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砂のように眠る むかし「戦後」という時代があった

198-8(965)砂のように眠る むかし「戦後」という時代があった
関川夏央、新潮文庫、1993、原著1989

戦後、イコール昭和、イコール団塊の世代が作り出した世相であることを、再認識させた本。1949年生まれの著者が、小説と評論をサンドイッチ構造で1950年代から1970年代まで、6つずつ、12章で組み立てている。

山びこ学校は昭和23年から29年、山形県山元村山元中学校での無着成恭の生活綴り方の実践。
「なんでだろ」「もっといい方法はないか」「現実を直視して計画をたてろ」という方法は、そのころはやっていたであろうプロジェクト学習、経験学習、問題解決学習などのアプローチと同じだが、もっと生活に密着したところであったこと、そしてその生活が貧困であったことが、表現者としての彼らを際立たせた。

26年に出版されたとき、その綴り方を書いた中学生たちは、三年生。自分たちで出版を決めたという。51

『にあんちゃん』という映画とその原作が描く風景も、昭和28年。貧しい在日の兄妹の生きる、生きのびる姿だ。

昭和12年生まれの小田実の『何でも見てやろう』1960年を経て、「1969年に二十歳であること『二十歳の原点』」。その前に出版されている『愛と死を見つめて』と『青春の墓標』などとの比較がされている。

こう読んでくると、本当に団塊の世代を中心に世相が作られ、時代が移ろってきたのだという思いが強い。

懐古ではなく、きちんと世界と歴史を知るための「過去の共有」のあり方を探らなければ、いま育ちつつある子どもたちは「80歳で20本の自分の歯」「60歳からでも入れる保険」、健康食品、などなどの高齢化社会の情報の中で、閉塞していくのではないだろうか。いま、わたしたちが見ているものは「できあがり」そして自己崩壊していくシステムの姿なのだから。
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by eric-blog | 2007-09-28 09:54 | ■週5プロジェクト07 | Comments(0)

日本人の正体

198-7(964)日本人の正体
養老孟司、テリー伊藤、宝島新書、2006

『オバサンとサムライ』2004の新書版。
養老さんの本は、全体としては何を言いたいのかよくわからない。ひとつのことを言うために書いているのではなく、エッセイであったり、対談であったりするからだ。日本人の正体はオバサン=その代表的存在が扇千景さん、という発見に至ったノリノリの対談。と、ご本人たちの評価は高い。

けれど、わたしがおもしろかったのは、次の二つ。

わたしたちの頃にもいじめはあった。しかし、その頃、子どもには四つの世界があった。人間世界のいいとこと悪いとこ、自然世界のいいとこと悪いとこ。49
子どもの世界が半分になって、つらさが倍になった。

天才は身体という個性的な存在である。だから、伸ばすのではなく、その個性を邪魔しないこと。

身体的なところにこそ個性があり、脳は公共的なものなのだ、というのは養老さんが常々主張しているところ。も一つ発見したのは、脳は外肺葉から発生するのだということ。

脳は外界との接点なんだね。

膨大な著作を退職後に物している養老さん。論文を書いているより、よほど楽しいのだそうである。そして、すべてのマネジメントを自分自身で行うことで、自分のバカを治そうとしているのだそうである。まじめな人ですね。

ふふふふ、ははははは。笑ってしまったのは、テリー伊藤さんが、女の子を口説くのに、「一日に10分、人間が作ったものでないものを見つめること」という養老さんの言葉を引いて口説くのだと、「星や花をみつめてごらん」と言うと成功率が高いといっているくだりを連れ合いに話したら、「大丈夫、ぼくは毎日ナオコを見ているから」と言われた。なるほど、わたしは自然が作ったものなのだ。え?
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by eric-blog | 2007-09-28 09:32 | ■週5プロジェクト07 | Comments(0)

パンツが見える。 羞恥心の現代史

198-6(963)パンツが見える。 羞恥心の現代史
井上章一、朝日新聞社、2002

『スカートの下の劇場』は上野千鶴子さんの名作だが、この本は、羞恥心というものが、男中心の価値観の台頭と関連することを描いたもの。

見たいというスケベ心は、オトコにつきものだが、だからといってオンナが羞恥する必然はない。見る男の側が優位である場合、女の羞恥がセットになってくる、というわけだ。
時は1932年、白木屋百貨店の火事で、女店員8名がなくなった。着物姿で下から見られることを恥じたからだ、だからズロースをはきましょうという風潮が作り出された。

