<   2016年 04月 ( 39 )   > この月の画像一覧

「権力」としての予算。

「権力」としての予算。
権利の保障や正義としての配分ではなく。

どんな予算が「権力的」かというと、

給料や奨学金、生活保護、児童手当などの権利保障として一人ひとりに支払うための予算ではなく、

「あなたのところで受注したくないですか?」「受注したい人はいっぱい居るんですよね」と競合させることができる予算。
権力に媚びさせることができるし、うまくするとリベートや口利き料などの実利も伴うかもしれない。企業に言うことを効かせるにはこれだ。あいみつなどと言いながら、相蜜なのは権力と力を付与する人々との間である。
新たに財団法人や公益法人を設立することができる予算。官僚や政治家の天下り先を確保することができるし、行政の中で後輩たちに言うことを聞かせることができる。できれば箱ものの建設が伴うととてもうれしいが、最近はそうも言っていられない。看板のつけかえや裏表のひっくり返しでもいいか。縦社会権力関係型予算。
新たな「国益」や「国威発揚」など、「国」をふりかざして執行する予算。「国土防衛」のための防衛費の拡大や東京オリンピックの開催など。この予算で「節約」や「省資源」などという、一方で公益法人を設立した目的でもあった視点などはさらさら省みられることはなく、下々の隅々まで、国益へのたかりの気質が蔓延する予算である。これらをふりかざす政治家たちもたかっているだけである。名誉までついてくる権力関係を手に入れることができる。国益たかり型予算。
「これは市民参加や市民協働など、広範な人々への働きかけや協力が必要なので、市民社会組織にやってもらう方がいいプロジェクト/イベント/サービスだと思うので、NPO支援の予算で」と市民側からの社会的提言(アドボカシー)に答える形で出す予算。時代のニーズや要請に答えたようなポーズで権力をより確固なものにできるし、たいていの場合は、ボランティアの多用や団体自体にボランティア的労働をさせることで値切ることができている。しかも、「時代の要請」が変わるとともにこれらの予算は行き先を変える。どこに行くか行かせるかが権力関係と絡んでくる。元官僚や行政マンがいる団体が予算をとりやすいというのもこれだ。時代の要請型予算。
いずれの権力誇示型予算も、PDCAによる改善など望むべくもない。風見鶏と権力に媚びる人々が増殖するだけである。
なんだかなあ。選挙運動していたら「なんで人の就職活動のためにそんなにがんばるの?」と切り返される時代だからなあ。

あ、も一つあった。安倍みつぐ君みたいに自分の権力を保障してもらうために動かす予算。「ごますり予算」。権力関係にいる人は、自らも「力を付与」する側にもなっていく。
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by eric-blog | 2016-04-30 08:59 | Comments(0)

モンスターマザー 世界は「わたし」でまわっている

モンスターマザー 世界は「わたし」でまわっている
石川結貴、光文社、2007
2497冊目

終章からの引用で申し訳ないが、これが本当に怖い。

「そもそも今、母親や育児の現場には「ファシズム」のような空気がある。大変なことをしている母親に苦言を呈したりすれば、それは「母親を追いつめる」と批判されるし、子どもたちの傍若無人ぶりを指摘すれば、「子どもの個性を尊重していない」と責められる。」231

大変なことで、自分のやりたいことができない、と言いつつ、やりたいことは何かと問われれば、ない。

しかも思考が極端。閉じている。229
勝ち負け
ゼロか百
敵か味方

本当にこわいお話がてんこ盛りなんだなあと覚悟を決めて、読むとする。

と、そこに見えてくるのは、「せまい」学校文化だ。
運動会の弁当は手作り、コンビニ弁当禁止。
ピザの宅配を頼んだ人を異端視する。

子どもにコーンフレークを弁当に持たせる人に対して保育園が「もう少し配慮を」と求める。

そんなことが意味があるのだろうか?

アメリカのランチタイムを見せてやりたい!

自分が正しいと思っている母親と、せまい文化をおしつけてくる学校社会。
そりゃ、ぶつかるわなあ。

自分の想定する「いいお母さん」像に追いつめられる人。
逆に、「母親」になれない人。

子どもに依存している人
子どもを支配している人、

真逆じゃん!

ということは、少しはずれると「モンスター」になるのだ。

できれば、モンスターとして追いつめられるメカニズムも解明して欲しいぐらいだ。

その中でも、子どもを追いつめるものは、子どもを私物化し、いつまでも子離れできない親である。

でも、そういう親を育てたのも、学校なんだけれどなあ。やっぱり学校文化のせまさと正しさが問題難じゃないか? しかも、知識不足、常識不足、コミュニケーション不全までついている。いや、まったく。

15年間で3000人にインタビューしたという。親の育ちについても焦点をあてる方法はないだろうか?
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by eric-blog | 2016-04-27 16:42 | □週5プロジェクト16 | Comments(0)

僕たちのヒーローはみんな在日だった

僕たちのヒーローはみんな在日だった
朴一、講談社、2016/単行本2011
2496冊目

文庫版の「はじめに」で、この五年間の歳月があればこそのことが語られている。やしきたかじんさんが在日であったということ。所属事務所も本人も公開しなかったので、本書の単行本化の段階では書けなかったことだというのだ。「たかじんのそこまで言う」というような挑発的な番組で発言していたのに、である。

番組は韓国・北朝鮮バッシングを売り物にしていた・・・・。

そして、その後巻き起こる「たかじん騒動」は、『殉愛』、『ゆめいらんかね』の著者らと家族の間で、出版差し止めなどを含め、展開中。本人が隠し続けたものを、死亡後に第三者が公表してもいいものなのだろうか?

