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ERIC NEWS 298号 202020 第6号 教育の人間化と近代の人間化はともにある

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ERIC NEWS 298号 ともによりよい質の教育をめざして  
202020 第6号 教育の人間化と近代の人間化はともにある
これからの未来へ  もうちょっと考える
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(文責: かくた なおこ 角田尚子
http://ericweblog.exblog.jp/
twitter : kakuta09  FBも)

いま、ヨーロッパ教師教育学会議にでるために、トルコに来ている。トルコのエネルギー消費は、日本の約3分の一。石油換算で、1370kg。日常生活では、日本と何ら変わることがない。冷蔵庫、洗濯機、皿洗い機などの家電があって、インターネット接続ができて、テレビもある。

産業・運輸・民生という三区分の割合など、どう違うのか、まだ調べていないけれど、日本は1970年代以降に運輸と民生が大きく伸びた。ちょっと引っ掛け問題みたいなのは、事務所などのエネルギー消費も民生に入っているということ。

トルコのこれからとかのワークショップなど、参加してみたいなあ。他人の国のこれからを勝手に考えるというのも、なんだが、おもしろいエクササイズになりそうだ。というのも、日本のエネルギー消費を現在の1/3にする、すなわち1960年代後半から70年前半にするというのが、「バックトゥザフューチャー1968」プロジェクトで考えたことだったからだ。

地球のエネルギー消費を「平等に」するとすれば、その程度が妥当だということだ。ということは、いま、そのレベルのエネルギー消費にある国々のこれからの姿を共に考えるプロジェクトがあると面白いということになる。

大学生の交流など、どうだろう?

3.11以降、少なくとも関東圏では、「省エネ」は身近な課題として「感じられる」程度には取り組まれている。しかし、それも10%程度の削減までだ。

政府が出した未来のエネルギー・シナリオの三択にしても、いまのエネルギー消費のレベルに対して、どのようにそれを満たすかを問うているだけだ。わたしたちの社会が、1970年代以降にどのような質的な変化を遂げたのかを検証することなしに、今後の30年、50年の変化のあり方を考えることはできない。

ありゃりゃ、教師教育学ではなく、環境教育の人を探す必要があるね。

>>>>>>>>202020 これまでの号と発行日 <<<<<<<<<<<

1.世界に誇れる「子どもは宝物」だと示せる指標はどこにある? 2012年1月30日
2.参加型学習を継続的に、かつ日常的に行なうのに適切な規模は何人? 2012年3月11日
3.「学習からの逃避」と高等教育修了率の低さ 2012年5月6日
4.子どもを自然の中に連れ出す、地域との連携を深める。必要な指導者数は? 2012年6月17日
5.民主主義と教育。明治時代に始まった「兵舎型」校舎の「集団の規律」中心形式の限界 2012年7月22日

6.近代のパラダイムを超える「教育の人間化」が近代の人間化につながる。
7.超えていくために教える
8.学習性無力感とポジティブ・シンキング
9.何を考えるかの「暗記型」教育から、どのように考えるかの「スキル習熟型」教育へ
10.個別化教授法の工夫いろいろと、学級マネジメント

>>>>>>>>> 教育の人間化 <<<<<<<<<<

教育の人間化というのは、1970年代、アメリカ合衆国で起こった教育主張の潮流。1960年代、スプートニク・ショック、つまり、宇宙への進出でソ連に先を越された米国が、科学教育に力を入れ出したきっかけのこと。その時起こった変化は、大学での最先端の科学を体系化し、その体系をよりよく学ぶためには、中等教育段階で、何をどこまで、どのように教えればよいかという視点からの変化であった。
教育の人間化は、そのような「大学の下請け」としての中等教育のあり方に疑問をつきつけた。「学問の体系よりは、学習者中心で」「専門家育成のための教科ではなく、学習者を次のステップに準備するための学び」など、学習者中心主義の主張とも言える。

専門家の養成という課題をよりよく遂行するために、大多数の、そのような進学コースとは無縁の生徒たちに、同じカリキュラムを与えることに意味があるのだろうか?

むしろ、中等教育だけで社会に出る子ども、社会生活に役立つ知識などの観点から、カリキュラムが編成されるべきではないか。それが当時の「教育の人間化」が主張したことだ。日本でも、「教育の人間化を実現する会」が、米国視察旅行を主催したり、学習会活動、出版などの活動をしていた。

PLTの「考え方を教える」というスキルに基盤をおいた考え方や、日本における総合的な学習の試みも、ここから出て来ていると考えて良いだろう。

米国では、「考え方」に焦点を当てるという改革は、成功しているように思う。少なくとも、PLTの主張する「考え方を教える」というスタンスが、抵抗なく受入れられているのが現実だ。しかし、米国においても日本においても、中等教育の「教科主義」からの脱却は、それほど成功したとは言えないように思う。

総合学習も、追加的な改革であって、決して構造的な改革ではなかった。日本における総合学習の導入は、教員養成との連動、現職教員の研究・研修の確保、教員の加配、教員の協力体制づくりのための手だてなどの構造的なサポートを欠いていた。それでも、取り組みが進んだのは、まったく教員の熱意のおかげだろう。

一方で、国際理解、情報、環境、福祉・健康など、総合学習で取り扱うべき内容は、確かに、大学の学部名や学科としては増加した。しかし、そのことは分野が成立し「専門家」が増えただけであって、すべての教員養成必修単位を受講した教員免許保持者が総合的な学習の指導内容や方法について、学ぶ機会を得たことにはつながらない。

国際理解、情報、環境、福祉・健康を冠した学部学科の授業がどれほど「学習者中心」「学びのスキル」を共通目標とし、かつまた授業の内容方法に反映されているかは疑問である。

いまも、大学改革は続いている。しかし、教員免許のあり方は変わっていない。教科主義の免許制度が、総合をめざす大学教育と総合学習の実践をめざす高校との間のボトルネックになっていたようにすら見える。

総合学習、というよりも「学習者中心」のカリキュラム編成が、大学での教員養成、教員免許、教員採用など、指導者の確保という面から難しかったことから考えると、今後の教育改革に、70年代的な意味でのカリキュラム改革を望んでも、大学での新たな専門分野という「たこつぼ」が増えるだけなのではないか。そして、それは近代の人間化が求めるものではないのだ。

近代の行き詰まりは、
○要素主義的科学
○グローバリゼーション
○メリトクラシー、資格役割社会
○法令主義・官僚主義
にあるのではないだろうか。

「考え方」を教えることが、主張として生き残り続けているように、大切なのは、一人ひとりを「総合する主体」として育てるという姿勢なのだと思う。
そのことについては「エンパワメントの教育」などでも述べて来た。http://ericweblog.exblog.jp/3580676/

独学の三徒、スーザン・ジョージの地球市民論、ヘーゼル・ヘンダーソンの経済論、ヴァンダナ・シーヴァの科学論が「人間化」を考える鍵だと、わたしは思っている。

人間化とは、個人でありながら集団、集団でありながら社会、社会でありながら個人である人間という存在を慈しむあり方を模索する、成長と学び合いのプロセスそのものなのだと言える。

1970年代に出された問い「教育の人間化」に対する答えは、まだ出ていない。

教育的指導者の三つの省察、技術的・実践的・批判的(見通し的)省察を思う時、一人ひとりの教員のエンパワメントそのものが、教育の人間化の道なのだと思う。エンパワメントの教育のための内容方法については、すでに述べて来ている、と思う。

だからこそ、教員養成のあり方を考えよう。だからこそ、トルコに来たのだが。さて、そのご報告はまたの機会に。

Deducation教育の再考ということばが、頭を離れない。We have to deducate ourselves.