それは後世に作られた話だと著者は暴露する。実際には男の店員も死んでいる。

いまのファッション感覚の先達者は「女性は自分自身のために装うのだ」と主張した鴨居洋子だという。

どんなに言われても、キャミソールがとまらない、いまのオンナの子は、自由だ!
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by eric-blog | 2007-09-27 10:11 | ■週5プロジェクト07 | Comments(0)

環境デザインの試行

198-5(962)環境デザインの試行
河津優司監修、武蔵野大学出版会、2007
Environmental Design Experiments

英文のタイトルが示しているように「実験」である。建築家、写真家、アーティストなど11名の先進的な取り組みを紹介している。

自然エネルギーで動く造形物の製作であるとか。

個人と家族・公共のためのモジュールが組み合わさった「ディスクリート」な家や地域共同体の建築の追及であるとか。

時間の化石であるところの廃材を使った高級ホテルのバーの壁面製作であるとか。

環境にとけこませる、対峙する設計であるとか。

都会と自然

都会の路上でスケボーをしている若者たちの姿は都会の自然なのだ、と。
デザインの仕事で、小さなことでも、よりよい環境につなげることができるものがあるのではないかと。

愛地球博の会場が海上の森であったときに、設計にもかかわり、変更されたゆえに実現しなかったという宮城俊作さんも、箱根の森の中にポーラ美術館を建てた安田幸一さんも、地域調査に二年ほどもかけているのですね。グッドデザインというのは、風土を知ること、風土とコラボすることでできるのだなと、改めて思う。

長年培われた地域の生活文化は美しい。しかし、現代の知識博識とビジョンを持ってデザインされた環境もまた、心地よく、魅力的で、どこか都会的なわくわくするものなのだろう。

平等院の収蔵物博物館を作る時に、「鳳凰堂を真似てはならない」「収蔵物こそが大切なので、建物は収蔵物のためにある」といわれ、百年後にはまた後輩たちが別の建物を建ているだろうと思うと宮城さんは言う。

地域の生活文化は数百年、千年の営みを背景にしているかもしれないが、都会の環境デザインは、やはり百年くらいのものなのだなと、都会的なるものの特質としての「変化」「新しさ」とのせめぎあいが存在することも、思われた。

越後妻有トリエンナーレについて、「都会の人にこそ、この五感の解放される地域」が必要なのだという北川さんの話。

そして、異色なところで、写真家の長倉洋海さんがコソボをたずねて、ある一家が家を失い、そして、自分たちの手で家を建て直すまでを写真に収めていく。「家がなくても家族がいれば生きていける」「セルビア人もここに帰ってくれば、ここが彼らの住んでいたところなんだから」というザビットさん夫婦に、ずるいことに長倉さんは「僕はカメラマンでよかったと思います」158という。人の喜びだったり、悲しみだったり、肌触りだっちり、いろいろなものがなければ、あるいは感じることができなければ、国際化ということばも空虚だ。文章で書くと、大きなことに飛躍しがちなのだと。

とはいえ、モノを作り出す人は多弁なのだなと思った。北川さんなんて四年間で二千回も説明会を開いていたらねぇ、ことばも獲得していくよね。

いい本だ。そして、わたしは「風と散歩」というものを作ってみようと思った。
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by eric-blog | 2007-09-26 06:48 | ■週5プロジェクト07 | Comments(0)

雑穀を旅する スローフードの原点

198-4(961)雑穀を旅する スローフードの原点
増田昭子、吉川弘文館、2007

沖縄竹富町黒島の家にはつぎのような標語が貼ってあるという。

まごわやさしい

バランスの取れた食事をとねがって校長先生が広めたという。

まめ、ごま、わかめ、やさい、さかな、しいたけ、いもの頭文字だ。

これを読んだ時、「まごこわやさしい」にした方が、沖縄らしいのではないかと思った。「こんぶ」だ。

1998年から病院食に五穀ご飯を取り入れている杏雲堂病院。米、粟、稗、黍に白ゴマ黒ゴマだ。

雑穀食は農山漁村の常食であった。著者がその跡を尋ねていった先は、沖縄竹富島、石垣島、東京都檜原村、岩手県遠野市、山梨県小菅村、丹波山村、早川町奈良田

それらの地域における雑穀の季節季節の食い分け、耕作地の使いまわし、加工食品などを見ると、まさしくその地域独自の雑穀文化であり、生活だったのだということができる。
長い時間をかけて試されてきたのであろうが、その土地のそうでなければならない生活として、耕作サイクルがあり、食べ方があり、加工作業があり、販売があったのだということが知れる。

