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「デモ」とは何か 変貌する民主主義

「デモ」とは何か 変貌する民主主義
五野井郁夫、NHKブックス、2012
1835冊目

あの激しいデモの時代は何だったのだろうか。

6月29日、首相官邸から国会議事堂の周囲に、10万人とも、20万人とも言われる人びとがいた。1959年、69年以来のことだと、みなが言う。その金曜日の夜の直前に行われていた鼎談を見た。岩上安身さんが、安富さん、平さんとのインタビューで、「デモは権利だということ、しっかり伝えてくださいよ」と。これまで大手メディアが伝えてこなかった「脱原発」を求める再稼働反対抗議行動を追い続けて来たメディアだ。
「あの頃には、丸山真夫がいた。彼は、デモに参加し、そして夜には議員とあって、自民党を割る画策をしていた」と。院外と院内の政治の呼応関係。
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/21487
今回、6月29日は、デモではなく、それぞれが勝手に、集団で行進することなく、一人ひとりの思いを首相官邸に届ける行為を行うものとして、実現しているという。なんじゃそりゃ? 呼びかけ人もいるのに? 
一方、鼎談に後半から参加した高嶌英弘・京都産業大学教授は、「学者がいま機能していない」とも指摘する。

あの激しいデモの時代は何だったのだろうか。

その時代を知る1938年生まれは回顧する。「阪大はなかなかデモに参加する人がいなくてね。しかし、羽生五郎が行って演説したら、数百人がその場からデモに行ったんだよ」と。伝説だね。それは。武勇伝。
そして、1960年代、ことばが崩壊した。by 竹内敏晴
http://ericweblog.exblog.jp/pg/blog_view.asp?srl=2080803&nid=ericweblog

あの激しいデモの時代は何だったのだろうか。

今回、大飯原発の正門前封鎖の実力行動を支えた一翼は、中核・関西派だった。そりゃなんじゃ?まだ、活動していたんだぁ。 この人たちの40年を超える「鉄の結束」(と、わたしには見える)はどこから来るのか? 知りたいぜー。年間数十万の寄付金集めに四苦八苦する身としては、今回の行動にかかった資金をどう調達できたのかも、知りたーーい。でも、ちょっと、カンパは、ちょっと、迷うかなあ。いやあ、でも、今回のMind Bombはすごかったし。あの基盤がなければ、あの盛り上がりはないなあ。若者たちの踊りや音楽や、チャンティングも良かったし。テント村もいい感じやし。いやあ、わたしってば、頭固すぎやし。

そして、この本の行動派社会学者の著者は、自らもさまざまなデモに参加しながら、思惟する。そして、それをレポートする。さらに、研究する。デモという「院外」政治手段に対する自身の思いも語る。非暴力的に行われるいまの日本のデモは、「65年間の尊い経験が、日本人の非暴力への意志を定着させてきた」と。210

今回の大飯原発正門前にも、メディアが居た。この著者のような研究者もいたかもしれない。警察官もいた。機動隊もいた。デモをする側より多い人数がいた。

しかし、多くの参加者もまた、写真をとっていた。レポートしていた。その後にブログを書いている。そして、それはインターネットを通じて、流れて、市民社会を潤している。省察とフィードバックを経て、成熟のための肥やしとなっていく。

http://hanamiduki.sblo.jp/article/56833395.html
http://blog.goo.ne.jp/suzuki_juju/e/50e69beb6749d32bb760f2f21af30ba0
http://ameblo.jp/kagami888/entry-11292354959.html
http://ameblo.jp/momosuke-1213/entry-11292067574.html

わたしは、いま、メディアを手中にし、発信し、問いかけ、呼応し、より成熟したコミュニケーションを獲得し、本当に実現したいことは何かを一人ひとりが確認し、それを求める方向へとからだと行動をシフトし、行動したことを発信し、また、フィードバックを得て、共に考える。それが、いまのデモの形になって来ていると、感じている。

柄谷行人さんが言う、「デモがある限り、その他の方法も有効である。」
(「9.11原発やめろ」でのスピーチより)209

共感をからだで表す行為が、デモである。政治にからだ性を取り戻すこと。それがデモである。

これまでのような、党派の旗をかかげ、数を頼み、数を誇示するものではない。
しかし、共感し、共振している人の存在は、パワーなのだ。

祝祭性と非暴力。それがいまのデモの特長だと著者はいう。

非暴力は、それが道だから。実現したい未来だから、それを生きる。それをどこに居ても生きる。

祝祭とは、祭りとは、からだ感覚での共同体の確認だから。人間の根源である身体性の共振感覚。

デモは、大衆のものである。でも、たった一人のデモもあっていい。

始まりは、一張りのテントからだった。と一ヶ月前からおおい町総合運動公園キャンプグラウンドで、テント村を始めた革新的核心的確信的行動者は言った。
それが40張り以上にまで育ったのだ。排除できない存在として。排除しにきた側の人にも、なにがしかの共感も響かせるような存在として。

共振させる何かがそこにある。人は、共振したがっているのだ。それが人間の社会脳だからだ。

それをがんじがらめにして、論理で縛って、一人ひとりを競争させて、孤立させるからつらくなる。ひとりだと思うからつらくなる。

デモしよう! 原発推進でも反対でも、未来は、一つしかないことを、共振的にからだにしみこませるようなデモをしよう。

ありゃりゃ、本の紹介にはなっていない「週5」ばかりだね、最近。ま、でも、そういうことだから。「書を棄て町へ出よう」ではなく、「町へ出て、読んで、また町へ出て」という、川喜田二郎さんの「W型」で行こう!

いまのデモは、一人ひとりから広がるデモ。組織で動くのではないが、組織化する力を組織で終わらせないデモだ。常に、人から人へと、伝わり続ける。   Think on.

大飯原発正門前の行動については、長谷川羽衣子さんのレボートがすばらしい。

https://www.facebook.com/kousou.emirai

■2023年2月15日再読
2012年7月4日に読んだ時は、2011.3.11以降の動きを読むのに集中していたことを思う。
しかし、改めて、読んでみると、第1章がオキュパイ・ウォール・ストリートのいまの格差社会に対する動きに連なる動きに焦点。第2章で日本における米騒動から1970年代まで。そして、「デモ」が私たちの感覚から遠くなった1980年代、お祭りとしてのパレード化、そして3.11以降と、よくまとまっている。

by eric-blog | 2012-07-04 06:24 | ■週5プロジェクト12
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