<   2009年 02月 ( 32 )   > この月の画像一覧

リキッド・ライフ 現代における生の諸相

283-3(1271)リキッド・ライフ 現代における生の諸相
ジグムント・バウマン、大月書店、2008

差し出されるものと軽くかかわり、そしてそれを上品に手放す
所有物、状況、人びとは滑るようにどんどん通り過ぎていく

「私には浅田先生がいた」を対比させて読むと、このリキッド・ライフが描き出す「軽さ」は特権だと思える。

では、その変化と軽さが、生命にとって「異常なのか」と言うと、わたしたちの身体自体は「リキッド」な存在であることに思いいたる。

120日で入れ替わる細胞。体重60キロであれば、毎日500グラムが入れ替わる。
毎日2000-3000カロリー、炭水化物500-600グラム、油脂10グラムその他を摂取し、プロセスし、からだを維持している。

その芸当から比べれば、現代の社会が飲み込み、処理し、捨てている「流れ」など、取るに足りない。

わたしたちが、身体を「固体として捉えていたのと同じように、わたしたちの社会を「固体」と捉えていたのだ。

生命を「流れ」として捉える視点が得られた時、社会も「流れ」として捉えられ始めたということか。ただ、それに慣れていないために、「めまい」がするだけだ。

「流れ」でありながらも、「生物」という「物」であるためには、「大きさ」が必要だった。それと同様に、社会が「流れ」でありながら、「固体」であるためには、規模が必要だっただろう。リキッド・モダン、リキッド地域研究、リキッド・ライフの認識は、地球規模という規模を認識論的に獲得できて初めて、課題とされるようになった。

そんな感想を持った。

個人、個性、自由と選択などの諸概念がどのように、いつ生まれたか。

「個性というものが、自己を解放し自己を主張しようとすることであるなら、それははじめからアポリア、つまり解決不能の矛盾を背負わされてしまっている。個性的であるには社会が必要である。個性は社会の中で育まれ、社会に向けて示さなければならない。・・・個性的であることは、個人志向社会が、そのメンバーである個人に課した課題である。」37

「グローバルな貧困層は敗走している。ただし、金の力で追い立てられたからではない。それまでいた僻地が病弊し変貌してしまったために、そこにいられなくなったからである。」ジェレミー・シーブルック、43

「アイデンティティが、何かに対する一度きりのコミットメントで、いったんなされたら永遠に続くはずのものだったこともある。しかし、いったん、そうだなくなってしまえば、そして、取り除けないはずの過去の遺産が失われ、信頼しきることができた安息の地と死に別れて、孤児になってしまったら、「アイデンティティ」はむしろ個人の一生涯の課題となってしまう。」62

「生産主義症候群が支配した「生産社会」の二つの価値「じっくり取り組む」と「楽しみは後回しにする」ことを、消費主義症候群ははっきりと否定する。」144
「消費主義症候群のポイントはスピード、過剰、浪費にある」145
「消費社会は過剰と放蕩の社会である」146
「消費主義とは、欲望を充たすことではなく、さらなる欲望を引き出そうと、欲望を駆り立てることである」159

子どもこそが、ターゲットにされている。
[PR]
by eric-blog | 2009-02-26 10:43 | ■週5プロジェクト08 | Comments(0)

私には浅田先生がいた

283-2(1270)私には浅田先生がいた
康玲子、三一書房、2008

在日の歴史を知っているかいないか、学ぼうとするのか否か
指紋押捺の屈辱、外国人登録の常時携帯
本名、通名 本名を漢字で書くのか、ハングル表記を求めるのか
クリスチャンなのか、チェサ祭祀なのか
韓国料理中心なのか、否か
ハングルを学ぶか学ばないか
日本に帰化するのか、しないのか
日本文化を喜ぶのか、否か
チマチョゴリを着るのか、着ないのか
背の高いオンナの子はかわいくない
外国人の選挙権についてどう考えるのか、どう行動するのか
在日とその他の外国人は違うべきなのか
君が代を歌うのか歌わないのか、起立するのかしないのか
就学案内がくるのか、来ないのか
文学を志す母の味方をするのか、家庭を大切にしてほしいのか
・ ・・・・
「差別される側」に立つのか、「差別する側」に立つのか。
受験するのか、しないのか。それは「差別する側」のエリートになることなのではないか。