都会には「地域の生活文化」など、風土に根ざした必然のものはない。

巣鴨地蔵どおりのサイクルは縁日のサイクルであり、六本木のサイクルは目新しい巨大商業施設が作り出すサイクルである。

北川フラムの40年をまとめた『希望の美術・協働の夢』(角川書店2005)に、北川さんは「都会と地方の新しいつながり」が求められなければならない時代なのだという。そして、「家業を継ぐとか、先祖代々の田畑を耕すとかでもなく、親に寄り添い妻子と生活し近隣の社会で人間らしく生きてきたわけではない私が」8美術を語るのは空々しいと恥じながら、新潟のまちおこしに取り組む。その、大地の祭り、越後妻有アートトリエンナーレの試みの中で、保守的だと言われる農山村の人とアーティストたちの交流が成立していくのは、「アートが肉体労働」であるからだ。26「芸術」というものであるか何かは別にして、何かをともに「作業する」こと、そして、それがとてつもなくばかばかしくても、何かが作り上げられることに、妻有の農の人々は面白さを感じ、協働してくれたのだという。
都市を捨てることは、わたしにはできないだろう。都市で雑穀文化的な生活文化を創ることは幻想だ。都会に出た人々がその生活文化を支えてきた土地、家族、共同体、と同じ価値観を保持することはありえないだろう。

互いが批判しあうのではなく、互いがあることの豊かさを楽しみながら、協働する。

都会からの協働は自由の風、アート、ゆとり、余暇、有り余る資金、そして何よりも評価なのではないだろうか。他を、多くを知るがゆえの評価。

雑穀文化を含め、風土の担い手は減る一方だろう。風の人との協働の要になる土の人たらんことは、一代のことではないものなのだろうから。

米食志向は身分的上昇志向と結びついていたのだと。15

すでに「都会」が上昇志向の象徴であった時代はすぎた。「都会」という風土の作り方を模索しなければならない時にあるのに、ノスタルジーなのか、都会を耕す思想が、見えてこない。それは都会に生きる人づくりのことであるはずなのに。

都会に生きるひとの肉体労働とは何か。それはコズメティックな美しさ以外の美しさを持てるのか。
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by eric-blog | 2007-09-25 09:49 | ■週5プロジェクト07 | Comments(0)

創造的な食育ワークショップ

198-3(960)創造的な食育ワークショップ
金丸弘美、岩波書店、2007

いまERICでFocus on Foodsという教材開発連続学習会を開催していますが、この本はおもしろいなあ。FoFのカリキュラムにぜひこの視点は取り入れたい!

現在の食育の取り組みが食生活だけに焦点をあてている傾向があるのではないでしょうか。ERICは、1991年に『フード・ファースト・カリキュラム』を翻訳出版しています。食べ物はどこから、食べ物にかかるエネルギー、誰が餓えているのか、世界の農業者が抱える問題、など、身近な食べ物から世界の問題を考えていくものです。

食育についても、このようなアプローチがどこかに据えられて欲しいと、食農地球教育的なアプローチをどのようにすれば進められるかを考えたいと、FoFの学習会へとつながっているのです。

著者が、大分県食育事業アドバイザーとして佐伯市と竹田市の実践に取り組んできた経緯と成果を紹介したのがこの本。テイスティングの授業など、味覚のワークショップ型授業案もさることながら、地域の人々との連携がとてもいい。

実は味覚のワークショップのルーツは、『子どもの味覚を育てる ピュイゼ・メソッドのすべて』というフランスのワイン醸造学者ジャック・ピュイゼ氏による1970年代の実践にあると言います。25