出自で差別すること。

国会議員の世襲制については問題視しながらも、「家柄」や「家業をつぐ」こと、「京都に住んで何代目」などについては、とても誇らしげに話題にする。

ここでも、価値観の混乱を、思い知るのだが。

『<在日>という生き方』
『「在日コリアン」ってなんでんねん?』の著者。ま、タイトルからもわかる通り、関西人。在日かどうかよりも、関西人というアイデンティティの方が強いんじゃないか?

最近の新しい「在日」世代の一人、伊原剛志さんのことば。「自分が何人ということよりも、役者だということのほうが大事」

そう。カミングアウトする人々の側はそう思っている。

問題は、受けとめる社会の方だ。

小林よしのりさんが『ゴーマニズム宣言』の中で「差別だらけの社会を糾弾せよ!」で紹介しているエピソード。「私はそりゃ今ビンボーだ。人はみなビンボー人と思ってばかにしているでしょうよ。でもね、貧乏は運が悪かっただけのことよ。・・・でも、ほらあいつは違う! 「生まれ」が悪いんだからね!・・・・」
76

まあ、ここに書かれている小林によるヒエラルキーがあからさまなのだが、「そうだろうな」と思う自分がいる。小林さんの言説には、そんな感想をよく抱く。

出自による差別を前提に、「見返す」ために努力するというのもある。都はるみさんのお母さんがそうだ。歌手としてのスパルタ教育をほどこすわけだ。

見返そうというのではないが、さきほど紹介した伊原さんも、「教員志望」だったが国籍のせいでなれないことを知り、俳優の道を選んでいる。

紅白歌合戦に限って言えば、25%が在日である。

p.70-71にジャンル別に並べられた名前を見たら、驚愕する。

ふーーん、そうなんなんだあ。えーーーー。「僕らのヒーローはみんな在日だった」はいいけれど、じゃあ「わたしのヒロインに日本人はいなかった」はどうなのよ、と思った。本当に。しかも、明らかにしていない人も芸能界は多いというのだし。

起業家にも数多い。お世話になります。

ということで、「日本人」というのを考え直さない限り、この喪失感は続く。
ていうか、崔洋一さんとか、伊集院静さんとかの作品を、日本の文化的成熟や達成にいれなかったら、いったいわたしはどうなるの? とすら思うよ。

久しぶりに新井英一さんの曲を聞こう。

彼らも含めて、日本社会が文化が作られている。それが日本列島の豊かさなのだ。

差別をはね返そうとする力も含めて。

いつも、いつも、意識せざるを得ないということは、強さにもつながるよね。

再びの伊原さん。「自分がどこから来て、なんで今存在しているのかが知りたい。それを知ることでもっと上へ行ける気がするから」

だから、「在日」の問いも含めて知らなければ、先に進めないよね。
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by eric-blog | 2016-04-27 13:26 | □週5プロジェクト16 | Comments(0)

朝鮮と日本に生きる 済州島から猪飼野へ

朝鮮と日本に生きる 済州島から猪飼野へ
金時鐘、岩波新書、2014
2495冊目

1929年、釜山生まれ。済州島4.3事件を経て来日。朝鮮学校で働く。『ヂンダレ』という詩の雑誌を創刊。朝鮮総連から攻撃される。「在日として生きる」ことを命題と心決める。

「解放教育」運動の後押しもうけて、在日外国人としては初の公立高校教員に、1973年、43歳で。兵庫県立湊川高校(定時制)の社会科教員として、「朝鮮語授業」を行う。1988年退職。60歳を前に、結核の手術を受けたことをきっかけとして。

国策にこれほどまでに翻弄された人生があるだろうか?

戦争中の朝鮮では、日本の国民学校のもとで皇国皇民教育をうけ、大人たちが日本のもとで生き延びる生を見る。

俳句や詩歌がここ数年、テレビなどでもよく取り上げられるようになっているが、「何か時代変動の兆しのようにも感じられて」と七五調がしみこんだからだでいう。50

父の慮りから日本語教員をめざす。

「営々身につけた自分の日本語のうしろめたさに、体がかたくなる」67

1945年、朝鮮は解放され信託政治へ。しかし、

「日本が敗れ去ってもまた同じように植民地下で好い目をした輩たちがのさばっていることが我慢ならず、私はしんそこ震えるくらいの義憤に駆られたものです。」139

南朝鮮労働党へ。

一斉検挙。投獄。拷問。

左と右の特攻隊による虐殺応酬。そして、済州島脱出。日本へ。
猪飼野へたどりつく。

在日韓国朝鮮人の生は、政治の隣にある。まさしく生殺与奪の力を国家が握っているのだ。

そこに北朝鮮と韓国の動きが加わる。自らの意思を実現したいと思うなら、政治的活動をせずにはおられない。政治を動かせば、事態は変化する。いつも望む方向にだけ行くとは限らない。

