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生産手段の共有

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昨日の続きのセミナー

写真はオリバー・ケルハマーのプレゼンテーションから。
捨てられたような場所を、柳などの有用植物を植え、柳の枝でバスケットを織る。
そんな活動が人々を結び付けていく、と。

カナダの実例がすばらしかったです。
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by eric-blog | 2008-01-30 11:18 | □研修プログラム | Comments(0)

PLTプレゼンテーション

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シンポジウムでのキャシー・マクグロウフリィンのプレゼンテーション
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by eric-blog | 2008-01-29 17:01 | 研修プログラム | Comments(0)

東北大学グローバルCOE第一回国際シンポジウム「未来を開く科学と市民」

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by eric-blog | 2008-01-29 15:07 | 研修プログラム | Comments(0)

いつもゼロからの旅立ち

215-2(1047) 長嶺ヤス子、グラフ社、2006
三つの絶望を超えて、表現者である著者が到った境地は「いのち」。
1997年の自伝「炎のように火のように」はフラメンコ、スペイン、ジプシーの世界で生きて来たいろいろが書き込まれている。浮気、嫉妬、ケンカ、いじわる、などなどだ。
人間の激しい感情が踊り手をつき動かす。

しかし、フラメンコの世界にも生活のために踊っている人もいる。著者は「世界一」の踊り手を目指しつつ、その道は自分の中からの、ものしかなかった。

スペイン人でないことによるフラメンコの世界からの拒絶という絶望。

表現者としてのリサイタルでは食べて行けない、リサイタルのための資金集めの絶望。
いのちが奪われて行く絶望。
2006年、70歳を迎えた著者は、世界一になることでも、金を稼ぐことでもない。いのちを踊ること。

板橋の常楽院での出会いから、読んでみた。成功するかいなかではなく、「表現者」である人は、子どものときから違うのだなということ。

その道は険しいのだが、人がその表現に触れて響いて初めての表現でもある。人に響かせるものとは何なのだろう。
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by eric-blog | 2008-01-28 21:38 | ■週5プロジェクト07 | Comments(0)

持続可能な社会への2つの道

215-1(1046)持続可能な社会への2つの道 産業連関表で読み解く環境と社会・経済
C. シュターマー、ミネルヴァ書房、2006

まだ、全然読めていない。のですが、再度読むということも含めて、宿題宣言をしておきたい本なので紹介します。

本の題というのは大切なものですが、この本はドイツ語で書かれており、お金と物と時間、そして社会経済的なインプットとアウトプット関連表を作ることで、これからの社会を考える、そんな長い原題です。

産業連関表に対する批判的な作り直し作業がこの本のメインであるのに、この邦題ではそれが読み取れません。

著者は、これまでの産業連関表では物と金の経済的な指標しかなかったが、社会的時間的なものがなければ、経済と社会の健全な関係は考えられないんだと言っています。

そして、基本的には「半日社会」、つまり全日労働を前提にした考え方ではなく、となっていくのです。これはわたしも「父性手帳」を1983年に自費制作したときにすでに「一日4時間労働」説で提案しました。子どもにかける時間を考えれば、男女平等推進にはこれしかないだろうと。

著者は次のように言う。
37-38
「生産過程がまだきわめて労働集約的な社会では、実際的解決は、すべての社会構成員が一日中働き、子供は保育所で世話をしてもらう・・・これに対して先進工業国では、すべての就業能力のある者に、全日就業のための十分な仕事はもはや存在しない。したがってこの解決は、男女が半日ずつ働くか、あるいは就業労働の局面が、家庭労働あるいはその他の社会的活動の時間と交替することにあるように思われる。」
「とりわけ国民の時間的パターンの根本的な変更、公式な仕事から非公式な仕事への移行を要求する」
「半日社会における消費水準は減少する」
「非公式の仕事、社会的奉仕はいちじるしく上昇する」

四半世紀にわたり「四時間労働説」を標榜、実践しようと努力してきた自分自身の経験と観察から言うと、
・日本人は、「労働集約的な労働」の姿に感動し、それをモデルとしている。
・長時間労働にしか、生き甲斐を見出せない。
・余暇の過ごし方が下手。
なのである。この価値観が変わらない限り、労働時間が1000時間になるようなことは、日本では起こらない。

そして、その「労働集約的な労働が好き」というのは稲作文化に基盤があるのかもしれない。夏の田の草とりが、日本人にとっては象徴的な「労働」の姿なのだ!