味のサロンやチーズのワークショップなどが、フランスやイタリアでは開催されており、それがチーズの味の保証や認定などの基盤にもつながっている。「味覚は文化」、しっかりと自分たちの味を知り、伝え、守り、あるいはよりよいものを生み出すことに、業界や地域が取り組んでいる。それがまたスローフードを生み出す土壌でもあったと。21

それと同じようなワークショップを試みようというわけ。

ま、ここから日本の葛藤が始まるのですが、地域の食材のテキストづくり、試験機関との連携、地域の農家、漁業者との連携、そしてティスティング、調理実習などがあり、地域おこし的なアプローチもあり、そしてなんとパエリアづくりやらシェフによる新しいデザートに挑戦などが・・・

イタリアのスローフード協会には「味覚は文化」というコンセプトがあり、どちらかというと伝統的な味を知る・守るに焦点があるのに対し、まだまだ日本の食文化は「新しい味への挑戦」があり、発展型なのです。

一物全体食、身土不二、マクロバイオティックの桜沢如一さんなど、優れた理論と実践を生み出しながらも、縮こまっていない日本文化。すごいなあ。

閉じられた社会の開かれた文化の日本が見えてしまう食育ワークショップの実践報告でした。

そのことを積極的に伝えるのがいい食農地球教育につながるだろうなと思いました。きっと、わたしたちは国際的につながることをやめないだろうから。地球全体でよりよい方向をめざそうよ。そのために、食育ができることってなに?

連続学習会、ますます楽しみになってきました!
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by eric-blog | 2007-09-24 06:22 | ■週5プロジェクト07 | Comments(0)

社会のなかの言語 現代 社会言語学入門

198-2(959)社会のなかの言語 現代 社会言語学入門
スーザン・ロメイン、三省堂、1997
Language in Society, An Introduction to Sociolinguistics, 1994

著者は1984年にオックスフォード大学の教授となった人。その時のマスコミの取り上げ方が服装や髪型であったことで、男性では問題にされないことがなぜか女性では問題にされることがあったこと、そして言語変革によって社会改革をめざすフェミニストたちの運動や動きを紹介しなからも、社会とことばの両方が変わらなければならないことを強調している。167

訳者らのウィットなのか、housewifeを house personと言い換えている諷刺画を訳すのに、主婦ではなく、人偏に帚の文字を使っているのだ! 136 おっどろいた!そんな文字があるのかと部首索引を引いたが、なかった。字典ならあるかもしれないが。

そんなことできないだろう。とチェックしてみたら、意外にできそうだ。なるほどそんな手もあるか。


姑估

娘俍
婚姻


容認発音 Recieved Pronunciation=パブリックスクールで教育を受けた人たちが使う言葉に代表されるような権力や階級と言語の結びつき、
少数民族や移民の言語移行と死
コード・スウィッチング
言語と社会階級
言語とスタイル

ジェンダー女性のコミュニケーションは対等、男性のコミュニケーションは階級闘争的
言語と社会ネットワーク

標準語化 女性の方が標準語化が働きやすい

学校言語の排他性
ピジン・クレオール語
バイリンガル教育

社会言語学が、比較言語学に偏りつつある現状に対し、社会を読み解かなければ言語はわからないのだと主張する良書である。

表紙の写真が意味深。こういうのは、説明が欲しいなあ。
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by eric-blog | 2007-09-23 18:09 | ■週5プロジェクト07 | Comments(0)

子どものコミュニケーション障害

198-1(958)子どものコミュニケーション障害
ロラン・ダノン=ボワロー、白水社、2007
原著 The troubles of language and communication of childrenをフランス語にしたようなタイトル。

フランスの言語学者であり精神分析家、そして小説も書くという博識、多才な人が、子どもの言語障害とコミュニケーション障害が、それぞれの専門家によって研究され、障害が特定され、分類され、療法も確立されてきているのだが、しかし、実際の子どもに対する場合、あるいは対する人は、それらの幅広い知識を有しつつ、柔軟に判断を下し、療法を選択しなければならないということを示した本。

しかし、著者が引いているラピンの本も、ディアトキンの本も日本語には訳されていないし、また、フランスの精神運動療法士、言語聴覚士などの制度も異なるため、全体としてとてもわかりにくい、というのが感想。人間に現れる障害のことであるから、共通性があるのだろうが、逆に障害にどのように対処していくのかには、大きな社会的な違いがあることがよくわかる本である。