組織からは、組織の方針で活動を指示される。組織にそむけば、つりあげだ。組織は生活の糧、命綱でもあるからやっかいだ。

すごい闘いだ。まったく。もちろん、在日の中にも非政治的な人もいるだろうが、それでも、その生が政からより遠くに離れた圏にいることができるということは、ない。

苦しい本でした。

「何もかもがくつがえされたあと、初めて居座ってくる思考だってあるのです。」253
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by eric-blog | 2016-04-26 11:14 | □週5プロジェクト16 | Comments(0)

窓から逃げた100歳老人

窓から逃げた100歳老人
ヨナス・ヨナソン、西村書店、2014
2494冊目

荒唐無稽なデタラメ本を紹介すべきかどうか、迷いました。
著者はスウェーデン人。

あとがきに訳者である柳瀬尚紀さんが言うように「すばらしき出鱈目小説」で、がんがん笑えばいいのだが、スウェーデン人が書いたということ、スウェーデンを舞台にしていることから透けて見えるものがある。

ずるい読み方をした。

本の構成は、100歳の老人の逃亡物語の進行のあいまあいまに、10代、20代、30代、40代の人生が語られるようになっている。

それをわたしは、「100歳の逃亡物語」だけを先に読んで、後でそれぞれの年代を読んだのだ。ずる。

その年代ごとの物語は、スペイン、ソ連やアメリカ、イギリス、中国、アフリカなどとからんでいくのだ。老人の「爆発物取り扱い」のスキルとともに。

なぜ、老人は爆発物の取り扱いのスペシャリストなのか?

10 代でニトログリセリンの会社でアルバイトしていたからだ。

なぜニトログリセリンなのか? スウェーデンだから、である。

そういう意味で、100歳の老人と設定されている物語は、20世紀の激動を描き出しているのだ。

うまい! 面白い! スウェーデン人の手も、血塗られているんだなあ。

そして彼の世渡りのポイントは「政治的な話は嫌い」である。まんまスウェーデンのことやん!

ごくマジメに、イギリス人と世界とのかかわりを描いたものとして次の本がある。貧困なイギリス人が、海外で役職を得、望外な収入にあずかり、地位を得つつ、本国の運命に翻弄される物語。

上海租界興亡史
ロパート・ビッカーズ、昭和堂、2009
http://ericweblog.exblog.jp/9637002/

それに似たにおいが、この出鱈目小説にはあるのだ。
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by eric-blog | 2016-04-26 10:43 | □週5プロジェクト16 | Comments(0)

村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝

村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝
栗原康、岩波書店、2016 
2493冊目

『はたらかないで、たらふく食べたい  「生の負債」からの解放宣言』と同じ著者である。「はたらかないで」は、自分の生き方宣言。結婚や就職、職につくってなんだよーー、という叫びだ。

ニートな彼と結婚したいという彼女が現れる。彼女は30代も後半になって子どもが欲しいのだという。えーーー、この人がどんな人かわかってつきあってんじゃないの? と、第三者であるわたしですら叫びだしたくなるほど、無理解な人である。

「子どもが生まれるのだから、定職について」
「そんな非常勤の収入でどうやって子どもを育てるの?」

と、ものすごく強迫的にせまったそうだ。こわーーい。

で、別れたみたいで、こちらの本を書いておられる時にも彼女がいるのだけれど、とある本を彼女に紹介したら、「栗原さんはわたしにホームレスになれとすすめているのですか?」と言語化してくれるような人。うん、これは話になる。

というような限りなく私小説的伊藤野枝伝。というか伊藤野枝さんに対する共感満載。でも、わたしは伊藤野枝さんが書いたものを読んでいないから、まず、そっちからかなあ。

で、伊藤野枝さんは「わがまま」であると。生きることにどん欲とも言える。

で、なんでこの本のことを書いているかというと、この本で伊藤野枝にはまって、しかも『風の波紋』http://kazenohamon.comの映画と伊藤野枝が通じるところがあると、伊藤野枝の思想をそのまま生きているのだという感想を書き込んでいる人がいるから。

この映画も見ていないからなんとも言えないのだけれど。そして、たぶん見ない。越後のあのあたりで一番気になるのは「古民家」だから。そこを起点に創造されるものを想像する方が楽しい。
http://ericweblog.exblog.jp/17679058/

「田舎」が国家に取り込まれないように祈る。アナキズム的現実を生き続けることができることを望む。無政府主義。自律的地域共同体。

たとえば、『砂の器』に描かれるように「警官」などの国家の手先には情報を与えない、たとえば、ナンバープレートのついていない車が走り回れる島、たとえば・・・・のような自律的地域共同体。

彼らはマイナンバー、どうするんだろう? 所得税は払っているのかなあ。物々交換するとしても消費税はそれでも最低限かかるよね。そんなことを思ってしまうのだ。近代国民国家の現実。自律的地域共同体の消耗。

そこにアナキズムを嗅ぎ取り、共感するのかあ。

都市へと逃げ出した伊藤野枝の思想を生きる地域?

栗原さんの意図は明確だ。なるべく働かないで、本を読み、哲学し、書いたりしたい。「わがまま」に生きたいのだ。いまの生き方には「ルール」や「型」がありすぎる! 生きることのためにそんなの必要なのか? とっぱらって生きれないのか?