「越えるために教える」次の202020のお題である。

>>>>>>>>>この暑い夏の想い Think Nukes! <<<<<<<<<<

もう、冷めましたか? 3.11ショック。

ショック状態という興奮状態は、いつまでも続けることはできません。そこから、行動を継続するのは、意思の力と、情報の力です。意思があるから情報が入り、情報が入るから意思が継続する。いい循環を作れていますか?

お勧めウォッチをいくつかご紹介いたしましょう。

>>>>国民的議論のあり方を熟議する

内閣府国家戦略室がエネルギー政策についての継続的蓄積的な国民的議論のあり方を検証する作業を行っています。そこでは、今回の「エネルギー・環境の未来に関する意見聴取会」からのインプット、8月12日までのパブリックコメントの結果だけでなく、民間が行った世論調査なども踏まえて、国民的議論のあり方を検証するとしています。http://www.npu.go.jp/policy/policy09/archive12.html

討論型世論調査の結果については、ゼロシナリオの割合だけ増加するという変化が前後において見られたこと、そして、この中には「原発即時撤廃」が多く含まれること、その他のシナリオを選んだ中にも「原発の段階的撤廃」が含まれることなどが明らかになっています。
http://ht.ly/d8J3i

この議論をリードしている日下部審議官は、いわゆる「新型官僚」の一人で、「小売り自由化」にも賛成の立場を表明していたことがあるという人材。その他、省益を越えて集まったであろう「国家戦略室」が、何をどのように切り返して行けるか、ウォッチ! です。
http://www.youtube.com/watch?v=WcHWk2LcaoU
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/367.html

招かれた「専門家」の中には「茶番だろう」と見限り発言をしている人もいますが、ではなぜ出て来たのかしら? 出て来て「茶番だ」と見透かしている自分をアピールするためかなあ。

>>>>>脱原発基本法を成立させよう!

民主党政権が「脱原発は規定路線」と言い、公明党が選挙公約であるマニフェストに取り入れ、原子力委員会の副委員長である鈴木達治郎さんが「原発の新規建設はありえない。ということは原発はなくなることは、時期の問題」と言おうとも、まだまだ原発利権は生きている。
官僚主義の国なのだから、では、法律で決めましょう!「脱原発基本法」成立をめざす団体が設立されました。
http://ht.ly/d8JbG

海外ニュースでは「ノーベル賞受賞者が提唱する」と報じられていました。誰が言ってんの? ってことかしら。日本国内であれば、大江健三郎さんがね、で通りますが。

>>>>>7月21日 NHK 『メルトダウンの真相』

NHK メルトダウンの真相、ぜひごらんください。何度も再放送されています。当時、対策にあたった人たちの恐怖に震えた生の声が、収録されています。こんなことは、もう日本の原発で起こらないと言えるのでしょうか?
http://www.dailymotion.com/video/xsbagw_nhkyyyyyy-yyyyyyyyyyyy-20120721_news

>>>>>多数派である「原発なし都府県」が何をし、何を考えるか?

発想の転換ですね。徳島を訪れた時、当たり前に、原発はいらないっしょが共有されていることに驚きました。そんな事実がしっかり表明され、共有されていくことが大切なのだなと思いました。

日本の原発立地県は13県。原発なしの方が多いのです。http://www.jaif.or.jp/ja/nuclear_world/data/f0301.html
北海道、青森県、新潟県、福島県、宮城県、石川県、福井県、島根県佐賀県、鹿児島県、愛媛県、山口県(上関?),静岡県、茨城県

原発を拒み続けた和歌山の記録平成24年5月11日発行 監修・汐見文隆 編者・ 「脱原発わかやま」 編集委員会 発行所・寿郎社http://www.wakayamashimpo.co.jp/2012/06/20120611_14541.html
金とく「模索~原発ができなかった町で~」 NHK総合1・大阪 08/15(水) 25:40
t.ggmobile.jp
三重県の南伊勢町と大紀町にまたがる芦浜は、かつて中部電力の原発候補地になり、地元では反対派と推進派の対立が続いた。豊かさとは何かを模索する地域を見つめる。

そして、いま、原発なし県も、原発の電気なしではない。何をする? 自治体からの発信も可能だよね。

>>>>>とってもわかりやすい「何が被ばくについての議論をさまたげたか?」

岡山博さんの、「放射線被曝問題と発言の仕方 ―― 健全な議論を妨げる日本社会――」http://hirookay.blog.fc2.com/blog-entry-28.html

「そんなことで悩んでいると。。。」。などと脅すな! わたしは「悩んでいる」んじゃない、考えてるんだ!

真剣な議論を尽くしても、笑って生きることはできますよぉ! Serious Fun, まともに議論いたしましょう!

医者の大きなお世話、縦割り専門家に気をつけよう。
専門家だけがまともに議論できるわけじゃない。

彼らに、こんな声、届いていますか?

旧葛西高校の避難所を訪ねた時、原発事故の避難対策のずさんさが身にしみた。
あれだけの義援金もどこに行くのか、そして、義援金が年末控除されることも知らず、明け暮れた去年。

今年は、何ができるだろうか?

福島の実状、声を聴いてください。

http://89wonderful.blog71.fc2.com/blog-entry-185.html

>>>>原子力規制委員会の構造について

原子力規制委員会の人事が問題にされていますが、基本的に4月の国会で検討され、民主党案ではなく、自民公明案によって「国会人事」となりました。そのことがどのように影響していくのか。官邸前で圧力をかけ続けていたことを、きっと野田総理はこう思って聴いていたことでしょう。「すでに人事は官僚の手に。わたしに圧力かけても何にもならないことがはっきりわかるのも、時間の問題」と。

http://www.youtube.com/watch?NR=1&feature=endscreen&v=xTljqiyU29c

どなたが人事案を起草し、国会への提出を了承したのか、追求しようとしたテレ朝の番組はU-tubeから削除されていました。残念。ダウンロードしておくべきっすね。

そして、現行の原子力委員会からは、反省文はいつでるのでしょうか? 出た?

http://iwj.co.jp/wj/open/archives/25978

>>>>「シェーナウの想い」上映会、開催しました。

国立女性教育会館で行いました。IIPEの参加者と外部からの方を含めて15名が参加しました。

http://www.ews-schoenau.de/


>>>>TEDの見所「ハンス・ロリンズ」データが示す世界

TEDはおもしろい。TEDハタノシイ。でも、どれを見ればいい? そんな時役立つのはやっぱり口コミ。このダイナミックさ、お勧めです。
http://www.ted.com/talks/hans_rosling_shows_the_best_stats_you_ve_ever_seen.html

>>>>>>>>>ERIC25周年に向けたご寄付のお願い<<<<<<<<<

1989年誕生の参加型学習老舗のERIC国際理解教育センター。なんと2014年には25周年を迎えます。
これまで続けて来られたのも、企画委員、運営委員、理事、テキスト購入者、ファシリテーター育成事業参加者など、みなさまのおかげです。感謝です。
これからもよりよい「指導者育成のための実践」推進のための情報提供、研修プログラムの提供などに努力していきたいと思います。
日常活動に加えて、25周年に向けて、事務所のリニューアル、フューチャーサーチ走向未来ワークショップの開催など、企画しています。
特別活動支援のために、テキスト活用、研修参加などのご支援に加えて、ぜひ、ご寄付をお寄せください。よろしくお願いいたします。