とすれば、風土に「労働集約的」に手をかけることを再評価しつつ、産業社会労働とは切り離して考える文化的態度の形成が必要だよね。「そんなロボットでもできるようなことを、人間が何時間もやるなんて」とかね。

第四章は、子供の時間。ここをぜひ読みたかったのだか、返却期限がきているのと、わたしが出張になるのとで、またの機会を楽しみに。
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by eric-blog | 2008-01-28 11:09 | ■週5プロジェクト07 | Comments(0)

路面電車ルネッサンス

214-8(1045)路面電車ルネッサンス
宇都宮浄人、新潮社新書、2003

東池袋にもLRTが計画されている。堺市でも東西のさかい駅同士をつなぐ計画だ。

路面電車がもたらす便益を著者はマフィアMAFFIAとまとめている。68
Medium capacity transit
Accessibility
Frequency
Flexibility
Inexpensive
Amenity

もたらす、のではなく、このような路面電車でなければ成功しない。成功している路面電車はこれらの条件を満たしているから、成功しているのだ。路面電車を引いたら、これらがもたらされるわけではない。

ということは、路面電車の計画には、このような条件を考慮したデザインが必要だということ。

電車ほどの大量輸送ではなく、乗り降りが容易で、本数が多く、柔軟にネットワークされ、安価で、地域の快適性を向上させるもの。

先進事例もたくさん紹介されているのだが、いずれも、「町」全体、交通全体との関連が考えられたものばかりだ。

日本の問題は社会の発想そのものの縦割りだと、わたしは思う。「どんな町にしたいのか」「どんな町が人間にとって快適な町なのか」というようなバックキャスティングが苦手なのだ。

路面電車に限らず、バスも含め、本数を増やす、利用を増やす上で決め手になるのが「信用乗車」だと思う。

わたしが始めてヨーロッパの町を訪ねたのは1981年だ。ベルギーで電車に乗り、改札のゆるやかさに驚いた。その後、カナダのトロント、ニューヨーク、ロンドン、ハンガリーなど、さまざまな国、都市をたずねたが、どこでも「信用乗車」制度が基本であるのに、驚かされてきた。

この本を読んで、この方法はまさしく1980年代に、日本でも行われそうな議論のすえ、ヨーロッパでは広がったのだと知った。

決して、伝統でも、歴史でもなく、社会的意思決定の結果なのだ。

無賃乗車の率は、特殊な事例を除き、1.1%だという!!!!!

信用乗車によってもたらされるメリットは次のようなものだ。
・運転手がお金を扱わなくていい。交通安全につながる。
・どの扉からでも乗り降りできる。降り乗りが早くなる。時間が短縮される。
・一人の運転手でも車両の連結が可能になる。
・運賃授受のための設備投資が安価になる。

あるいは、基本的に無料にして、信用乗車と同じメリットを生み出している都市もある。
わたしのヨーロッパの都市の典型的なイメージは、教会や市庁舎などの建物があるエリアが商業エリアで、観光客にも人気。たいていはレンガや石畳の道路。車は入れない。そこに使いやすい公共交通機関があると、車がない観光客でも気軽に動き回れる。

東京だったら、銀座あたりだけかなあ。銀座も、象徴的な中心点はないものなあ。

路面電車推進は、街づくりなんだね。
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by eric-blog | 2008-01-26 09:12 | ■週5プロジェクト07 | Comments(0)

リスク学入門 5 科学技術からみたリスク

214-7(1044)リスク学入門 5 科学技術からみたリスク
益永茂樹、岩波書店、2007

リスク学入門のシリーズ。専門的なデータ解析などを含んだ本なのだが、地球温暖化については、膨大なデータ解析ではなく、時間軸の長さ、不確実性の多さ、これまでの実験室型研究の限界や、防災対策の不人気と地球温暖化対策の類似点など、問題について書かれている。
また生態リスク評価に化学物質の影響評価なども含めている。

このシリーズには
1.リスク学とは何か
2.経済からみたリスク
3.法律からみたリスク
4.社会生活みたリスク

がある。
中でもおもしろいのは第四巻の「家族のリスク化」
この間ではリスク社会と社会保障、リスク社会の中の教育、リスク・コミュニケーションなどが論じられている。

「リスク社会の中の教育」で佐藤学さんは、「学校を第二のホームとして学びの共同体と同時にケアの共同体として機能させる。」ことを提案する。

新自由主義は、真の「リスク社会」へと導く。選択の自由は、好機よりも、リスクを被る人々を多く生み出す。

リスク社会に対抗する教育改革は、「リスク」を好機に変え、子どもたちの絶望的な「ギャンブル」を、希望を探究するチャレンジへと変える。53

その改革は教職の専門性と尊厳、保護者との関係、分権化によってなしどけられるという。それができる社会は、すでに、新自由主義でも、リスク社会でもないと、わたしは思うのだが。
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by eric-blog | 2008-01-24 08:52 | ■週5プロジェクト07 | Comments(0)

学校におけるケアの挑戦 もう一つの教育を求めて

214-6(1043)学校におけるケアの挑戦もう一つの教育を求めて
ネル・ノディングズ、ゆみる出版、2007

私自身は、初等教育においては生活中心の、中等教育においては市民性中心のコアカリキュラムが、人間化教育の基本だと思っている。そこに多重知能や認知的アプローチ、思考スキルや分析的枠組みをからめるべきだとPLTに同意するのは「考え方」を学んで欲しいからだ。