という「わがまま放題」な本を読んだおかげで、すべてがいやになった。というのは語弊があるが、「メインテナンス」というキーワードで表現しておく。

「エコ」に生きるというのは「生活のメインテナンス」のあり方のことだと思う。省資源、省エネルギー。「エコ」をビジネスにするのは、どこかうそくさい。うそくさいことにも極力近づかないようにする。

すでに20代から「エコ」を目指して、月収10万円で生きると決めて、ほとんどそれを実現している年月の方が長い人生で。

それってとっても「ちんまり」した人生であるわけで。つまんない。と突然、この本を読んで思ったのだ。

『風の波紋』にしても、メインテナンス系の人と、イベント系の人が出会う話なんだろうと勝手に想像する。ハレとケというような言葉を使ってもいい。

メインテナンス系にも必ず「祭り」がある。非日常がある。北米先住民の文化にも「ポトラッチ」のような放逸なお祭り騒ぎがある。

問題は、いま「メインテナンス系」を生きていて、「イベント系」が共同体的ではないこと。いや、メインテナンス系も共同体とは切り離されているんだけど。

だから、疲れる。

イベント系は消費文化的である場合が多いことにも疲れる。

熊本・大分地震の非日常にかき乱された分、疲れている。

がんばれ! 栗原氏。って、がんぱらないと宣言しているのだけれど、彼が「闘っている」ことはよくわかる。伊藤野枝がそうだったように。

その闘いの先にムヒカ元ウルグアイ大統領の言うような世界や未来がひらけるのか、それとも彼の望みがこの出版にからむ収入で満たされた時、彼の闘いは個人的なものとして収束してしまうのか。

個人的なものとしないために、出版とか、発信とかはあるのだろうけれど。
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by eric-blog | 2016-04-26 10:21 | □週5プロジェクト16 | Comments(0)