ご寄付先 金融機関

ゆうちょ銀行口座: 10020-3288381 名義:トクヒ国際理解教育センター(ゆうちょ銀行同士)
◯◯八(ゼロゼロハチ)店008-0328838 名義:トクヒ国際理解教育センター(他の金融機関から)

>>>>>>>>>>2012年ERIC主催研修<<<<<<<<<<<<<

ESDファシリテーターズ・カレッジ2012年

すでに終了したものについては、報告があります。ブログを参照してください。

1.テーマ「環境」/PLTファシリテーター養成講座「リスクに焦点」 2012年6月23-24日 http://ericweblog.exblog.jp/15642643/ 
2. テーマ「国際理解」 2012年7月21-22日  http://ericweblog.exblog.jp/15834944/
3. テーマ「人権」 2012年9月29-30日
4. スキル「対立」 2012年10月27-28日
5. スキル「市民性」 2013年1月26-27日
6. スキル「TEST13 Teachers' Effective Skill Training 教育力向上講座 
  2013年3月

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  (特定非営利活動法人)国際理解教育センター
ERIC:International Education Resource & Innovation Center

〒 114-0023 東京都北区滝野川1-93-5 コスモ西巣鴨105
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  blog 「 ESD ファシリテーター学び舎ニュース http://ericweblog.exblog.jp/
  blog  「PLT 幼児期からの環境体験」
http://pltec.exblog.jp/
  blog 「リスク・コミュニケーションを対話と共考の場づくりに活かす」
http://focusrisk.exblog.jp/


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by eric-blog | 2012-08-27 20:47 | ERICニュース | Comments(0)

動物の行動から何を学ぶか

動物の行動から何を学ぶか
藤原英司、講談社現代新書、1974
1856冊目

アフリカの大地にたった時、そこに無数の命と生命活動があるにもかかわらず、そこにあるのは、静寂である。時折に、カサコソとか、あるいは鳥の鳴き声が聞こえる以外は、圧倒的な生命活動にあふれている地が、静寂に包まれている。

そこで展開されていることどもの、どれほどのことをわたしたちは知っているのだろうか、と。生命は、人間と同じ言葉を持たない。生命活動は人間の知る限りのものではないし、また人間を基本にして生じて来ている言葉によって説明しつくせるものでもない。その静寂の中にあるものすべてを、わたしたちは知らないということに打たれると、著者は言う。

人間が眠るというとき、泳ぐというとき、呼吸するという時、猟るという時、そこに一定のルールややり方のイメージが伴っている。しかし、その範疇に当てはまらない生命体があるのだということを、たくさんの事例で、著者は示してくれる。

久しぶりの「エルザの会」会報が届いた、その中に、同封されていた新書。動物から学ぶことは、謙虚であれということだと、著者は言う。トルコで、物質的にはたくさんの共通点がある近代という時にありながら、ちがいもあることを思う。ただ、ここ数年のカッパドキアの変化は、あまりにも「観光地化」として共通点が多い。
10年前は10軒しかなかったホテルが、いまや200軒。熱気球の会社も増えた。町を歩くとレストラン、カフェ、土産物屋などが軒を連ねる。目抜き通りの涸れ運河の上にもレストランができている。観光用の装飾された馬車が走る。10年後には、ギョレメの町の中に住むことのできるトルコ人はいなくなるだろうとも。

水曜日ごとだった屋台の物売りも、ほぼ毎日出るようになった。売っているものは相も変わらず野菜、干した果実類、雑貨などなのだから、屋台の質や内容が変わったのではなく、消費量が増えたということなのだろう。

去年は、オヤを編みながらの店番の女性がいた店も、今年はスカーフをつけない若い女性が店番だ。そのうち、わざわざコスチュームとしてトルコズボンにスカーフをつけた女性に、そのあたりを歩いてもらうことになるかもしれない。

夜ともなると、そのまぶしさはさらにも増して、崖の上までも続いている。

Sunset Pointには、峠の茶店が飲み物や玩具を売り、水タバコにチェッカーボードをおいたテーブルで子どもが遊んでいる。

動物の行動から何を学ぶか。

それは人間という動物についても同様なのだろう。ある一つの説明の力が強すぎると、だまされるかもしれない。
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by eric-blog | 2012-08-26 06:33 | ■週5プロジェクト12 | Comments(0)

IIPE 国際平和大学 in Japan 

IIPE 国際平和大学 in Japan 

[9月11日にERICで開かれた「ふりかえりの会」で話し合われたことなど、浅川和也さんがFBにまとめておられます。https://www.facebook.com/note.php?saved&¬e_id=448393515203564&id=178492922193626]

今年で30周年を迎えるIIPE。1982年に、ベティ・リアドンさんたちが始めた試み。コロンビア大学教員教育センター、United Ministries in Educationとの協力で、特に、リアドンの平和研究と平和と暴力の問題について、包括的に研究を続けて来た。2009年からはNational Peace Academyが事務局機能を提供している。
http://www.i-i-p-e.org/history.html

開催回数は、38回。今年で39回目である。リピーターも多く、今回の日本側オーガナイザーである浅川和也さんは、三回目だとか。

今回の日本での開催は4回目となるわけだが、実は昨年の8月に開催されることが決まっていた。しかしながら、3月11日の地震・津波・原発事故の後、参加者の安全を確保できるのかどうかについて、確信が持てないために、2011年3月末頃には、早々に「延期」の決定がなされた。
わたし自身は、すでに申し込んでいたので、今年の会議には改めて申し込む必要はないというアナウンスだった。しかし、結果的には、昨年の申込者60数名に対して、今年の参加者は30名程度。日本からの参加者も少ないという結果になっている。

1.2010: Fundación Escuelas de Paz. Cartagena, Colombia.
2.2009: EJBO Foundation. Budapest, Hungary.
3.2008: University of Haifa. Haifa, Israel.
4.2007: Baketik. Arantzazu, Spain (Basque Country).
5.2006: University for Peace. San Jose, Costa Rica.
6.2005: Femme-Art-Méditerranée (FAM Network). Rhodes, Greece.
7.2004: Sabanci University. Istanbul, Turkey.
8.2003: Asia Pacific Centre of Education for International Understanding (APCEIU). Seoul, South Korea.
9.2002: Miriam College, Quezon City, Philippines.
10.2001: Lebanese American University, Byblos, Lebanon.
11.2000: Mahindra World College. Pune, India
12.1999: University of Calgary, Alberta & Nakoda Lodge, Morely First Nation, Treaty Seven Territory. Canada.
13.1997 (Aug. 7-14) : Univeristy of El Salvador, El Salvador.
14.1997 (May 19-30) : Noordelijke Hogeschool. Leeuwardem, Netherlands.
15.1996: International Christian University. Tokyo, Japan. 日本開催3
16.1995: Kansas City, Missouri.
17.1994: Fordham University. New York, NY.
18.1994 (Aug. 16-21): University of Alberta, Edmonton. Alberta, Canada.
19.1994 (June): Noordelijke Hogeschool. Leeuwardem, Netherlands.
20.1993 (July 25-31) : University of Hawaii. Honolulu, Hawaii.
21.1993 (June 23-30) : Noordelijke Hogeschool. Leeuwardem, Netherlands.
22.1992: Tokyo, Japan. 日本開催2
23.1991: University of Oregon
24.1989 (November): Earlham College, School of Religion. Richmond, VA.
25.1989 (September): Union Theological Seminary. New York, NY
26.1989 (July 23-29) : Teachers College, New York.
27.1989 (April): Chapman College, Orange, California.
28.1989 (Jan. 13-15): University of S. Florida, Tampa, Florida.
29.1988 (Dec. 3-7): Sibol ng Kapayapaan at Kalinangan. Manila, Philippines.
30.1988 (July 4-9): The University of Alberta, Edmonton. Canada.
31.1988 (June 3-5): Teachers College, New York.
32.1988 (January 15-17): Eckerd College, St. Petersburg, Florida.
33.1987: University of California, Irvine.
34.1986: United Nations University, Tokyo, Japan. 日本開催1
35.1985: Manhattan College, New York.
36.1984: Florida.
37.1983: Teachers College, New York.
38.1982: Teachers College, New York.

