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その後の不自由 「嵐」のあとを生きる人たち

その後の不自由 「嵐」のあとを生きる人たち
上岡陽江+大嶋栄子、医学書院、2010

教育は、社会関係や集団を対象に行う行為である。
しかし、そのことは、いまの日本の学校教育がそうであるように「集団マネジメント」を身につける、あるいはがまんすることを学ぶためではなく、社会で生きる力を一人ひとりに身につけるためであり、社会脳をもっている人間に合致した方法論であるから、である。

集団を対象にしていることが、1対1のカウンセリングとは違うところ。

この本は、「暴力をはじめとする理不尽な体験そのものを生き延びたその後、今度は生き続けるためにさまざまな不自由を抱える人たちの現実」を描いている。と前書きに言う。しかし、一読して思ったのは、これは集団による成長とケアの記録だということ。

ダルク女性ハウスでのフィールドワークやミーティングを通して、自分たちを研究し、つきあい方をサポートする。

依存症や自傷などの問題行動として現れてくるのは、「境界線を壊されて育つ」という子ども時代があるから。まずは、自分の育ちと、他者の、ま、健康な、問題はあるのに、問題化しない健常さの家庭の違いを知る。

問題のある家庭に育つと緊張感が高い。わたしががんばらなきゃと思う。
他人を優先して、「自分を真ん中にして考える」ことができない。
背負ってしまう。

過剰な関係、危険な関係でないと「寂しい」
「健康な人」に出会うとなぜか寂しい。

つきあい方として「日常」の生活技術を共にするというのに、強く賛成してしまった。
というのも、昨日の研修で、3.11以降の震災にあった子どもに対してわたしたちができることを聞かれた。その時、「セロトニン」「ドーパミン」の話をして、子どもが生きる力の根源を支える教育の場が欲しいと、伝えた。

その後の不自由を生きる人々の前には、その父、その母の不自由な生があったのだなとも、思う。子どもがその生を引き受けることはない。とはいえ、福島の事例を見ていても、葛藤は強い。

今回のJaspicanの大会では、震災について、どのような話し合いが行われたのか、気になった。
by eric-blog | 2011-12-06 09:26 | ■週5プロジェクト11
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