GPWU 第3回 

第3回 4/25
参加者: 2名

1.1分間プレゼンテーションのコツ
(ア)テーマについて、連想図や出発点「知っていること」「知りたいこと」などでなるべく多様な視点から出してみる。(できればグループ作業でやるとよい)[拡散する]
(イ)「わたし」の視点や価値観、ひっかかりなどによって絞り込む。優先順位をつける。[収斂する]
(ウ)その視点から構造化する。まとめる。プレゼンテーションであれば「大切なことは三つあります。」と必ず言ってみる。
(エ)[例] 「あなたは犬派?猫派?」
2.先週宿題にしていたレポートを共有する。
(ア)一人ひとりが別の人のレポートを読む。A4一枚程度だったので、2分ほどで読めていた。
(イ)「他己紹介」の要領で、紹介する。
①書いてあること
②そこから思ったこと
③改善点など
(ウ)レポートには三つの視点を入れること。[テキスト「調べよう!三点確認法」p.87参照] 「わたし」「あなた」「みんな」だ。
①「わたし」の体験も重要なデータである。年代によって異なる体験をしているし、時代背景の違いが体験に影響を与えている。例えば、初めての海外旅行がみんな1974年だったりする。なぜだろうか? 一人ひとりが体験していることは時代的なことなのだ。それをしっかり「データ」として加味することでレポートが厚みを増す。
②「あなた」の視点というのは、簡単に聞き取りすることができる友人や家族などの身の回りでの体験のこと。簡単にゲットできるこれらの情報は、「データのうそ」を見破る好材料だ。「景気が上向いている」と経済指標が言っていたら、回りの人に聞いてみよう!どこにその「エビデンス/証拠」があるだろうか? 自分自身の身近な人たちの体験も貴重なデータだ。そして、「科学」にだまされないための心がけだ。(科学が間違っていると言っているわけではないよ、念のため。ただ、科学とは現実の後追いでしかないことは、知っておくこと。わたしたちは科学よりはるかに賢い。)
③「みんな」の視点というのは、わたしたちが対面することのできない人々の視点のことだ。アンケート調査や実態調査などのデータに基づくもの。そして、それらをまとめた「文献」も自分の頭で考えるための重要な情報だ。先行知見は時代を越えて集めることのできる年代比較の視点にすら答えてくれる。すごいね!
(エ)情報をまとめたり、分析したりしていると「発見」があるはずだ。わたしがよく言うのは「発見があるまで分析をやめるな!」である。新たな発見が(自分にとってだよ!)がなければ、なぜ学ぶのだ? 学ぶとは新しいことを知ること、身につけること、できるようになること。だよね。
①分析の視点は、すでに授業の中でも紹介した「12のものの見方・考え方」をとりあえずは、全部やってみよう。[テキスト「分析しよう」、p.90参照]
②発見したことには「名付けよう」。名前をつけることで、その概念を応用して、現実を説明したり、読み解いたりできる。例えば、岩村暢子さんは、家族の食卓についての調査で、調査目的以外のこととして、いまの人々が「アンケート調査なれ」していて、実際に自分がどうであるか、何をしているかではなく、調査者の意図に添った解答をする傾向があることを発見している。
③もし、それに名前をつけていれば、それは、いま、アンケート調査をするすべての人々が注意を払うべき課題として共有されることだろう。例えば「学校教育症候群」などと。より広い概念的な言葉を使えば、「認知的流動性」=応用の幅は広がり、いろいろなことに応用して考えることができる。「いまの若者は学校教育症候群があるから、上司の気に入るような答えばかりだすんだよね」などのように。名付けは大事。
(オ)他の人が紹介した自分自身のレポートを見直そう。付け加えて、どんな調査をすれば、どんな発見があると思うかまでかんがえ、それに名付けてみよう。[個人作業、3’] 全体共有
①「豊かさの価値観」 ムヒカ元ウルグアイ大統領の来日で、「豊かさ」とは何か、「貧困」とは何かを考えたかった。しかし、岩村さんの指摘するように、アンケートに答えた人は、自分の価値観ではなく、「物質的豊かさも大事だけれど、精神的な豊かさも大事だよねぇ」などと、あいまいに、調査者の意図にすりよった答えをする傾向があることに気づいた。名付けとしては「無自覚の価値観」。
②「食料自給率と食品廃棄」 保育園で働いている母の影響もあるか、「食べ残し」について考えたい。昔の食生活と今の食生活の比較、それらの食品の中で「輸入」だったものは何かなど、自分たちの経験とデータを検証してみる。そこから生まれた疑問が、さらに詳しく「貿易統計」を読んでみる視点になる。「食べ残し撲滅」なんてことではなく、食と生活のような関連から考える。
1.女性受刑者がどんな罪を犯して服役しているかを描いた本がある。その中で、「豆に虫わかして」となじる姑の声が台所から聞こえて、頭の中が真っ白になって殺した、なんていう人がいたのがとても印象に残っている。
2.かつて、食は「生きる」ということの根っこであった。
3.名付けるとすれば「食の根無し草化」。そして、その根無し草化したことによる影響は何かへと考えがおよぶようになる。
(ア)身土不二、自分の身近な環境でとれたものを「一物全体食」で食べることが健康であるというマクロバイオティック の考え方が崩れる。
(イ)食の「無国籍化」がすすむ。グローバリゼーション。
(ウ)「当たり前」の繰り返し食や定番料理がなくなる。
(エ)CookPadが流行る。
(オ)カリスマ・ブロガーなど、食についてのレポーターやブログが増える。
(カ)「情報を食う」ようになる。
(キ)食育が必要になる。
(ク)・・・・
③「熊本地震とゴミ問題」 三年はかかると言われている震災後のごみ処理。
1.「断捨離」災害。いやもおうもなく、断捨離させられた被災者。しかし、見方を変えて、「断捨離」だったのと思えば、見えてくるものもあるのではないか。
2.生活改善のために断捨離したのだとすれば、「どんな生活」を目指していたかが見える。
3.エコ化スマート化計画がたてられる。
4.惨事便乗型消費推進を避けるためにも、名づけは大事だ。
3.今日のアクティビティ「GoFish!」
(ア)基本のやり方
①四人一組で行う。
②椅子を丸くして、真ん中に空間「海」を作る。
③そこにチップを16個配る。
④ゲームの目的は、なるべくたくさんチップをとることだと伝える。
⑤四シーズン行う。シーズンが一度終わるたびに、真ん中の「海」に残っているチップは倍になる。
⑥しかし、「環境容量」Carrying Capacity があるので、チップは16以上には増えない。
⑦チームで話し合うことはできない。シーズン中に話し合ったり、人に指示をしてはいけない。
⑧第一シーズンを始める。「Go Fish!」。記録用紙を作って、各人がとった数を記録しておくのもよい。
⑨残っている数の倍の数を配る。(チーム数が多いと、これが大変!)
⑩第四シーズンまでくり返す。
⑪記録表に記入した数を合計するか、手元にあるチップの数を数えて、各人のスコアを確認する。
⑫全体で、誰が一番かを決める。これまでは言っていなかったが、各チームごとの合計も比較する。
⑬ふりかえりを行う。それぞれのチームで、それから全体で。
⑭次にチームで、どうすればたくさんとれるか 、そのためにはどうすればよいかを話し合ってもらう。
⑮第二ラウンドの四シーズンを行う。
⑯四シーズン後に、獲得したチップの数を個人とチームについて確認する。
⑰それぞれのチームで起こったことを共有する。
⑱ふりかえりとまとめ。「資源管理にとって大切なこと」
4.ふりかえり

【ファシリテーターのふりかえり】
今日準備したアクティビティは、Go Fish以外に「クロマグロの悲劇」と「マナミヤ」である。「クロマグロの悲劇」は、基本はGo Fishと同じ資源問題について考えるものである。しかし、改めてGo Fishとの違いを再確認できた。
1.国別対抗チームにするので「資源管理のための国際会議」の設定に無理がない。
2.チームごとに異なる人数にするため「人口圧」を感じやすい。
3.その他、食文化に関して「伝統だから」「文化だから」など、漁獲枠の獲得をめぐる議論で出される論拠が、資源管理の科学以外の側面に気づかせてくれる。
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by eric-blog | 2016-04-25 18:39 | □週5プロジェクト16 | Comments(0)

