364-4(1570)わきまえの語用論
井出祥子、大修館書店、2006
第22期国語審議会が「敬意表現」を「これからの敬語」問題について答申したことを知ったことは、わたしにとっては大きな驚きだった。
139-1(669) ジェンダー学を学ぶ人のために
などに、その未来型提案の現実的な効果を書いた。
この本の著者である井出祥子さんがその第一委員会の主査を務めたという。
日本語はコンテクスト・場の要素なしでは話せない言葉である。238
その場の要素を認識していることを「わきまえ」と言う。この言葉は、すでに欧米の言語学界においてはwakimaeとして通用しているという。
自己を同定し、自己と他者の関係を同定し、その関係のおかれた文脈を同定し、語用を選択し、決定する。同じことを言うにも40通りもの選択肢があると、欧米の学者が指摘し、それはどのようにして可能なのかと、日本人学者である著者に目が集まったとき、彼女が説明したのが、わきまえであり、ほとんど自動的に決まるということであった。
日米の話者を比較し、「対誰」に対して、どのような表現を使うかという調査をした。すると日本語話者は、大きな偏りが出る。対して米英語話者は、全体にぼやけたひろがりになる。つまり、日本語話者は、ほとんど迷いなく、「対誰」によって敬語を使い分けている。米英語話者も使い分けているのだが,本人の判断が入り、選択肢として話者本人が決定しなければならない余地が大きい。102-103
井出主査の前の主査であった徳川宗賢主査の言。「僕は、敬語についてはだれにも負けず絶対間違えずに使う自信はある。だけど、そんなものは何にもならない。正しく使ったからといって、気持ちが伝わるものではない。」141
人に応じて、判断を加えている米英語話者の方が、「考えている」し、「自分を出している」とも言える。ポジティブ・ポライトネスの世界。
敬語をうまく使えない人が不利に扱われることがあってはならない。
日本社会をもっと風通しのよい社会に。
外国人にとってもわかりやすく。
その努力の先に、あなたたちはどんな社会をめざしているのか?
そのビジョンが示されることはない。
どこを読んでも「民主主義」「人権」などの言葉は出てこないのだ。
おもしろいねぇ。「天下」の国語審議会でねぇ。ビジョンを表現する一つの概念はないのだ。中島みゆきのCDや内館さんのコメントで、敬意表現の具体例は「これで、すべて出揃った」と思えるところまで、出したのに。142
その判断の根拠となる点検の視点は、一言で言えば、何か。
それは言わないんだよねぇ。
日本社会は分散型ネットワークシステム、欧米は集中型ヒエラルキー・システム。187(吉田和男)
濱口さんの「間人主義」の考え方も引用されている。
わたしたちの社会はどこへ行くのか。
Language uses us, as much as we use language.
心は新しきを求め、言葉は旧きを慕う。
「わきまえ」を発見し、それを欧米学者らに説明すればするほど、言葉が井出さんを使って生延びていく。そんな思いがまざまざとした本であった。
そのひきづられ感がおばけ屋敷のように鳥肌がたつほど、怖くて、嫌いですが、第4章、第5章はとてもよくまとまっているので、紹介します。
Taro is sick. 日本語では?