と、とつおいつ、歴史をふりかえっていると、ありゃりゃ? この韓国のユネスコICPU国際理解教育センターで2001年に開催された「人間の安全保障と人権」という国際会議に出席したことを思い出した。『いっしょに考えて人権!』に、その時共有された資料をいくつか引用しているのだ。

IIPEは、その一週間の構造がすばらしいのだと、オーガナイザーや参加者は言う。柱となっている活動をあげてみる。

1.Plenaries: 全体会: 発表者3名が15分ずつ。45分がグループ討議に当てられている。(しかし、この時間配分が守られたことは一度もない)
2.Workshops: 平行して二つないし三つの分科会が開かれている。発表者は一人。(ワークシッヨプと呼ばれているが、ワークショップと呼べるものは少なく、90分のレクチャーや、15分のプレゼンの後、漫然とラウンドテーブル・トークが続くケースもある。)
3.Reflection Groups: 初日から割り当てられた「ふりかえりグループ」が、毎日、90分のセッションが設けられている。ファシリテーターが指名されており、どのようにすすめるかはほとんどファシリテーターにかかっている。*
4.Culture Nights: これはお楽しみの夜、だが、かなり重要な部分をなしている。
5.Action Planning Workshops: Preferred Future

参加者は、アフガニスタン、スリランカ、パキスタン、インド、フィリピン、US, カナダ、ネパール、オーストラリア、そして日本である。

とはいえ、それぞれの国境を越えての大移動は、かなりなものだ。スリランカ出身で、ドバイで高校時代を過ごし、USを経て、いまはオーストラリアという女性も、イギリス出身のカナダ人、アフガニスタン出身でUSで大学教授の職を得ていたにもかかわらず、いまはアフガニスタンに帰って、少女たちのための教育に取り組んでいる人。カナダ人で日本に来て、大阪で仕事をしていたが、福島県いわき市でいまは復興支援団体で働いている人。と書いてみると、女性に移動性が高い人が多く、男性は海外体験があるという程度か。

多文化的な経験が、平和を求める基盤になるのか、それとも平和を求める気持ちが、いろいろな文化を体験しようという気持ちにつながるのか。動機がいずれにあるにしても、他の文化を知る、触れるというのは必要な体験のようだ。

Facebookに写真をあげました。ぜひ、ご覧ください。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.457324774298651.106098.100000633979103&type=3
キップ・ケイトさんの「IIPEって何だ?」というまとめ。さすがです。

Implementing
Ideas for
People’s
Empowerment

何も共通の行動計画を作らなくても、それぞれがそれぞれのできることを続けるだろうと、確信のできる人びとの集まりでした。

小川町の戦争と平和展もすばらしかったです。笠原惠子さんの聞き取り調査がすばらしい! 本にもなっているのです。一人ひとりのお話に胸を打たれます。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.457330147631447.106099.100000633979103&type=1

キップさんと並んでいる方は、自分の書いた体験談を声に出して読んでくれました。受付も、楽しんでおられるようでした。こういうネットワークがすばらしい。

まだ子どもだった方が、お話される最後の方になってきているのですね。

「生母」とプリントされている言葉を、何度も出てくるその言葉を、そのたびに「生みの親」と話しことばで読んだことが印象的でした。「セイボ」という音が、彼女の中には響かないのでしょうねぇ。しかし、書いた時は、「生母」と書きつつも、その響きが自分の中にあるので納得しつつ書かれたのでしょうか。
そして、それを知らずに、文章を音読する人は、「セイボ」と読んでしまうのかなあ。そのセイボという音は、どんな響きを読み人にもたらすのでしょうか。

想いを伝えることを、受け止めることを大切にするってどんなことだろうかと、改めて、思いました。

ありがたい体験でした。
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by eric-blog | 2012-08-22 11:57 | ○子ども支援・教育の課題 | Comments(0)

「主権者」は誰か 原発事故から考える

「主権者」は誰か 原発事故から考える
日隅一雄、岩波ブックレット830、2012
1855冊目

1.情報は誰のものか
2.誰のための官僚か – 主権在官の実態
3.司法の限界
4.主権者として振る舞うために

NHK番組『メルトダウンの真相』は福島第一原発の2号機と3号機の水素爆発は防げたはずだということを、USAとの比較で描き出している。「安全神話」にのっかって、シビア・アクシデントの備えをしてこなかった実態が明らかにになった。バッテリーを準備していない、装置が電源喪失などによる手動の可能性を想定していなかった、原発敷地内が高線量になった場合の備蓄支援の方法を考えていなかった。などなど。

なすがままに流れて行った核反応停止のための作業は、現場の悲愴感とともに、現場も、周囲の住民も、誰の人権も考えられていない「日本という国の原発」のあり方を描き出していた。

NHK メルトダウンの真相http://www.dailymotion.com/video/xsbagw_nhkyyyyyy-yyyyyyyyyyyy-20120721_news

主権者は誰なのか?

その問いを立てなければならないと、亡くなった日隅さんは、書き残した。

主権者として振る舞うための「五つの条件」

1.自分たちのことについて判断するため、必要な情報を得られること
2.情報に基づき、市民が代表者としてふさわしいと考える人物に投票できること
3.国会で自由闊達な議論が行われ、立法や政策に市民の意思が反映されること
4.法律を執行する行政を監視するシステムがあること
5.国民が自ら主権者として振る舞うための教育などが行われること。

ここでも、教育なんだよなあ。なら、みんなでなんとかしようよ。


2001年の省庁再編の潮流は「新型官僚」を生み出したと、塩田潮さんは言う。
官から政へ権力は移る。しかし、官僚も自らが新しい霞ヶ関のあり方を探ろうとしているのだと。塩田さんが描いているのは、必ずしもすべてが「新型官僚」の姿ではない。そこには、再編されても、そのまま横滑りの人事があったことも描かれている。

『誰がための官僚  「霞ヶ関の逆襲」は始まるか』塩田潮、日本経済新聞社、2001

「官僚の発想の底流には、国民不信、生死世不信など不信の集積があった。官僚の本質は・・・むしろ優越意識と強烈すぎる自負心の発露ではなかったか」389
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by eric-blog | 2012-08-20 08:37 | ■週5プロジェクト12 | Comments(0)

日本のエネルギー、これからどうすればいいの?