高校生という時代に、これだけの選択と価値観の葛藤にむきあい、何に向きあっているのかもわからないまま、強い感情に翻弄され、どこにもアイデンティティや共感を認めることも、一致させることもできず、孤独で、友達もいなくて・・・

そんな著者の高校時代を、日記からの記述も交えながら、ふりかえったもの。

そして、それらの「問い」に導いてくれた、見つめることを見守ってくれた、浅田先生。

いまも、自分自身と日本社会を見つめ続けている著者が、その前向きな力の根源をもらえたと感謝している浅田先生。

わたしも、友達のいないことでは人後に落ちない。「冷たい」のだ。
女であることがいやだ。だから、「女」を引き受けているオンナも嫌いだ。
「女」を押し付けて来る社会も嫌いだ。だから、全部嫌いだ。

友達なんか、できる訳ない。差別は人を分断する。分断を正当化するための言論が差別なのだ。

言葉は、人を分つ。分たれなければ、人ではいられない。
認識が、人を分つ。分たれなければ、私ではいられない。

そんなややこしい存在が、人間なのだけれど、よりややこしいのが、被差別という状況なのだよね。

著者は1956年生まれ。大学に入学したのは、わたしも同じ1975年。同時代を生きた人の、中身の濃い高校時代。

浅田修一『街と映画と松葉杖』『ことばだけではさびしすぎる』
リチャード・キム『名前を奪われて』
高史明『生きることの意味』
金鎮洪『暁を呼びさます鐘』
[PR]
by eric-blog | 2009-02-26 09:45 | ■週5プロジェクト08 | Comments(0)

日本政府の森林偽装

283-1(1269) 日本政府の森林偽装
平野虎丸、中央公論事業出版、2008

ブログの記事をまとめたものなので、読みづらい。

地球温暖化対策として、植林、間伐にお墨付きを得られるようにした林野庁が、日本の森林を悪くする。
植林間伐出荷という林業サイクルは明治以降のもの。自然更新の林業が基本であった形に戻ろうという呼びかけ。

『森林からのニッポン再生』田中淳夫
[PR]
by eric-blog | 2009-02-25 11:58 | ■週5プロジェクト08 | Comments(0)

集約化提案型施業事例発表会

a0036168_11335733.jpg

全国でこれまで400組合ほどが「森林プランナー」研修に参加したと言う。日本の山が小さな所有者に分割され、現在の遺産相続制度もあり、細分化傾向は止まらない。施業には集約化は必須。

全国1000万ヘクタールの人工林。
報告は森林組合単体、町との連携、山持ちさんの林業研究グループからだ。山持ちさんとの話し合いに行政や現場で信用を得ている人が必要。
森林組合と山主さんとの距離は意外にあるんだね~。

司会者は三菱UFJリサーチ&コンサルティング研究員。あいさつに立った林野庁長官は「集約化提案型施業はもうかる林業のこと。」
しかし、参加者は若い!女性も多い!

未来は明るい、が「林野庁が林業をだめにする」ことは実感する。『森林からのニッポン再生』が言うのは柱材偏重の林業の体質改善だ。

○作業道の状況
○「緑の雇用事業」後の採算

富士通総研といい、なぜ、大手コンサルがこんなにも関われる余地がある?
[PR]
by eric-blog | 2009-02-25 11:33 | ◇ブログ&プロフィール | Comments(0)

共に生きる地球

高校2年生360名
1 もしも世界が・・・「大学に進学した人は?」
2 参加の3つの要素「わたし」「あなた」「みんな」
3 「なぜ、国際理解を学ぶのか?」[連想図]
4 傾聴
5 地球のいのち
6 人間の測り間違い「生まれつきの知能」?[知能テストワークシート]
7 あなたは賛成?反対?[ペアで決める]
8 声の文化に触れる「サバンナの音」
9 「白いバッファローの」[ペアでセクション読み]
10 声の文化の学び方 特徴
11 写真で見る「声の文化」の人々
12、暴力のない未来
[PR]
by eric-blog | 2009-02-24 09:01 | □研修プログラム | Comments(0)