その上で高等教育は専門分野の専門家や理解者の育成でありえるだろう。
ところが、いまは中等教育が高等教育の予備校でしかない。その構造を作り出すのが「教科主義カリキュラム」であり、著者が言う「リベラル・エデュケーション」だ。

著者は、数学の教員を勤めた後、教育哲学を修めた人である。教育の目標は「ケア」しあう人を育てることだと。「学校はケアの中心であること」141 それがもう一つの教育だという。

リベラル・エデュケーションは数学なら数学の専門分野に進学する人にとっては有用だが、そうでない人々にとっては、自分たちの生活において数学とはどのような有用性があるかという観点で学ぶ方がよほど実際的なのだと。
大学人である著者は「大学の内部にいてリベラル・エデュケーションを批判するのは産科病棟で母親を批判するようなものだ。」という。
「リベラル・エデュケーションとは特定の職業や専門職のためではなく、一般教育のために企画されたディシプリン(学問分野)の一群のことである。」65そして著者は「リベラル・エデュケーションは狭い範囲の人間の能力(言語能力と論理能力)しか活用しない」「すべての子どもに必要な内容ではない」などの理由で批判する。

著者もコアカリキュラムには理解をしめしつつ、この30年コアカリキュラムはひろまっていないと指摘する。ではなぜ、いまにいたるも大学入学準備のリベラル・エデュケーションが中等教育段階において改革されることなく継続しているのか?
それは単に特権的知の承認にしかつながらないのに。
富裕層が貧困層のことを気にかけないという現在の結果につながっている教育には、「何か根本的な誤りがある」92

研究と教育、大学と学問など、さまざまなことについて、刺激的に考えられるおもしろい本である。

著者の提示する「ケア」というのは、監訳者である佐藤学さんの提唱する「学びの共同体」のキーワードでもある。

しかし、研究者は自分の生きているフィールドは、批判はしても、改革実践の対象にしない。
大学を「学びの共同体」にできるか?教育学界を「学びの共同体」にできるか?How?

著者も佐藤さんも、権力構造を解体しない「星腹のスニーチ(p.72)」なのだ。

リベラル・エデュケーションは、高等教育の一般教育として有用な考え方だ。ただ、中等教育を高等教育の予備校にしてはならない。それだけのことだ。
学校をところてん式で考えるのではなく、目的の違った「学びの共同体」があるということであり、そして知識社会への移行に伴い学習の長期化した現在、中等教育までは皆教育を、高等教育すら7-8割をめざすのが、妥当だということだ。

発達段階はリニア、線形、直線的ではなく、多層的多重的に、複線的に進む。生涯にわたって。
そのような人間観を持たない限り、学校は変わらない。

ハワード・ガードナーの価値観の成長を発展させたのが「絶対主義」「相対主義」「普遍主義」の段階だとわたしは考える。そして、初等教育においては絶対主義的価値観を中心にし、中等教育においては相対主義、高等教育では普遍主義的な価値観の形成にそのコアをおくべきである。
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by eric-blog | 2008-01-24 06:19 | ■週5プロジェクト07 | Comments(0)

人権研修

差別のある社会で知らず知らず身につけてきたことを脱学習する。この課題が耳に心地よいはずがない。

そういう意味で、今日の研修は久々にがちんこ対決になりました。

アクティビティは「しがまっこ溶けた」。実は事前に送られてきた啓発資料のハンセン病についての項目に、日本社会の怠慢が一言も触れられていないことが気掛かりで、選んでしまった。
参加者の中に「汚いものを見たくない、というのは本能。その態度を変えることは出来ない。」と御自分の顔面瘡傷がある友人たちが写真をいやがることをあげて主張。では教育でそれを乗り越えるしかないですね、どういう教育が求められるのでしょうかと問題提起。ここに来ている人はきれいごとを言っているだけだから、と話は平行線。

理念を教育ツールに、が「きれいごとを言っている」と違うのはどこであるべきなのか。

ファシリテーターの「役得」で人権尊重のためには「忌避される側のしがまっこへの想像力」があれば、行動は変わるはず、とまとめたが、アンケートの結果は真っ二つ。

参加者の違和感は引き出せたが、そこからどこへ? 果たしてそのことをたった一度の研修で完結しなければならないものかどうかも、問いなのだが。

いやあ、やっぱり複数のファシリテーターでふりかえりができることが豊かな学びにつながるよなあ。そもそもあのグループは話し合いが成立していなかったし。そちらの問題解決を優先すべきだった?でも How?
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by eric-blog | 2008-01-23 19:13 | □研修プログラム | Comments(0)

放送禁止用語

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今日の午前中は、日テレの金沢局塚田アナウンサーのお話。フリップを活用しながら1時間で「放送禁止用語はない」「差別侮辱につながる文脈は許されない」の二点を繰り返し伝える。
間に「余興」とだいして、必ずしも人権にかかわるものではないアナウンサーの失敗談エピソードも。
面白かった!です。
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by eric-blog | 2008-01-23 18:47 | 研修プログラム | Comments(0)