第一章 子どもの言語獲得の主要な段階
から始まり
第二章 障害の分類
第三章 臨床検査
第四章 治療
という構成は、著者が子どもの治療現場に当たる人のために編んだだけあって、とても親切だ。

赤ちゃんのコミュニケーションの様式が、まず表情と視線による情動的コミュニケーションに始まり、続いて身振りによる意図的コミュニケーションが現れ、そしてことばによるコミュニケーションが始まる。19

著者は言語獲得にいたるこのプロセスを用いて、言語障害を非言語的コミュニケーションを含むコミュニケーション一般、そしてそこにある人間関係や環境などと切り離して対応しようとすることの危険性を指摘している。

子どもの言語獲得は全的なものなのだと。

治療方法のところでも、まず子どもに非言語的コミュニケーションでもまわりの理解は得られることの確信を持たせることの大切さを説きつつ、次の原則を挙げている。

子どもの自由にさせ、いろいろな活動を提案する。より複雑な行動に自ら移れるように。繰り返しの原則。安心につながる。
節約の原則。多くのことばを使わず、言葉と行動や変化や影響、結果などとの関連性を確立する。少量でも適切な言葉を。
そして最後の原則として、すこしかき乱す、変化を取り入れる。

子どもに障害がある場合、親はどう対応していいかわからず、混乱する。そのために通常であれば、「母親語」マザリーズのようなイントネーションを強調する、ゆっくり話す、簡単な言葉だけ使って繰り返すなどの行動がとれなくなっているケースもあると指摘する。普通の子どもにとって有効な対応は障害がある場合でも同様なのだが、子どもの反応や発達の違いによって大人の方が影響されているのだという。114

母子一体型治療というのが、日本でも行われているのかどうかわからないが、著者がしめくくってるように、たった一人の治療者がかかわって子どもが本当によくなると考えるのは絵空事である。複数の人々が対話しながら長年にわたってかかわっていくことが、治療の通常の姿なのだということばは重い。
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by eric-blog | 2007-09-23 07:40 | ■週5プロジェクト07 | Comments(0)

いま、そこにいる良寛

197-7(957)いま、そこにいる良寛
北川フラム編、ニューにいがた振興機構、表参道・新潟館ネスパス監修、現代企画室、2004

関川夏央さんがらみで引っかかってきた本。紹介する気もなく読んでいる本が、週5のノルマを果たした後には増えるのですが、読んで、とてもいい気持ちになれたので、いい本かなと。良寛さんを紹介するのに、この本でなくても、と思うのですが、他には読んでいないので。まさか、『良寛』で町おこし、良寛の商業化、なんてこすいことを新潟も考えているわけではないだろうと。でも、難しいところだね。商業主義とはなんなのだろうかと。

17歳で出家し、諸国をうろつき、47歳で新潟に戻り、国上山の五合庵に十年ほど住み、貞心尼というつれあいを得て、73歳で亡くなった人。

良寛の作品が残り、そして広まったのも、貞心尼がまとめた働きが大きいという。

読書家で、博識なのだが、それはすべて人から借りて読んでいて、庵には一冊の本もなかった。すべて借り物。
作った歌のほとんどは「無心」のための、いわば托鉢歌であった。
和歌というのは「和する歌」なのだ(と、これは大岡信さんの言)、人と飲んでいるときに、やりとりのようにして、歌った。

愛語と云うは衆生を見るにまづ慈愛の心を起こして顧愛の言語をほどこすなり およそ暴悪の言語なきなり

中国戦線で「愛語」の世界を実践し、徴発もせず、弾も撃たず、なぐりもせず、死んでいった北川省吾。その兄、北川省一が語る弟の姿。「戦争はいけないことだ。しかし、いまこうして戦い合っている人々の中には、一人もいけない人はいやしない。ただ戦争だけがいけないことだ」27

焚くほどは風がもてくる落ち葉かな

長岡藩主から請われたときに歌った歌らしい。

種田山頭火といい、相田みつおといい、法師という生き方がある社会っていいなあ、と徳島の巡礼文化に育ったわたしは思うのです。肩の力が抜けてね。それでも時代は続くのだよ、と。
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by eric-blog | 2007-09-21 09:02 | ■週5プロジェクト07 | Comments(0)