ク スクップ オルシペ

282-7(1268)ク スクップ オルシペ 私の一代の話
砂沢クラ、福武文庫、1990


142-1(679) 蝦夷地別件
船戸与一、新潮文庫、1998

-------15-1-------------
恨(ハン)の法廷
井沢元彦
徳間文庫、1995

231-2(1124) 証言・戦後史の現場から
米田綱路編、講談社、2004

54-1(221) アイヌ神謡集
知里幸恵編訳
岩波文庫、1978年、2004年35刷り
元本大正12年刊

など、これまでにも紹介してきたアイヌの物語。1983年に北海道新聞社から出版。クラさんは86歳。

女学校に進みたいと願いながらも、ハカマを購うお金がないまま、結婚。
和人にだまされて、水害の多い土地に逃げ住み、苦労する。すでに、「和人」的な生活になじんでいる川村/旭川アイヌのところに身を寄せると、「川下のものが」と夫の砂沢友太郎がのけ者にされると面白く思わない。

夫は猟の腕がいいので、大金をかせぐことはできるが、なかなか定住の地がえられない。四人の子どものうち、三人までが死んでしまう。

苦労の多い人生なのだが、結局、猟のために山に入り続けた経験が、「クマ送り」等アイヌの習俗の経験値の豊かな彼女の人生につながっている。それが彼女の「アイヌ」性による後年の安定した生活につながる。特に、戦後、「正統なもともとの日本人」として認知されていった昭和30年代以降は、「観光」としてのアイヌがすごく大流行りだったことも伺える。わたしの子どものころは、どこの家にも「アイヌ彫りのクマ」がいたんじゃないかと思うほどだ。

和人の世界でやり抜くためには、女学校、職業、定住などの条件が必要で、それはそれでハードルなんだけれど、アイヌ性は減じるよね。結果としての選択だったのだが、わかって選ぶとしても、難しい選択だ。

なんとも驚いたのは、クラさんの顔が、わたしの母方のおばあちゃんにそっくりなことだ。おばあちゃんの顔はどれも似る?
[PR]
by eric-blog | 2009-02-21 12:05 | ■週5プロジェクト08 | Comments(0)

TEST09  プログラム

制度によって、わたしたちは学びます。ESD的学びのための、制度設計を
いっしょにしてみませんか?
実は、どこかに出掛けてみたいのですが。二日目次第では、東京以外でもいいか
もしれませんね。
ご提案、ください。

TEST 09 
2009年3月20-21-22日

制度を使った学び Institutional Learning
教育の制度分析と制度改革のてこを求めて

セッション1 声の文化をデザインする
セッション2 声の文化と文字の文化を比較する
セッション3 正しい問いをたてる

セッション4 インタビューを計画する
セッション5 インタビュー実践
セッション6 インタビューのまとめ

セッション7 学びの共有
セッション8 Lived & Shared Experiencesの比較分析
セッション9 制度分析のツールと制度分析実践のてこ

卵と壁
わたしたちとシステム
[PR]
by eric-blog | 2009-02-20 11:24 | □研修プログラム | Comments(0)

村上春樹さんのスピーチ

eric の皆様

 村上春樹さんのスピーチが、早速報道されていました。
http://www.47news.jp/47topics/e/93925.php

 「受賞を断るべき」という批判(たとえば
http://palestine-forum.org/doc/2009/0129.html
を受け、「何度も自問自答」した結果の受賞とスピーチだそうです。

 オバマに負けてないと思います。


dai

参照
91-4(424) 贅沢な戦争  イスラエルのレバノン侵攻
アモス・オズ、晶文社、1993
[PR]
by eric-blog | 2009-02-20 11:18 | 〠リンク | Comments(0)