生徒全員の学びを保障するコの字型配置+4人グループ学習

生徒全員の学びを保障するコの字型配置+4人グループ学習
東京都江戸川区立二之江中学校、明治図書、2016 
2492冊目

2005年から全校あげて取り組んでいる学習形態。

生徒相互の問いかけあい、つぶやきが、疑問と学びを促進しあう。

すべての教科での実践事例が紹介されています。

四人グループにする前に、自分の考えをまとめたり、他の人はどう考えているのだろうかと知りたい気持ちが生まれること、
そして、グループ討議をどこで終了するかが、効果的な学習形態としての使い方のポイントであると、紹介されています。25

だらだらグループ作業をしているのではないこと、一人ひとりに返して行くことが大切ですね。

学力が異なる生徒によるグループで構わない。そこにおもしろいダイナミクスが発生する。異質な気づきや疑問、視点というものが互いに刺激になる。

一度、見学してみたいなあ。

http://edogawa.schoolweb.ne.jp/swas/index.php?id=1320061


東京新聞に紹介されたことがホームページに出ている! 更新はや!
http://edogawa.schoolweb.ne.jp/swas/index.php?id=1320061&frame=weblog&type=1&column_id=119643&category_id=1558

公開授業があるようです。4月28日。すごいねぇ!
http://edogawa.schoolweb.ne.jp/weblog/files/1320061/doc/31943/257069.pdf

見学しました!

江戸川区立二之江中学校 全体研修会

■午前中から、すべてのクラスでの授業参観があり、授業検討会は四限目12:55〜13:45 の50分授業一こま。
■授業検討会は14:00-14:55、休憩なしで引きつづき「指導助言」が永島孝嗣氏から。

【公開授業について】
三年5組 38名 一人欠席? 四人一組10グループ。(三人のグループもあり)

■公開授業の冊子に、生徒全員の名前と座席表。これは、後の授業検討会の時に、生徒の名前を出して、その子が学べていたか否かを検討することに活用された。わたし自身は、クラスの後方、四つほどのグループを中心に見ていた。冊子には「生徒には働きかけない」とあったが、気づいたのが遅く、後のまつりだった。見学者というリソースも、学びに活用するというのは「悪」なのか?生徒は真空状態で「教員」と「生徒」の間だけで学ぶのか?という疑問はある。

数学「三角形の相似条件」 
ステップ1 三角形の相似の証明問題6問。 20分ほど。
ステップ2 相似を利用して三角形の辺の長さを求める計算問題12問。20分。

最初に前回までのふりかえりと今日やることを伝えた後、プリントの配布。「全部できなくていい」と「わかること」を優先する発言。
一人ずつが少し見た後、すぐに「四人組を作って」と指示。みんな慣れた感じで机の配置を変える。問題を解くのにとりかかる。特にグループでの作業はなし。
時間で区切って、「全部できた人?」と挙手を求める。3人程度。
ステップ2の導入の時に、「証明問題がわからないとできない計算問題」「入試問題である」などのコメントあり。計算問題のプリントを配る。
時間で区切って、「全部できた人」さっきより断然多い! 

都立高校の入試問題についてのコメントをして、終了。

授業で気づいた順に

1.相似の三つの条件は板書ないし「プロップ」化した方がいい
2.四人組であることによって「逸脱」は確かに少ないが、一人ひとりの集中にはつながっていない。
3.「教科書でやったんだから、それを参考にして」と言われた後、TE君が質問したらTA君が「写せばいいんだよ」と答えた。これはないないああ。
4.「答え」は共有しているが、「考え方」は共有していない。→どうする?
(ア)四種、別のプリントにすることで、考え方がわからないと答えが書けないようにする。
(イ)あるいはどの問題についても「三つの条件すべてについて検討する」などの

5.証明に使うキーワードを板書する。証明の時に、そのキーワードを使っているかどうかが、判定の基準になる。
(ア)対頂角、共通、錯覚
6.相互学習もいいが、教員はもっと補助線を個別に出していいのではないか。→集中のために  途中のミニレクチャーの時に教員が出していた。
(ア)「しるし」をつける
(イ)三角形を色分けする
7.ヒントも板書する、あるいは「プロップ」化するのがよいのではないか。
8.板書の三角形の向き? 確かに取り出しているのだが、相似を認識するにはもう一手間必要。ひっくりかえしても相似というのは定着しているのだろうか? [後の話し合いでは、そのことについてグループ内での確認があったところもあったと。]
9.「全然わかっていない」と言っている子どもに「計算と図」「証明と計算」の関連についてのコメントは不要。馬耳東風。
10.課題解決型になっていない。「この子はなぜわからない?」という問いをこの課題について、グループ内で共有することは不可能。
11.問題の解き方のルールの確認。アルゴリズムがない。生徒もわかっていない。
12.課題解決のアルゴリズムを作成させることを課題とすれば、どこでつまづいているかが、自分でわかるようになるし、質問もしやすくなるはず。
13.ノートの取り方。プリントをびっしり貼っている。見開き半々にして右ページに余白をとった方がいい。「わたし」が入る余地がない。

【検討会より】
14:00から

検討会には35名ほどの参加者。外部から二人、わたしとポプラ社の編集者。
なんとなく、「コの字」型に、机なしで椅子が配置されている。意外に男性が多い。
講師の永島孝嗣さんが、講評の最初に「これからはこの検討会も四人一組などでやった方がいいかもしれない。」と発言。ぜひ、そうしてほしい。

