する答えが、この論文の後半の二つの部分です。 まず、わたしは、深くケアすることにかかわる8つの価値を提案したいと思います。これらは持続可能な世界の倫理として知られており、IUCN, WWF, UNEPによって1992年のリオサミットに提出されました。 まとめると、これらの8つの価値はそれぞれ4つずつの二つに分類することが可能です。わたしたちの人間以外の自然に対する責任(生態系的持続可能性)とわたしたちの間でのケア(社会正義)です。(以下、省略) 人と人以外の自然: 生態系的持続可能性 相互依存 生態系的多様性 軽やかに生きる 種の間の平等 人々と人の作り出す自然: 社会正義 基本的な人間のニーズ 世代間の平等 人権 参加 これらの価値観は、リオの後、宗教を越えて、文化を越えて、国際的な対話を通して、地球憲章における16の原則としてまとめられました。(付録に所収)
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| 2013-11-18 17:48
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