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屠場 みる、きく、たべる、かく –食肉センターで働く人々-

262-5(1190)屠場 みる、きく、たべる、かく –食肉センターで働く人々-
三浦耕吉郎編著、晃洋書房、2008

米国に交換留学していたときのホストファミリーのお父さんの仕事がbutcherだった。ブッチャーというのが個人名ではなく、職業名だというのを初めて知ったわけだが、ホストマザーが、「職人として腕があるから、給料がいいのよ」と説明してくれた。職能組合や職能労働者の日本との違いを感じた瞬間でもありました。
一年間、Tボーンステーキとか、部位は異なるが、基本的には牛のステーキばかりを食べていた。なんてゼイタクな。

で、この本も第四章「これぞ、プロの味」から読みました。うーーーん、おいしそうだ。『いのちの食べ方』など、大量生産、工場生産化していく食糧には警鐘がならされてしかるべきだと思う。しかし、挫折したvegetarianであるわたしは、丸元淑生さんの「ステーキの焼き方」に出会わなければ、もう少し、vegetarianできてたかも、と言い訳する。肉をうまいと感じたのですね。あの焼き方は。
いまは、巣鴨の大成食堂というホルモン屋さんが、お勧めだ。当分、ベジタリアンにはなれそうにない。

基本的に三浦さんたちのグループの語り口は好きです。第四章を担当された山北さんは、野宿者支援の距離感について、構造的差別とソシオグラフィにも書いていた方です。料理教室レポートにならない一線をしっかり保っています。
食肉センターの人が「ホルモンパーティしましょうか」と声をかけてくれて、調理実習室で「ホルモン講習会」を開く。一年で調査する予定が三年かかったりと、関係の作り方が、いいなあと思う。インタビューとして引用されている部分の聞き方も、いいのかそんなんで、と思うくらいに、柔らかく、「あのぅ、どういう餌がいいっていうのを、じぶんでこう見極めれるようになったと思った時期とかは。極めた!みたいな時期が、あったら(笑)」「あははは(笑)」・・・「せやから豚は、もぅ、奥深いよ。うん」78-79

なんや、このふにゃふにゃインタビューは! よいしょしとんのかい!

と、そこで、卸屋の奥深い仕事に対する誇りが、ほろっと、本人のことばとして出てくる。いいなあ。わたしはこういうインタビューが好きだ。「対話的構築主義」まで行きたい人ですから。

においや交通のせいで、迷惑施設であったり、生き物を殺すという生々しさ、むごさがある場所であるために、目隠しされる場である屠場。そこに入り込み、そこに生きる人のプロフェッショナリズムや素直な気持ちを書き出し、人に伝えようとすることも、ソシオグラフィの果たせる役割なのではないかと思う。見ようとしない人は、それでも見ないかもしれないけれどもね。

(蘭さんの取り上げていたハンセン病元患者団体宿泊拒否事件にからんで、非難の投書をしてきた人々は、「見ようとしない」人々と言えるかな。「癒し」としての差別というのも、なるほど、だが、なぜ、見ようとしないのかをもう少し考える必要があるように思う。)

「慣れる」ことはあっても、いくら機械化されても、生き物のいのちを奪うことが、どういうことなのか、という問いはあり続ける。そこに忌避感があったり、仏教の肉食妻帯禁止などからの禁忌からくる距離感が社会にあったのだろう。基本的に生き物を殺すのに慣れるのはプロだけでいい訳で、だからこそ、「いのち」の授業も、成り立つ。

その感覚的な部分を差別に結びつけていたのは、日本社会の問題だ。冒頭言ったように、アメリカにはないのだから。あれ、ということは、「いのち」の授業って、アメリカでは成り立たないのかな?
日本社会が過去身につけてしまった感覚を越えるのは、知ることであったり、理性であったり、職業への感謝であったり、人間的なつきあいであったり、いのちをいただいている自分自身(vegetarianを挫折した)への視線であったりするのだろうと思う。

そんなことがていねいに伝わってくる本でした。いえいえ、ベジタリアンは調査者にはいないと思いますが。調査肉食者だったりして。

屠場文化 語られなかった世界、桜井厚・岸衛編、創土社、2001

いのちの食べかた 抜粋
http://www.youtube.com/watch?v=UO6De2c4yFU
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by eric-blog | 2008-10-30 20:45 | ■週5プロジェクト08 | Comments(0)