日本のエネルギー、これからどうすればいいの?
小出裕章、平凡社、2012
1853冊目


図書館に入っているだけで19冊もの単著が3/11以降に出されている。あんなに講演会にも引っ張りだこであったのに。
一問一答形式のこの本。小出さん自身の生き方や考え方が出ている。

1968年に原子力に夢を抱いて原子力学科に入って時、すべての国立大学に原子力学科が作られていたと言います。
そして女川原発の建設に関わって、反対運動の人々に出会い、都会には決して作ることができないことに気づきました。原発は安全ではないのです。だから都会には作れないのです。

そのことに気づいて、原発反対になります。原子力学科の教員たちの誰と議論をしても、反対派が勝つと言います。負けた側が最後に言ったことは「僕にも守るべき、養わねばならない家族があるからね」だったそうです。

学生の頃から繰り返し繰り返し体験してきたこのようなやりとりが、助教という立場で、ずっと研究を続けて来られた背景にあるのだと、思いしります。

そして、原子力の後始末をする専門家が必要ないま、「もし、わたしがもう一度生きることができるなら、原子力の場に戻って来てもいい」と。125

本題であるエネルギー政策については、「エネルギー消費を1/2に削減する」、そこに向けて社会をリデザインすることをすすめています。生活の質とエネルギー消費は連動しているのですが、一人当たり4万キロカロリーの消費を超えると70歳以上の寿命になるが、それ以上に増やしても、大きな寿命の伸びにはつながらない。ということは、4万キロカロリーで、生活の質を保つことができるのではないかという考え方である。そしてもその程度の消費をしていたのは1960年代初頭なのだ。

エネルギー浪費型の社会や価値観からの脱却。

そして、それは一人ひとりが変わって行く、個人の自覚による変化。運動としてもりあがるようなものではない。「シュプレヒコールは嫌い」

一人ひとりが大切にされる社会へと変わること。
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by eric-blog | 2012-08-15 22:20 | ■週5プロジェクト12 | Comments(0)

精神科は今日も、やりたい放題

精神科は今日も、やりたい放題
内海聡、三五館、2012
1852冊目

うへ、っ。精神科という医療現場はすごいことになっているのだなあ。
というのが読後第一声。しかも、そのドツボにはまっている現状に、これまで、同じ著者が書いた本が、加担していたかもしれないという現実。

そして、たぶん、この連鎖は、止められないのだろう。わたしたちの社会が原発依存症から抜け出せないのと同じように、この企業と不誠実な専門家の連合体ぐるみで「もうかる構造」は止まらないだろう。そして、竜巻のように、生まれたトルネードは、どのような言説も糧にして、破壊的に成長するにちがいない。突然、何事もなかったように、その狂乱が終わるまで。

精神科に入院加療している人びとの数は30万人。

「日本は世界における精神薬の在庫処分場と化しており、たとえばベンゾジアゼビン系でみれば、どの国と比べても世界一の精神薬消費国となっている。」50

日本、18億錠/年(誰が飲んでんだ?)、二位のイタリアは7億錠だ。

そして、何よりも恐ろしいのは、うつ病にたいして処方される精神薬は、覚せい剤と同様の成分と作用を持っているということだ。「うつ病は怖くないよ、薬を飲めば、コントロールできるから」とは、わたしのツレから聞いた言葉だ。その認識が蔓延しているために、より安易に診断がくだされ、より安易に投薬される。それで緩解する人もいれば、覚せい剤と同じく、依存症になるひともいるのだ。

そして、さらに恐ろしい事実は、本人が「加担した」と認めている発達障害という診断とその治療だ。すなわち、子どもの段階からの薬によるコントロールの始まりだ。すでにマウスの実験では、胎内あるいは若いときに、これらの薬剤成分に曝露されると、後戻りの効かない影響を残すことが知られているという。88

なぜ、こんなやりたい放題が可能なのか?

・家族にとって都合の悪い行動を抑制することは、家族は反対しない。
・子どもの都合の悪い行動を抑制するのは、周囲が反対しない。
・本人の判断は、本人が病気であるために尊重されない。

ほとんど、回りの都合だけですすめることができる。

その他、嘘をついて精神科を受診した実験の結果とか、複数の精神科を受診したときの診断名の実験結果とか、「診断できない」現実をあきらかにする実験が紹介されている。

人間という存在を、なぜ、人間はこんなにも嫌うのだろうか?

そういう問いしか、浮かんでこない読後なのだ。
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by eric-blog | 2012-08-14 08:57 | ■週5プロジェクト12 | Comments(0)