初任の先生方は男性6名、女性1名、もう一人女性1名の講師。彼らは、コメントが一巡した後、一人ひとりからの発言が求められていた。

初めに校長から「このやり方に取り組み始めて11年、いろいろな手法があるが、「このやり方」に取り組み始めた理由は、確かな学びを保障するため。各教科のねらいがいかに定着できるか。達成の手段である。それが根っこ」と挨拶。

次に授業者からコメント。「「反省点」から。「言い訳」かな。研究授業に合わせやすいところに進度を合わせたかったが、相似になった。ここは、一二年生で学力が伸びなかった子どもに難しい。
コミュニケーション能力の低い四人組が学びあいができない。窓側の前方。「Sくん」のグループは話し合いがない。」

その後、フロアーから。どんどんと。10件ほど。
自分自身が「やってよかった」というコメントはなかった。
初任の人には戸惑いが多く、スクール形式での並びに「ほっとする」というような意見もあった。
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by eric-blog | 2016-04-22 17:45 | □週5プロジェクト16 | Comments(0)

でっちあげ 福岡「殺人教師」事件の真相

でっちあげ 福岡「殺人教師」事件の真相
福田ますみ、新潮社、2007
2491冊目

学校という場が、いかに無防備であるかが、怖いほどわかる本である。

この本が取材しているのは、担任の体罰と言葉による暴力によってPTSDを発症し、入院を余儀なくされた小学校4年生の男の子のケースだ。

マスコミは、学校が「体罰」があったことを認めたこと、そして、その後遺症が残っていることをかき立て、「殺人教師」とかき立てた。

えん罪であることを証明したいと裁判を受けて立った教員の側についたのは、わずかに2名。訴えを起こした親側には550人の弁護団。

裁判は始まった時にはできレースのようにも思えた。が・・・・


この本で取り上げられている「炎上」はほとんどマスコミによってのものであるといえる。

保護者に対する立場が弱い教員
ことなかれ主義で、丸く納めようする管理職
子どもの訴えを尊重すべしと事実確認をおざなりにする医師

など、それぞれに、専門性に対して無責任な行動と決定の積み重ね。

それにしても、学校が相手にしているのは「未熟な」未成年者、流されやすく、そまりやすく、集団化しやすい年代を含む、さまざまな個性を含みつつ、均質化、集団化、横並びを奨励するような体質を持っている。

だから、学級で何が起こっているかを、アンケートやインタビュー、聞き取りなどで明らかにすることはとても難しい。

さらには、子どもが思い通りにならないのは、自分のせいではないと思い込みたい親。

子どもや親は無辜ではない。

不幸な組み合わせがそこにあったと言うべきか、あるいはマスコミの力がそのような組み合わせを招くのか。

人と関わる仕事の大変さを感じさせられた。

あまりないよね?とも言えないところもあるだけに。

同じ著者による『モンスターマザー』は、もっと親の問題に焦点をあてたもの。
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by eric-blog | 2016-04-22 15:28 | □週5プロジェクト16 | Comments(0)

アクティブ・ラーニングと国際理解教育・グローバル教育

アクティブ・ラーニングと国際理解教育・グローバル教育

地球意識やグローバル・シチズンシップを獲得することは、持続可能な未来のために必須。しかし、いま、流行は「里山資本主義」であり、「コミュニティ・デザイン」である。主催者や始動者は国際的な視野や文明論的なスパンを持っていると思うが、そこに引き込まれている人々はどうなのだろうか? その人たちがグローバルな視野を獲得するために必要なことは何だろうかと疑問に思う今日この頃。

ユニセフ募金のテレビCMに「ハドラミ」ちゃんという死にそうな赤ちゃんの動画が使われているのも、気になる。というのも、1990年代のアクティブ・ラーニング系プログラム開発の第一人者とも言えるスーザン・ファウンテンさんのワークショップを思い出すからだ。

まずは、1990年代のグローバル教育から観てみよう。

■貧困のイメージはどこから? ユニセフから。

『いっしょに学ぼう』の翻訳にあたって、著者を招いてのワークショップを開催した。1994年のことだ。

そこでスーザンは、世界の貧困のイメージはどこから来ているかと問うた。参加者は答えた、「ユニセフ」と。彼女は頷いて言った。「そうなんです。ユニセフが「惨めな世界」のイメージを広げているのです。

そして、この『いっしょに学ぼう』は、そのような世界のイメージを改め、わたしたちがともに生きる地球のために、子どもの頃から身につけて行きたい力は何かに焦点をあてているのです」と言ったのだ。

「惨めな」世界のための募金。惨めで悲惨であればあるほど、募金は集まる。

それは確かに「行動」につながるだろう。募金するという行動に。あるいは、街角に立って募金を呼びかけたりすることにもつながるかもしれない。

しかし、それで貧困が、飢餓が解決するのだろうか?と、1990年代のグローバル教育は問うたのだ。そこに「理解」はあるのかと。

ここで、聞いておこう。あなたは、そのような募金活動につながる学習を「アクティブ・ラーニング」と呼びますか? と。

■「惨め」なイメージはなぜいけない? 二つの落とし穴

スーザンがユニセフの『開発のための教育』のプログラム開発にもかかわっていることを知ったのはその後のことだ。

『いっしょに学ぼう』と『開発のための教育』は補完関係にある教材だ。スキルの学習とコンセプトについての学習。「コンセプト=概念」を学びの柱としているのは『PLT木と学ぼう』という環境教育とも共通している。