繋がりと排除の社会学

262-4(1189)繋がりと排除の社会学
好井裕明、明石書店、2005

「あたりまえ」を疑う社会学に、蘭由岐子さんのハンセン病者についての分析が紹介されていたので。

斎藤貴男さんの分析として「癒し」としての差別が紹介されている。209

「この問題がハンセン病という個別の問題枠を超え、新たな差別の地平とつながっていることを示唆している」209

収録されたサーファー文化における女性の位置づけという文章にも驚いた。カテゴリーって何にでも発見することができるんだなあ。

11053追記
「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス、好井裕明、光文社新書、2006
大衆演劇、暴走族、地域芸能、被差別、同性愛者
学界には入れないような人々の側に、学界に通じることばを持った人が、入り込み、「声」を引き出す。
このような研究の結果、何が学界に起こっているのだろうか?そして、社会は、そのような人々の物語を消費するだけに終わるのか?

「人は、さまざまなアソシエーションによってしか、自由になれない」ということばを思い出す。「あたりまえ」を疑うということは、自由の獲得である。

研究者と大衆演劇者、風の人と地の人、その両方を獲得し、より自由になるのは、研究者だけなのか。それとも、何者にもなれないという悲哀をのみ、研究者は生きるのか。自由を獲得した結果、そこにあるものは、何なのだろう。
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by eric-blog | 2008-10-30 18:27 | ■週5プロジェクト08 | Comments(0)

エリック・ホッファー 魂の錬金術 全アフォリズム集

262-3(1188)エリック・ホッファー 魂の錬金術 全アフォリズム集

作品社、2003

革命家も創造的な人間も、永遠の青年である。革命家が成熟しないのは、単に成長できないからである。一方、創造的な人間が成熟しないのは、つねに成長を続けているからである。  103/p.171

うーーーん、革命家が成熟しないのは、社会が成長しないから、なんじゃないのかなあ。

沖仲仕の哲学者と呼ばれる彼は、7歳の時失明、15歳で見えるようになったという。1902-1983
1930年頃のカリフォルニアで季節労働者として働くかたわら、図書館に通い、思索を深めたという。

構造的差別のソシオグラフィに、一文が紹介されていたので、手に取ってみた。おもしろい。自伝も読みたくなってしまった。

他人に対する不正を防ぎうるのは、正義の原則よりもむしろ思いやりである。140/p.68

だと思う。

人々を結束させるのは、主としてその共通性である。259/p.109

人は知らないことについてほど、だまされやすい。自分のことをよく知らないので、お世辞や中傷にだまされる。  なるほどね。

恐怖と自由は相容れない。
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by eric-blog | 2008-10-30 18:01 | ■週5プロジェクト08 | Comments(0)

開発と民族問題 岩波講座 開発と文化4

276-2(1187)開発と民族問題 岩波講座 開発と文化4
川田順造、岩井克人、鴨武彦、他編集、1998

イスラームの近代化についての説明が端的でわかりやすい。

シリアを訪問した時、サウジアラビアの王族の死が報道され、全テレビ局が服喪一色になっていた。イスラームは近現代のナショナリズム、植民地化によって強制されたナショナリズムに優先する。そのことが、強く意識された。

エスニシティは認めながらも、イスラームの優越性を、クルアーンは規定していると。188

イスラーム的近代を構想した思想家がムハンマド・アブドゥフ(1849-1905)だ。啓示と理性、宗教と文明の和合をイスラーム的近代の定式としたのだ。190
1900年、カイロに「諸科学の館(ダール・アル=ウルーム)」と名付けられた高等師範学校設立。近代的な知と正統的なイスラームを併せ学ぶ教育機関であった。

西洋文明のうち、文化や社会思想に関わる部分を排除して、科学やテクノロジーを導入すべき、だと。文化や社会制度はイスラームが優越する。193

テクノロジーのブラックボックス化、ユーザーフレンドリー化によって、近代精神と近代科学の結合は、一見弱められ、テクノロジーのイスラーム社会への浸潤は、「技術」だけを切り離して可能なようにすら見えてくる。195