構造なき暴政  Tyranny of Structurelessness 2/2

http://www.jofreeman.com/joreen/tyranny.htm

1/2はこちら
http://ericweblog.exblog.jp/15933436/

これらの条件は小さなグループで起こりやすいが、大きなグループでも不可能ではない。結果的に、都市におけるより大きな運動は、個別のrapグループのように構造化がなく、特定のタスクに向かう個別のグループほど効果的でもない。
非形式的構造は、ほとんどの場合人びとが効果的に稼働できるほどには手近にあるとは言えない。そのため運動は動き大きくして結果は少ないという結果になる。不運なとこに、これらの動きのいきつくところは、結果そのものほど無害なわけではなく、犠牲となるのは運動そのものなのである。
いくつかのグループは、たくさんの人を巻き込まず、小さな規模で活動できる地域毎のアクションプロジェクトになっていく。しかし、この形は運動を地域限定的なものにする。より広い地域や国レベルにはならない。うまく機能するためには、グループは、当初始めていた非形式な仲良しグループ程度にまで、切り詰めなければならない。これは多くの女性たちを排除する。女性が運動に参加できる唯一の道が、小さなグループのメンバーになることであるとするならば、非社交的な人は、圧倒的に不利である。仲良しグループが組織活動の主要な手段である限り、エリート主義は制度化される。
熱烈にコミットする地域プロジェクトを見つけることのできないグループは、集団であり続けることだけが彼らの存在意義になる。グループに特定のタスクがない場合(そして意識向上だけが彼らのタスクである場合)、内部の人びとのエネルギーは、同じグループ内の他の人をコントロールすることに向けられる。これは、人を操作したいという悪意ある欲望からなされるのではなく(時にはそのような場合があるとしても)、彼らの才能の使い道が他にないというだけのことなのだ。有能な人びとに、時間があり、集まることの意義を正当化しようとすれば、彼らの努力を個人的なコントロールに向け、他のメンバーの人格攻撃をすることに時間を費やす。内部抗争と個人的なパワーゲームに日が費やされる。グループがタスクを達成しようとすれば、人びとは互いに協力することを学び、より大きなゴールのために個人的な好き嫌いを言わずにおくことを学ぶ物だ。わたしたちのイメージの中でのあるべき姿にすへての人を再組成しようとする強制には、おのずから制約が加えられるのだ。
意識向上運動の終わりは、人びとから行き場所を奪い、構造のなさは彼らをどこへも到達させなくした。女性であること、運動であることのいずれもが彼らと彼らの姉妹たちに降参し、他の選択肢を求めることをあきらめさせる。できることはある。何人かの女性たちは「自分のことをする」。これは個人の創造性を高めることにつながる。ほとんどは、運動にとって有益であるが、ほとんどの女性にとって有効な選択肢ではありえないし、もちろん、協同的グループの努力という精神を延ばすものでもない。他の女性は、個人的なプロジェクトを行いたい訳でもなく、彼らの関心をひくグループプロジェクトを始めた、見出したり、参加したりする方法もわからないまま、運動から離れ、さまよいだしていく。
多くは、女性運動の中では見つけることのできなかった構造化された効果的活動のある他の政治運動団体に向かう。それらの政治組織は、女性解放運動を、単なる多くのテーマの一つとして見ており、女性はなるほど、そのために時間を使うべきだろうから、新しいメンバーを獲得するためのリクルートの場だと思っている。そのような組織が「浸透する」必要はまったくない。(除外されているわけではないが)女性解放運動に参加した女性が持つにいたる有意味な政治活動への欲望は、運動が彼らの新しい理念やエネルギーのはけ口とならないとき、他の組織に積極的に参加する。それらの他の団体に参加した女性は、女性解放運動にも引き続き関わりながら、あるいは他の組織のメンバーでありながら女性解放運動にも参加している女性は、新たな非形式的構造の枠組みとなる。これらの仲良しネットワークは、これまでに論じて来た特長によるよりも、彼らに共通するノンフェミニスト政策に基づいているのだが、結果的によく似た機能を果たす。これらの女性は共通の価値観、理念、政治的背景を持ち、彼ら自身が非形式的で、計画されていない、無責任なエリートを形作る。彼らが意図しようがしまいが。
これらの新しい非形式的エリートは、すでに運動団体の中に形作られていた古い非形式的エリートからは脅威と見なされる。これは正しい直観である。そのような政治的に根ざしたネットワークは、昔はそうであったような単に「女子クラブ」に留まりたいなどとは思っておらず、彼らの政治的フェミニスト的理念に転向させたいと願っているのだから。これは自然なことである。しかし、その女性解放運動にとって意味するところは、適切に議論されてこなかった。古いエリートたちはそのような意見のちがいを公開したがらない。というのも、そのグループの非形式的構造を曝露してしまうからだ。
これらの非形式的エリートの多くは、「反エリート主義」「構造のなさ」という横断幕を掲げてきたのだ。他の非形式的構造からのチャレンジに効果的に対抗するためには、彼らは「公け」になり、この可能性は多くの危険な展開を予感させる。そのために、力を維持するために、他の非形式的な構造のメンバーを排除することを正当化する方がたやすいのだ。「アカ」「修正主義」「レズビアン」「異性愛」などのレッテルで。もう一つの選択肢は、グループを、もともとの権力構造が制度化されるように形式的に構造化することである。これは常に可能であるとは限らない。もしも非形式的エリートが十分に構造かされ、過去にかなり権力を行使してきたいたとしたら、そのような目論みは可能であろう。これらのグループは、過去において、政治的に効果的であったという歴史があり、非形式的構造の結束が形式的な構造に変わる適切な代替であったのである。構造化するということは、彼らの動きを大きく変える訳ではない。権力構造の制度化は形式的な変化につながるわけではないのだが。もっとも構造を作る力のないグループが、構造化をもっとも必要としている。彼らの非形式的な構造はうまく作られてこなかったし、「構造のなさ」のイデオロギーが彼らの戦術を変えさせない。グループが構造がなければないほど、非形式的構造も欠いているし、「構造のなさ」というイデオロギーに固執すればするほど、政治的同盟のグループにのっとられやすくなる。
運動そのものは、それを構成しているグループと同じほど構造がないので、運動も同様に、非直接的影響を受けやすくなる。しかし、その現象の現れは異なっている。ローカルなレベルでは、ほとんどのグループは自立的に動くことができる。しかし、国レベルの活動を組織化できるグループというのは、国レベルで組織化できているグループだけである。つまり、構造化されたフェミニストのグループが国レベルのフェミニスト運動の方向性を提供でき、この方向性はそれらの組織の優先順位で決定される。そのようなグループであるNOW、WEAL、あるいは最左翼の女性コーカスが国レベルのキャンペーンをはれるのだ。構造化されていない大多数の女性のレズビアングループは、この国レベルのキャンペーンを支持するかしないかを選べるだけである。しかし、彼ら自身の運動を展開することはできない。そのために、彼らのメンバーは、構造化された組織の指示に従う一部隊になってしまう。構造化しないことを心に決めたグループは、運動の日宇藩なリソースを、自分たち自身の優先順位を支持するために活用することができない。自分たちが何者であるかを決定する方法すら持っていない。
運動が構造化されていなければいないほど、それがどのように発展していくのか、そして、どの政治的行動にかかわるかの方向性についてコントロールが効かない。これはそのアイデアが広がらないということを意味しない。メディアからの一定の注目を集め、社会的条件が適切であれば、理念は広く広がるだろう。しかし、理念が広がることと、それらが実践されることとは違う。その理念が語られるようになるだけである。個人的に適用されるものなら、理念は行動化される。しかし、コーディネートされた政治的力が実践される必要のあるものは、動かない。
女性解放運動が小さい、非活動的な、友人間の議論だけのグループに留まるのであれば、構造のなさの最悪の問題は、感じられないだろう。しかし、組織のこのようなスタイルは、限界がある。政治的な無力さ、排他性、友情ネットワークに入ることのできない女性に対する差別である。階級、人種、職業、教育、両親の、そして結婚の状況、性格などなどのせいで、すでに存在するものにうまくはまることのできない人びとは、参加しようという努力から排除される。はまることができる人はそれを維持することに力をそそぐ。
非形式的グループの最優先関心事は、すでにある非形式的構造によって継続される。そして、運動は、その中で誰が力を持つべきかを決めることができない。もしも、運動が意図的に力を行使するかを決めないことを続けるなら、力は排除できない。組織がすることは、力を持っている人にその責任を持つように要求する権利があることを言うだけである。運動が、力をもっている人に責任を要求することができないと知っているために、力をできるかぎり分散したままにしようとするならば、確かにあるグループや個人が独占することを防ぐことはできる。しかし、同時に、運動ができるかぎり非効率的になることも確かなことだ。独占と非効率の中間のどこかが、見つけ出されなければならない。
これらの問題は、認識されつつある。運動の本質は必然的に変化するからである。意識向上を女性解放運動の主要な機能としてとらえることはもう古い。過去2年間における集中したメディア報道によって、また膨大な数の本や記事によって、女性解放は、よく知られたことばになっている。その課題は議論され、非形式的なrapグループが、運動となんの関係もない人びとによって作られてきている。運動は次の課題に向かわなければならないのだ。いま必要なのは、優先順位を明らかにし、しっかりとコーディネートされた努力によって目的を達成しなければならない時にきている。これを成し遂げるためには、地域で、地方で、国で、組織化しなければならない。

民主的構造の原則
運動が「構造のなさ」のイデオロギーにしがみつくことをやめたなら、健康な機能を果たすことができる組織のあり方を探ることができる。これはよたしたちが逆の極端に走って、従来の組織のあり方を踏襲するということではない。しかし、頭から否定してもいけない。伝統的な技法で、完璧ではないにせよ、有用なものもあるだろうし、中にはわたしたちがなすべきことについての洞察を与えてくれるものもあるだろう。運動がかけられるコストと個人の最小限の努力で目的を達成するために、やってはならないことも見えるだろう。ほとんどの場合、わたしたちは異なる構造化の方法で実験し、異なる助教で活用することができる多様なテクニックを開発しなけはればならないのだ。Lotシステムは、運動から生まれたそのようなアイデアの一つである。すべての状況に当てはまるわけではないが、役立つ場合もある。構造のための他のアイデアが必要だ。しかし、知的実験に進む前に、わたしたちは構造そのものに悪が非吃がけて居るのではないことを受入れよう。その過剰な利用が悪なのだ。
この試行錯誤に関わりながら、民主的な構造化のためのいくつかの原則を心に止めておこう。