人間機械論

282-6(1267)人間機械論
ノーバート・ウィナー、みすず書房、1979初版、2007新装版
The Human Use Of Human Beings 1950年
1954年改訂

人間も機械の制御と同じで「行動したこと」に対するフィードバックによって制御される。

情報の「開回路」理論、サイバネティックスの提唱者。タイトルの翻訳が本当にひどい。「人間の人間的利用」、人間が人間的に生きるには、どのような条件が必要か、そして近代の人間化、近代化の条件を明らかにしている本なのに、これではタイトルで損をしているとしか思えない。初版では、第二次世界大戦後のマッカーシー旋風にもするどい批判を投げかけていたと言う、戦争や「赤化」排除などの非論理的非合理的な抑圧に対して、それらの非人間性を根拠として反対した人なのである。

では、人間的であるとはどのようなことか。環境との相互作用から「学ぶ」、行動を「修整」する存在だということ。だから、機械もそのように設計すれば、制御可能な機械を作ることができる。1950年代に、すでに、IC制御の時代を描いている。

◯人間や動物は自己運動感受的な感覚をもっている。変化する外部環境に従って行動する機械はすべて、・・・行動のもたらした結果についての情報を得なければならない。19
◯情報処理行動の仕方を指定するデータはテーピングと呼ばれる。19

初版からはけずられたが、訳者によって再録されている23-24には、感謝である。「私は本書を、人間のこのような非人間的な利用(inhuman use of human beings)に対する講義に捧げたいのである。なぜなら私は、人間に対しその前資質より少ないものを需め、実際の資質より少ないものしかもっていないものとして人間を扱うような人間の利用は、いかなるものでも、一つの冒涜であり一つの浪費であると信ずるからである。・・・権力欲にとりつかれたやからにとっては、人間の機械化は彼らの野望を実現する一つのかんたんな道である。」

32
科学者というものは、宇宙の秩序と組織性を発見する仕事に取り組んでいるのであり、したがって無秩序化という敵を相手にゲームをしている。この敵はマニ教の意味での悪魔なのか、それともアウグスティヌス進学の意味での悪魔なのか。秩序に対して対抗する悪魔なのか、それとも秩序そのものの欠如なのか。
33
アインシュタインが言った比喩がある。「神は企み深いが悪意はもたない」。
・・・
物理学の研究者はこの世界でたえず実験をしてゆかねばならないが、自然がやがて研究者の策略や方法を見破って戦法を変えてくることを恐れる必要はない。
39
確かにわれわれは死を宣告さりた一惑星上の難破船の乗客である。にもかかわらず、難破に臨んでも人間の体面と人間の価値とは必ずしも全く消滅しはしない。・・・わけれわれのゾン減にふさわしいと思える仕方で迎えようではないか。
46
結局は死ぬということは、けっして、生命は完全な挫折に終わるということではなく、このことは文明に対しても、人類に対しても、人類を構成するどの一人の個人に対すると同様にあてはまる。

通信行動のパターンについて、人間とその他の生物、そして機械などを比較しておもしろい提案を第三章では行っている。局所的な通路を通る通報と、「方向を決めて発されるのでない通報が広がって結局受信者に届き、そこで受信者を刺激する」「該当者宛To-whom-it-may-concern」型。動物について、これがそうだという事例は知らないが、と著者はいいつつ、「主観的には感情として記録されるような種類の現象が、神経活動の無用な随伴現象にすぎないものではなく、学習および他の類似の過程の或る本質的な段階を制御するものであるかもしれないことを認識することは重要である」とし、人間と他の生物を区画する線を引く心理学者らがその節を否定するのであれば、慎重にせよ、と警告する。

130
科学的発見の本質は、われわれの便宜を何ら考慮せずに作られた一個の存在体系をわれわれ自身の便宜のために解釈することにある。

180
聴覚は単に外界との通信のための感覚の一つにすぎないものではなく、その主な用途が他の個人との関係rapportを確立することにある感覚だということである。それはまた自分のほうからの通信行動である話す活動と対応している感覚である。
181
良質の話し方は、連続的な自己聴取と自己批判を経てはじめて習得されるものである。
198
われわれが正しい問いを発さずには正しい答えは決して得られない。