「初期イスラームへの回帰」という主張は、「イスラーム本来の精神に従って、現代社会を改革する」ことにある。「実は、初期イスラームに沿って再解釈することは、伝統的な解釈を捨ててイスラームを「現代化」することにほかならない。」195

近代法においては西洋法がエジプトなどにおいて、取り入れられて行った。
しかし、経済においては、リバー(利子)が禁じられているイスラーム金融が、具体的な実験を通して成功をおさめてきている。196

また、福祉の概念においても精神的福祉と物質的福祉の両方に力点をおくなど、イスラームの精神性を強調した発展の形を模索している。202

精神性ないし魂の自己実現は、自分との闘いなしには不可能。物質的福祉を過度に充たすことは精神性の実現にマイナスだという考え方もある。202

アブドゥフらが批判した神秘主義や聖者廟など、再活性化している兆候も指摘しつつ、その後の小杉泰さんのイスラーム研究をおってみたい。
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by eric-blog | 2008-10-30 09:45 | ■週5プロジェクト08 | Comments(0)

構造的差別のソシオグラフィ 社会を書く/差別を解く

276-1(1186)構造的差別のソシオグラフィ 社会を書く/差別を解く

三浦耕吉郎、世界思想社、2006

偏見や差別意識という人間の内面に由来すると考える人間主義的差別観に対して、その人の置かれた社会的な立場が人をして差別をなさしめると考える関係主義的差別観。
差別を構造主義的にとらえる立場だ。
「障害者」「病者」と「健常者」、「生活保護受給者」と「ケースワーカー」、「野宿者」と「支援者」、「在日」「沖縄」などなど。
社会的立場性が排除を生み出している。
差別する意図のないところで生み出されている差別を構造的差別と名づける。
その立場性の違いを書き表すのがソシオグラフィだと、編者である三浦さんは言う。とてもすっきりした説明である。
ガルトゥングが「構造的暴力」と言ったのと同じ説明だ。ガルトゥングは構造的暴力が存在するところでは、個人の潜在的達成可能性が阻まれると構造的暴力は不正義だと言う。

ソシオグラフィはエスノグラフィよりその意図するところがわかりやすい。しかし、ガルトゥングの「不正義」という断罪ほどのパワーはない。
構造的なものなのであれば、構造を変える方向を示すことがなければ、記述だけに終わるのではないか? しかもエスノグラフィは自分と向き合うつらさを伴うだろうに、ソシオグラフィにおいて変革が示されないのであれば、「わたしが悪いんじゃない、社会の構造が悪いのだ」という開き直りにしかならないのではないか?

構造を読み解いて、さてそこからどうするというのか?わたしたちは学者だから、で済ませるのか?
9人の異なる著者による論文が収録されているのだが、エスノグラフィだと定義している論文もあり、序章と後書き以外はほとんどソシオグラフィを意識した論文集とは思えない。

不法占拠や廃棄物処分場など、そうだそうだ、これは構造的差別なのだ、とはたと膝を打つ事例が取り上げられているだけに残念だ。

国籍があれば、無国籍を生み出し、大学があれば、学歴社会になびき、国境・県境の境があれば周辺が生まれる。人の認識そのものが「分かる」ことは分つことであり、境界線なしでは物事を認識することは不可能である。分類すると優劣、上下を意識してしまう。日本社会は「力の格差に対する感覚が大」(ホフステッド)であるために、上下優劣が社会関係を規定する度合いもきつくなる。

わたしは『いっしょに考えて!人権』で「カテゴリーをたてることができるのは、手だてをとるため」と、「障害者」「ホームレス」などのカテゴリーは手だてのための言葉として、使わざるをえないと書いた。

社会構造ができれば、カテゴリーやヒエラルキーが生まれる。そこに生まれる構造的差別とは、その社会構造によって不利益を被るカテゴリーに対するものだ。

差別は社会構造的なものである。だからこそ、そのことで生じる不利益に対しては、なんらかの社会的手だてをとる必要があるだろう。そのような手だてを求める権利が人権であり、そして手だてと構造的変革を求めるのが社会的提言行動であるのだ。
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by eric-blog | 2008-10-29 17:12 | ■週5プロジェクト08 | Comments(0)