1)代表性 特定の権威を特定の人が特定のタスクに、民主的な手続きによって、与えること。人びとが仕事やタスクを、デフォルトとして想定できることは、それらが依存的になされるのではないということになる。もし、人びとがタスクをするために選ばれたとすれば、それをしたいと表明した後に、人は、虫できないコミットメントを果たすことになる。
2)責任 権威が与えられた人が選んだ人びとに対する責任を果たすこと。これはグループが権威ある立場にある人びとをコントロールすることを意味する。個人は力を発揮するが、どのような力を発揮するかは、グループが決める。
3)分配 権威を、合理的な範囲でできる限り多くの人に配分する。これは力の独占を防ぐし、権威ある立場にある人びとが、それを執行する時に多くの人と相談する必要を生む。また、多くのひど人が特定のタスクに責任を持つことを学び、そのために、違ったスキルを身につけることができる。
4)ローテーション タスクを個人の間でローテーションする。一人の人間によってあまりにも長く持たれた力は、形式的であれ、非形式的であれ、その人の「資質」と見なされるようになり、ぬきさったり、グループがコントロールしたりすることが難しいと見なされるようになる。逆に、タスクの交代が頻繁すぎると、個人はその仕事をうまくやることを学び、遂行の満足感を感じることができなくなる。
5)手配 タスクを国家水準にしたがってアロケイトする。ある地位に人を選ぶ時、グループの人からすかれているからとか、すかれていないから難しい仕事をわりあてるとかは、グループのためにも、その人のためにも、ならない。能力、関心、性人が、そのような選択にあたっては重要でなければならない。人びとは、持っていないスキルを学ぶ機会を与えられるべきだが、これは、なんらかの「見習い」プログラムによってなされるべきで、「泳ぐか、さもなくば溺れろ」方式であってはならない。責任を持つということは、モラルを逸脱することが難しくなるということだ。逆に、うまくやれることから排除されることは、スキルを延ばす気持ちを殺いでしまう。女性は、人類史を通じてほとんどの場合、有能さ故に罰されて来た。運動はこの同じプロセスを繰り返す必要はない。
6)情報の拡散 すべての人にできる限り頻繁に情報を共有すること。情報は力である。情報へのアクセスは人の力を伸ばす。非形式的にネットワークが、グループの外で、新しいアイデアを自分たちの間で広げるとすれば、彼らはすでに世論を形成するプロセスを始めて閉まっている。そのグループが参加していないところで。人は、ものごとがどのように動いて行くのか、何が起こっているのかを知ればしるほど、政治的に効果的になりえる。
7)リソースへの平等なアクセス グループの中に、資源へのアクセスの平等さがあること。これは、常に完全に可能なわけではない。しかし、努力すべきである。必要な資源(例えば、夫がメディアに関わっているとか、暗室があるとか)を独占するメンバーは、その資源の利用について、必要以上の影響を持ってしまう。技能と情報もまた資源である。メンバーのスキルはメンバーが他の人にそのスキルを喜んで教える時、平等に入手できるものとなる。

これらの原則が実践されれば、異なる運動グループがどのような構造を創り出そうとも、グループは、グループによってコントロールされ、グループに対して責任を持つものとなる。権威のある人びとのグループは分散され、柔軟になり、一時的な存在になるだろう。彼らは簡単に、その力が制度化されるようなポジションにおかれることはなく、究極の意思決定はグループ全体によってなされるだろう。グループは、グループ内で、誰が権威を行使するかを決定する力を保つだろう。
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by eric-blog | 2012-08-11 05:40 | ■週5プロジェクト12 | Comments(0)

4つの事故調を比較する

こちらも、課題のままですが、とりあえず。ソースのみ、並べます。

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by eric-blog | 2012-08-09 16:06 | ●3.11地震・津波・原発 | Comments(0)

緑のダム 「なぜ住民は緑のダムに共感するのか」姫野雅義

緑のダム 所収
蔵知光一郎、保屋野初子、築地書館、2004
1851冊目

この夏、徳島、海部川、那賀川を巡った。こんなに豊かな、山・川・海をつなぐ水環境に、子どもの頃、毎夏触れていたのかと知って、改めて、ありがたく、自分自身の身体感覚にしみ込んでいるものを思った。

そこで知った姫野雅義さんのこと。吉野川、第十堰。2010年に、海部川で事故死した姫野さん。

『第十堰日誌』(七つもり書館、2012)は1994年から2008年にかけての、ニュースレターに連載していた記事をまとめたもの。

『<政治参加>する7つの方法』(筑紫哲也、講談社現代新書、2001)第二章「住民投票が市民を鍛える」

吉野川可動堰問題に、1993年から取り組んだ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E9%87%8E%E5%B7%9D%E7%AC%AC%E5%8D%81%E5%A0%B0

1982年「吉野川水系工事実施基本計画」
1997年(平成9年)、当時の圓藤寿穂徳島県知事が可動堰化がベストであると発言
1998年(平成10年)には第十堰審議委員会が可動堰化が妥当という答申を発表した。
1999年(平成11年)12月、第十堰の可動堰化を巡る住民投票条例が徳島市で可決
2000年(平成12年)1月23日、住民投票実施

という経緯から考えると、『緑のダム』への原稿が、運動についてのまとまった概観をしめしていることになる。



わたし自身は、山仕事の中の「経路整備」で雁行型、イ組にこだわっている。雁行型は相模湖嵐山の比較的緩やかな、どちらかというと谷筋経路で、横木を斜めにかけて行くのだが、その斜めを右下がり、左下がりを交互に行う形のこと。道に流れ込んでくる水を左右にふりわけて、いなして流す方式だ。経路に対して直角にかけるよりも、水との戦いが少ないのが良い。

イ組というのは最近行っている斜度の厳しい尾根筋型経路での曲がり角での処理の方法だ。曲がり角は階段を組むことが多いのだが、イ組というのは、上の方から見て、下段のレールとなっている丸太を突き出し、そこに上段の経路のレールをぶつける方式だ。するとイの接点右側に水の流れが運んでくる土砂は溜まりつつ、水は脇に逃げて行くという形になる。これは始めたばかりなので、ただいま経過観察中。

そして、第十堰。みごとに、川のながれに対して、斜めにかけられている。湾曲斜め堰。川の蛇行そのものを活かした形だ。250年の治水実績。

そこに「可動堰」の話しが持ち上がる。近代治水の工法だ。

再生エネルギー推進協議会の事務局長をしている豊岡さんは、「姫野さんに鍛えられた」という。市民が育つ運動をしなければだめなのだ、と。

そのために姫野さんが大切にしたのは「住民投票」に至るプロセスと、投票だけでなく、自分たちで試してみよう、川に行こう、考えようということを大切にしていたことだと言う。そして、また、「川ガキ」もたくさん育てたのだ。

2000年、住民投票でNoが出たにもかかわらず、国は新たな方針を出そうとしない。そこで住民たちが取り組んだのが、第十堰の保全と、洪水流量を下げる「緑のダム」の研究である。ふーー、つながった。

250年という時間尺度で川に関わる技術が必要だという。中国、長江にかかる都江堰。2250年前にかけられたものだ。そのような「千年技術」を探る必要があると、姫野さんの見つめる先は長い。158

報告書「吉野川流域ビジョン21委員会」2004年が指摘したこと。
1.自然林は放置人工林にくらべ、2.5倍の浸透力がある。
2.自然林の皆伐で森の治水能力は1970年代に急激に低下した。
3.ピーク流量は森の状態で変化する。
4.1961年の状態に森林をもどせば、新たなダム建設は必要ない。

2004年平成16年の記録的大雨で、那賀川流域も大打撃を受けた。
今回訪れた轟の滝、坂州木頭川でも、そのときの大水の状況を聞かされた。
その時、長安口ダムの湖面がスギ流木で覆われて湖面が見えなかったという。そんなとき、ダムは、自身を守るために放水するのだ。