気づきのためのアクティティを通して「概念」を発見することで、体験から血有償的な学びを紡ぎだし、現実に応用するというW型学習が可能になる。

スキルの学習の演習的な要素と、概念を身につけるコンセプト学習。

世界を読み解く原則と、世界に関与していく参加のスキル。この二本柱の教材開発に、スーザンは関わっていたのだ。

ユニセフは、啓蒙的な団体である。世界の現状を伝え、そのための問題解決を提唱している。しかし、「ハドラミ」を救うための募金は、教育活動としては落とし穴があることを、スーザンたちは訴えたのだ。

一つは、「惨めな」ハドラミと、お金をあげるわたしたちという関係性の学習は、募金で止まってしまう。ハドラミがなぜ飢えているのかを問うことがない。途上国の飢えの原因が、わたしたちにあるかもしれないという自分たちを見直す学びへと発展しないということ。

もう一つの学びの落とし穴は、ハドラミやハドラミを取り巻く人々やそこに生きる人々の主体性を観ることのない募金活動によって、開発の主体が誰かについて誤解を学ぶこと。

グローバル教育、開発教育によって学ばれるべき概念として『開発のための教育』は「五つのグローバル・コンセプト」をあげている。

相互依存
イメージと認識
社会正義
対立と対立の解決
変革と未来

これらのコンセプトはわたしたちの世界の認識と行動のために役立つものだ。

学ばなければならないことは、先進国、途上国を含めて、わたしたち一人ひとりが開発の主体としてこの社会に正義を実現することを願いつつ、行動すること。

■どのように「世界」はわたしたちとつながっているかを学ぶ3つのアクティビティ

ハドラミの貧困と、わたしたちの生活は無縁のように思える。そして、豊かなわたしたち、余裕のあるわたしたちは、「かわいそうな」彼らにお金をあげることで問題を解決することができるのだと。

そうだろうか? 彼らの貧困とわたしたちの生活は無縁だろうか?

それを考えるためのアクティビティが三つある。

一つは「マナミヤ」である。アフリカの自作農民たちが開発によって貧困になっていく状況を追体験するものだ。

もう一つは「ペドロの開発」である。こちらは、途上国における開発の主体がどこにあるかを考えるものだ。

「貿易ゲーム」も途上国の課題を考えるのに役立つだろう。

いずれも、先進国とは「銀行」や「開発援助」でつながっている。

では、「正しい」開発援助をすればよいのか? 適正技術の移転という技術支援が答えなのか? これらのアクティビティは、「正しい開発」のあり方を考えるためのものなのか?

「ペドロの開発」の著者であるテッド・トレイナーは言う。「違う開発のあり方があるはずだ」と。

そして、『死に向かう開発』(Developed to Death)でさらに言う。「わたしたちは変わらなければならないという意識が、わたしたちの社会の大多数の人々によって共有されることこそが、違う開発のあり方へと向かう道なのだ」と。

だからこそ、新たなあり方のための原則として、相互依存や正義という概念を学び、それらの視点で社会を観ることができるようになることが大切なのだ。

それは、海外協力の場面だけに限らない。

■里山資本主義とコミュニティ・デザイン

と、このように観てくると、いまの日本は縮んでいるように見える。地域づくり、地域起こし。国際理解教育や道徳においても「郷土愛」や「日本人としての誇り」が強調される。

足元の課題から解決しよう。

それは悪いことではない。同じモデルが途上国でも実践できれば、そして世界中に広がれば、開発の問題は解決するかもしれない。

しかし、日本という国は、それでも海外とつながっているのだ。里山資本主義は資本主義の補完的なものでしかないと、提唱者も言う。一つの里山だけで完結しているものではないし、いや返って「消費者」としての他者に大きく依存している経済ですらあるのだ。

その消費者たちは、さらに海外ともつながっている。貿易で、ODAで、資本主義で、国連や国際機関や多国籍企業などで、そして、そこで働く職業人として。

日本のODAのあり方に無関心でよいのだろうか。
イスラエルやオーストラリアとの武器の共同開発に無関心でよいのだろうか。
多国籍企業がどのように海外で展開しているかに無関心でいいのだろうか。
安い労働力に支えられた低価格の商品を買い続けるのでいいのだろうか。

環境のつながりもある。

世界の水産資源が枯渇するまで、水産物の消費を拡大し続けるのでよいのだろうか。
世界の森林資源が枯渇するまで、林産物の消費を拡大し続けるのでよいのだろうか。
地球が温暖化してもなお、二酸化炭素を排出する化石燃料によるエネルギー消費を続けてよいのだろうか?

それらの問題に取り組む団体や市民運動と、地域起こしの担い手が、だんだん遠くなっていくように感じるのは、わたしだけだろうか?

■1970年代からの宿題たち
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by eric-blog | 2016-04-21 17:32 | ☆よりよい質の教育へBQOE | Comments(0)