森のワークショップ

相模原市環境基本計画見直し事業 地域別課題別ワークショップ

津久井地域の森林保全をテーマに、現場見学会、活動団体から話題提供を共通基盤として、ワークショップを行った。

現場を増やす
いい現場のガイドライン
移動手段の確保
人を森に連れてくる環境教育20の拠点整備

いずれのグループからもクリエイティブなアイデアが出た。
拠点施設および森林整備の現場を入り口に、相模原市民70万人森林ボランティアが活動できる町づくり。
ここで出たアイデアを「水と緑の総合計画」にも生かしていける道が見えたのも収穫だ。

本筋はこれをどのように次につなげていくか、である。
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by eric-blog | 2008-10-27 08:32 | □研修プログラム | Comments(2)

ヒトのなかの魚、魚のなかのヒト

275-4(1185)ヒトのなかの魚、魚のなかのヒト 最新科学が明らかにする人体進化35億年の旅
ニール・シュービン、早川書房、2008

古生物学者でありながら、大学の医学部で解剖学を講じている著者だからこそ、生物の進化の過程で、ヒトの器官や構造が、それぞれの段階、それぞれの部品から獲得されてきたことを明らかにしてこれた。と訳者は紹介する。295

それぞれの器官は、あらかじめなんらかの計画にしたがって、設計されたものではなく、それ以前の段階にあったものを利用してやりくりしながら形づくられたものである。

呼吸に肺と鰓の療法を使うオタマジャクシが、水を飲み込んだときに、気管に入らないように、ただちに声門を閉じるという反射的な行動パターンが、しゃっくり。

ヒトの喉頭の鰓弓軟骨はサメ類や硬骨魚類の鰓弓から。

生殖腺がからだの前半分にある魚類のからだを基本にしているために、生殖腺が降下したヒトのからだはヘルニアになりやすい。

「過去数十億年の変化を振り返ってみれば、生命の進化において新規なもの、あるいは一見類例がないように見えるあらゆる出来事が、実際には、新しい用途のために、再利用され、組み換えられ、用途変更され、あるいは他の形で改変された古い素材でしかないのである。」265
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by eric-blog | 2008-10-24 10:37 | ■週5プロジェクト08 | Comments(0)

公共事業と基本的人権

275-3(1184) 公共事業と基本的人権
下筌・松原ダム問題研究会、帝国地方行政学会、昭和47年1972年

日田を小水力シンポジウムで訪ねた時、見学先の一つに松原ダム資料館があり、そこで初めて「蜂の巣城 下筌ダム建設反対運動」の写真パネルを見た。川の対岸の山肌を小屋が廻り上がっている。

室原知幸さん、1970年6月29日死去。70歳。昭和28年の筑後川集中豪雨から、ダム建設計画、そして反対運動と、50歳半ば以降の人生をそれにかけた人だ。公式的には反対運動は1957年昭和32年の志屋小学校での説明会開催からとなっているが、本人が書いた昭和39年の文章には「この12年余私の人生は松原・下筌痔無の建設という事態によって大きな変動を余儀なくさせられ、」513
と表現されている。ここに、「二八災」以降、昭和30年に被害調査、その翌年、何の説明も承諾もないまま立木を切って行われた現地調査、下流の久世畑地区でのダム建設計画および断念など、一連の動きを、はっきりとした情報もないまま、県境の村が、ひっそりと息をひそめ、様子をうかがっていた様子が想像される。その間、たった二年。地域に住んでいれば、昨年の1月に、人の木を無断で切ったような奴らが、何の説明か、と思って聞いたであろう8月17日の説明会。
これを室原さんは「赤紙一枚で戦争中はいのちを奪い、赤紙一枚で村で奪う」と、お上の姿勢がなんら変わっていないことを、民主日本で問いただす。

理にかない、法にかない、情にかなう、それが公共事業のあるべき姿だと、彼は主張し続けた。

さまざまな利害と地縁血縁がからまる地域においての合意形成過程は、宮本常一的には「三日三晩の話し合い」を通して、『西洋の正義・日本の正義』では「超長期的多角決済」によって決済されていく。いずれも、お互いの利害、思惑が共有された上での決着だ。

お上は、そのような地域に対して、突然ふってくる赤紙だ。

公共事業がどれほど「公共の」つまり多数の利益であったとしても、その影響を受ける人々の被害は最小限にするのが理であろう。

防災のために建設が始まったダムだが、水力発電など多目的ダムに姿を変えていく。多数の都市に対して、少数の村という図式も、ダム建設には絡んでくる。

死の前年、室原さんが期待していた「幕引き」は中下流の自治体長からの訪問だったという。しかし、やってきた久留米市町は住民大会決議文を読み上げ、工事を遅らせている反対派を糾弾する。