わけいっても、わけいっても、砂防ダム。

治水の姿は治山とつながっている。治水治山の姿はエネルギーの地産とつながっている。

「緑のダム」のさらにその次の姿が、見えるのではないだろうか? 日本の山が手入れされていたのは、エネルギー問題とは無縁ではなかったと思うのだが。
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by eric-blog | 2012-08-09 14:35 | ■週5プロジェクト12 | Comments(0)

北九州市教育委員会{がれき受け入れ」についての学校配布資料について

北九州市教育委員会総務部総務課
御中

〒803-8510 
北九州市小倉北区大手町1番1号

電話:093-582-2352 FAX:093-581-5871

2012年8月9日

角田尚子
特定非営利活動法人 国際理解教育センター
リスク・コミュニケーション研究会

北九州市の「瓦礫受入れの決定」について、教育委員会が配布した小中高、児童生徒に対する資料について、市民団体から申し入れがあった様子を録画で見ました。
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/25880

まだ、配布資料そのものは入手していないのですが、申し入れの内容から、そして答弁の内容から、行政の決定を解説・支持するような内容なのであろうと推察し、その限りにおいての意見をまず述べたいと思います。

ネットでの意見を出すことも可能でしたが、1000文字という制限がございましたので、お手紙といたしました。ご了承ください。

気になった発言や視点が三点ございます。

一つは「同じ行政として」というご発言です。
教育委員会と行政は独立しております。なぜ、独立していなければならないのか。行政は政治的決着に従ってことを行い、教育は政治的決着に参加する市民を育てるからです。市民においては、いずれの意見も存在するが故に、教育が政治的決着のその結果を伝達する機関になってしまってはならないのです。

『犠牲のシステム 福島・沖縄』(高橋哲哉、集英社新書、2011)において、高橋氏は、「国の決定に従うことを言明した専門家は科学者ではない。」と述べておられます。
http://ericweblog.exblog.jp/15707377/

北九州市教育委員会は、この視点について、どのようにお考えになるのでしょうか?  行政の決定を後押しすることを決めた科学は「科学ではない」とはお考えになりませんか?

二つ目は、正しく「科学」そのものについて考え方・教え方の問題です。
会見の中で、何度か、「科学的に証明されている」「合理性がある」という発言がありました。それに対して、市民団体の側がECRRや内部被ばくについての詳細な科学的知見をあげて、それらの知見を踏まえてのことなのかと問いただしておられました。また、「科学者の間でも論争のあることなのだ」との指摘もありました。

わたしたちの団体、特定非営利活動法人 国際理解教育センターでは、昨年、日立環境財団の助成金を得て、「リスク・コミュニケーション研究会」を行いました。その中で10人の専門家の方々にお話をきき、いまの教育の課題は何かを問いました。結果、リスク・コミュニケーション教材のガイドラインとして、以下の4点が重要であることが共通していると、思われました。
http://focusrisk.exblog.jp/14128591/

1)科学観を教えるものであること。
これは、東京大学の藤垣氏がイギリスの教材を事例に引きながら、「科学とは疑う心であること」「いまの既成の科学を疑うこと」だと述べられています。科学の歴史をひもとけば、これがより望ましい科学に対する、そして、福島原発事故を民族的共有体験としてしまったわたしたちとしては、科学技術に対しても、育てるべき態度だと思います。そして、そのような態度は、大阪大学の小林氏も指摘されるように、育っていなかったのだと。安全神話に踊らされ、科学に対する無批判な信頼、思考停止状態を創り出してしまったことを反省しなければならないのだと。事故から一年半。論争のある問題について、いずれか一方の科学の結論を擁護する形で情報を、子どもたちに伝えるのでよいのでしょうか?
2)シチズンシップを育てるものであること。
科学は、中立ではありません。原子力行政のこれまでが示しているように、原子力という科学は、政治的選択の結果として巨大な投資と利潤を生み出す打出の小槌として育ってきたのです。ニュートラルな科学が存在しにくくなったということは、科学と社会のあり方について問う社会科学の知見も取り入れられていくべきでしょう。宮代慎司氏は、日本という社会に原発を持つ資格がなかったのだと、原発行政のあり方、規制のあり方、管理のあり方を問うています。いまや科学は、市民社会による不断のモニタリングの元で、運用を決定されなければならない時代なのです。
そのもっとも有名な事例がデンマーク科学局による市民参加による科学技術についての意思決定の方法論についての試行実験でしょう。シナリオ・ワークシッヨプやコンセンサス会議など、これまでにはない合意形成の方法論をていねいに展開しています。これからの科学は市民参加によって試される。そのような市民性を育てることが、リスク・コミュニケーション教材には必須なのです。
わたしたちがインタビューしたJAEAの高下氏は、事故前の「リスク・コミュニケーション」ワークシッョプの難しさについて、「関心の低さ」を上げておられました。わたしたちはの社会が、もし、原子力に対する関心の低さを育ててきていたのだとしたら、そしてそれを今後も続けるとすれば、それは福島原発事故被災者20万人に対して、非誠実だと言わざるを得ないでしょう。いまなすべき教育は、子どもたちが、わたしたちの社会の共通の課題に関心を持ち、もうちょっと考え続ける姿勢を育てるこではないでしょうか。
シチズンシップ教育の三原則を引いておきます。「コミュニティ意識・社会的課題への関心・ポリティカル・リテラシー」
『市民性教育 Education for Citizenship』Holden and Clough, 2002
3) 思考スキルを育てるものであること。
  では、科学教育とは、何を教えるべきなのでしょうか? 科学教育とは、結果を教えるものではなく、「考え方」を教えるものです。「行政が判断したことだから、すでに、科学性・合理性は担保されているんだよ」という教えかたが、この考え方にのっとったものと言えるかどうか、疑問です。重要な思考スキルの中に、「反証する」「反対意見を認める」というのも入るのではないでしょうか。
4) 社会とリスクの関係について学ぶこと。
リスクは科学的・政治的・社会的判断です。市民運動団体の存在そのものが、「議論可能性」のある課題であることを示しています。配布資料に、そのような市民団体が存在すること、彼らの主張が紹介されていたかどうかわかりませんが、もしそうでないとしたら、教育委員会は、この反対運動に関わっている方々の子どもさんたちが、学校でどのような存在となるか、どのように扱われるかを考えられたでしょうか? 「行政の訣丁したことを伝える」という立場では、議論の余地のない伝え方となる恐れが十分にあり、そうでない意見の人々が排除される場を作り出すのではないでしょうか? それは、いまのいじめの構造を強化するだけなのではないでしょうか? 教育委員会自体が、「排他的な行動」につながる考え方を強化したというのであれば、それは、自らの独立性の放棄ととられても仕方のないことだと思います。

三点目はすでにガイドラインの市民性の視点でも触れたことですが、子どもを社会の参加者として育てるという視点です。教育委員会の方々も市民団体の方々も、異口同音に「子どもを守る立場」とおっしゃっておられました。確かに、子どもの権利「生存・保護・発達・参加」から考えれば、大人の責任として「保護」することは必要でしょう。しかし、「保護」は主体性の発揮のために行なうのです。子どもたちがいま発揮すべき主体性とは、「参加」の権利なのではないでしょうか? 配布資料において、子どもたちの「参加」の権利に対する配慮がどのようになされていたか、ぜひとも知りたいところです。

順番が、前後してしまいますが、返信用封筒を同封いたします。小中高に対して配布されました資料をお送りください。よろしくお願いいたします。

わたくしの上記のような指摘が、的外れであることを願っています。

敬具

住所・返信用切手 その他
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by eric-blog | 2012-08-09 12:53 | Comments(0)