202
科学者の戦いの相手である悪魔は、かく乱を加えて来る悪魔であり、意図的な敵意をもった悪魔ではない。自然はエントロピー的な傾向をもつという見解はアウグスティヌス的なものであり、マニ教的なものではない。
203
あらゆる戦いのなかには、微妙な感情的マニ教主義が暗に含まれている。
204
軍事的なモデルに基づいた教団はすべて、このようにマニ教的異端におちいる傾向を免れない。
205
科学は信仰なしには不可能だ。・・・自然は法則に従うという信仰なしには、いかなる科学もありえない。どんな大量の実例も、自然は法則に従うということをけっして証明することはできない。
206
帰納的論理、すなわちベーコンの論理は、われわれが証明しうる種類のものではなく、われわれが行動の土台にいうる種類のものであり、それに基づいて行動するということは、信仰の最高の表明である。
[PR]
by eric-blog | 2009-02-19 09:43 | ■週5プロジェクト08 | Comments(0)

入会林野とコモンズ 持続可能な共有の森

282-5(1266)入会林野とコモンズ 持続可能な共有の森
室田武・三俣学、日本評論社、2004

入会と財産区
事務組合有林
記名共有林
滋賀県甲賀町大原財産区有林、山東町川戸山財産区有林、大滝山林組合有林
静岡県富士宮市白糸財産区有林 vs 岩手県葛巻町葛巻財産区有林
イングランド、ウェールズのコモンズ
米国、日本、世界のコモンズ論、コモンズ定義集
入会林野に根づく学校林

など。非常な労作だ。補論「なぜ今「コモンズ」なのか」多辺田政弘もgood.
いま、山と言えば、元気な現場が多数カバーされていることからも、「共」有の協働活動のコモンズ維持にとっての意味が見える。
明治時代に、近代法の中で、「私有」か「公有」かの色分けが進んだ時、入会、水利、漁業の権利がコミュニティの権利として慣習的に残った。その「共」の形も、財産区、組合有、共有山など多様だ。

特に、「共」的な諸活動、諸主体が関わる白糸財産区と、「共」的な活動がない葛巻財産区の比較はおもしろい。(第三章) いま、葛巻はペレット生産などで、活況著しい。しかし、日常的なエネルギー源という意味合いが欠如している現在、山に人が日常的に入る根拠は「共」的協働作業の方が、商行為より勝るのではないかとも言える。山と人のつき合い方に、目と手、監視と管理の両方が必要だ。

第6章 入会林野に根づく学校林
学校林は戦後、毎年1万ヘクタール、5年間で5万ヘクタールという大推進時代があり、それはもっぱら経済的な理由からであった。
経済的な理由だけでは学校林は維持できない。環境教育、林業教育などの公益的な理由によるものが生き延びていると。

補論より
219
振り返ってみれば、「共同体解体論」というイデオロギーは、そこに生き、支えつづけなければならない<地域>から「人びとの目を背けさせる」という働きをしたのである。確かに戦後の社会科学が「望み」とした「共同体(封建遺制)解体」は現実に進行した。しかし、農山漁村が「地域社会」として崩壊の危機に瀕して、地域資源と環境をその「守り手」とともに失おうとしている今、一体そこに「何が残った」というのだろうか。しかも、崩壊の危機に瀕しているのは、むしろ都市のほうではないだろうか。今、その深刻な「不安」の前に日本の社会は立たされている。しかし、その不安の前に、<「共」的領域>を黙殺しつづけてきた日本の社会科学(とりわけ経済学)は無力である。

中田実は、地域共同体の協働作業による再生を指摘し、介護においても「共」セクターの参入があり、山についても「共」が求められる。

果たして、教育は、「公」「共」「民」「私」それぞれを豊かにするものとして機能しているのだろうか? どうして、教育についての議論が並行しないのか。

現実の高校を訪れれば、20人学級への要請は、明らかなのに。
[PR]
by eric-blog | 2009-02-19 09:32 | ■週5プロジェクト08 | Comments(0)