松原・下筌ダム工事事務所二代目所長の副島健さんはなぜ反対があれほどの事態にいたったかについて、まとめる。597-
・ 計画そのもの、収用法による室原さんら三人の逮捕などの国家権力
・ 地元の「山子」や地主などの力関係など。室原さんは「山子」からの訴えで、反対にたち、生涯で1億円をつぎこんだと言われる。
・ スターを創ったのは、建設省だった。
・ 誠意ある対応がなかった。
・ 事業の推進にあたって幅広く政府機関が協力する、国民の指示があること。

室原さんは「私が反対してもダムは出来上がった。・・・出来上がったダムを見て建設省はよくやったというだろう。しかし、おれはどうなるのか」と語ったらしい。610

徳山ダムは、多くのドラマと写真・映像を残し、川辺川ダム、八ッ場ダムはそれぞれに先が見えたような。

「明日」のために「今日」までを揺るがせられる人々の生活をどう保証できるのか、確かな答えはどこにもない。しかし、公共事業を行うものにとっては、大きな学びを残したのではなかったか。
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by eric-blog | 2008-10-24 10:11 | ■週5プロジェクト08 | Comments(0)

差別原論

275-2(1183) 差別原論

好井裕明、平凡社新書、2007

『「あたりまえ」を疑う社会学』と対をなす本。一緒に読みました。
著者は東大卒、筑波大学大学院教授。まぎれもなく「力」の側である。
自分が力の側にある時、とりまくすべての状況が「あたりまえ」であり、そのことを意識するのは難しい。
著者は「被差別」、弱者の側、あるいは薬害の現場に立ち会った、つまり差別の現場を覗きみた(加担したのでなければ)医者に「入り込み」、あるいは聞き取りを、社会学者という立場でインタビューする。
そのようにして気づいてきた「あたりまえ」を疑う姿勢。若い頃に感じたお偉い学者に対する反感。そして、紹介されている本たちへの視線にも共感する。
南条まさきさんの本も、わたしも面白く読んだし、桜井敦さんの「対話的構築主義」というインタビュー観は、ワークショップ ファシリテーターとして我が意を得たり、だ。

しかし、「降りた」男が、教授という力の側でなすべきことは、日常生活で気骨ある人生を目指す以上に、仕事の面で、学会という権力装置の改革について、大学が輩出する人材について、差別のある社会に対して、なすべきことがあるはずだ。それが見えない。

自分自身の状況を「人々の社会学」出来ないのであれば、何のためのエスノグラフィ?

力フォビアを克服しなければ、筑波の隅っこでこぢんまりした日常を誠実に生きるだけになる。とすると、わたしと彼との違いは、毎朝「ご主人」を垂れ流すNHKに、感情労働をすり減らすのか、それとも、その視点から分析した文章を論文ないし、新書の一節として発表するかでしかない。
まさか、被差別、抑圧の側と常に共感し、同じ感情ストレスに疲れるようになることを求める人など、いるはずもない。本人がどう生きるか、息子に何を伝えるか以上のビジョンを求められる立場という力の側にあるのではないか?
そして、そのように問われて、それぞれに何ができるのか出来ないのか、男性中心社会の、男性持ち上げ文化の中では、enlightened個人に何ができ何が出来ないかを社会学することこそが、学問的誠実さであり、人としての真剣さなのではないか?

男たちが人権研修で行っている真面目なおしゃべりやパーティー会場のような明るい軽いグループ討議の場にはビジョンがない。
なぜなら彼らは放っておけば有利な側であり、変革しなくてもデメリットのない側だからだ。
差別を糾弾されるからではなく、自分がそんな社会がいやだから取り組む姿勢でどこまでいけるか、見届けてやろう。
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by eric-blog | 2008-10-23 09:18 | ■週5プロジェクト08 | Comments(0)

さぎやま

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土曜日、神谷中の収穫祭に参加しました!
萩原さんという名物かあさんの畑です。隣が公園という好立地。
でした。
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by eric-blog | 2008-10-21 09:18 | Comments(0)