中空構造日本の深層

197-6(956)中空構造日本の深層
河合隼雄、中央公論社、1982

7月19日の訃報に接して、梅棹忠夫さんが「中空の理論がすばらしい業績だった」とコメントしているのを聞いて、「母性社会日本の病理」を貢献と考えていた不明を知り、読んでみることに。

1976-81年に書かれた評論をまとめたもの。


日本の神話には母性原理、父性原理、山と海、火と水、天と地、高いもの低いもの、のような対概念に加えて、必ず三人目(いちばん最初に出現することもある)の神があり、それは無為の神なのだという。「中心が無為である」中空の理論というわけである。33

34
唯一の中心と、それに敵対するものの存在という明白な構造は、ユダヤ教の旧約における神とサタンの関係に典型的に示される。

35
西欧のシンボリズムにおいては、男性-太陽-精神-能動、女性-月-肉体-受動、といったような対応的に二つの軸によって、あらゆる事象が秩序づけられる。

それに対して日本の神話の中では、どちらかが完全に善であったり中心であったりと規定されることはなく、その関係は適当なゆりもどしによって、バランスされるという。

「微妙な混合によるバランス」と「無為の大切さ」それが中空の理論の根幹である。

無為というのは、当たり前、普通のこととも関連付けられている。無作為であるかもしれない。

繰り返しながら、バランスしながら、永久に中心点に到達することのない構造。40
正反合に止揚するのではなく、正と反の中空巡回形式の円環構造。統合の論理ではなく、均衡の論理。
中心はその時々の投影によって中心と錯覚され、熱中するが、投影は時空とともにうつろう。

さてそのような精神構造の深層を持つ日本の危機とは、「父権復興論」である。西洋的な父権を想定することは、中心による統合へのあこがれでしかない。そんなものは日本にはなのに。

西欧の父性とは、「切断する」「対象化する」「部分を把握する」つまり、明確な概念を確立し、それらの関連を合理的、論理的に把握する自然科学を発展させた思考法の強さである。

日本的な父性、大和魂、などを中心にすえることは、低劣である。

さらには、日本の天皇は無為のバランサーとして機能してきたのだ、とも。62

いまの日本に見られる暴力や無気力に対して、強力な父性が求められているように思う。しかしし、それは日本的父性ではない。西洋の父性は中空構造そのものを脅かす。わたしたちに、そこまでの覚悟があるのか、と河合さんは言う。

「それではどうすればよいのかとなると、そこには明暗も近道もない」60

「言語化することを嫌い、非言語的了解によって全体がまとまっていく」そんな日本がどうすれば自分を「意識化」することができるのか、それは「西洋的な父性にジャンプするのではなく、日本人としてのわれわれの全存在をかけた生き方から生み出されてきたものを、明確に把握してゆこうとすることである」64

笑ったのは、次の一文である。

「われわれは知的な面にある程度の限定を加えるとき、西洋人と同じ位の物言いはできるのである」そうではなく、「自分の存在のなかから生まれ出てきたものを言語によって表現してみせること」「日本の現状をともかく的確に把握する。」64

知的限定の中で、わかったようなことを言っている学問がどおりで役に立たないはずだ。
2002年から2006年まで文化庁長官。『心のノート』は、わたしが心底がっかりした仕事だった。心理学という知的限定のある中でのご判断であったのだろうなあと、内容ではなく、その普及の方法、運用が問題であっただけに、惜しまれる。

100年はかかる答えを求める努力の中の一つのことさと、ご本人は悟っておられたのだろうなあ。擁護も言い訳も、撤回も、何も明確なことはないまま、いまはどうなっているんだろうか。2002年7億2980万円, 2003年3億円, 2004年「「道徳教育の充実のための教員養成学部等との連携研究事業」を実施するほか、「心のノート」の作成・配布等や「心のせんせい」として、特別非常勤講師を配置する経費の補助を引き続き行う。また、児童生徒の社会性や豊かな人間性を育むため、自然体験活動等を行う「豊かな体験活動推進事業」を推進する。」ための予算1,069百万円に含まれるところまでは、チェイスできたのだが。

『こころのノート』を配布するくらいなら、『レッツ・コミュニケート!』を中学生に配ってくれっちゅうんだよ。あややや、文部科学省が配布したら、それだけで問題が起きると思ってるだろうから、羹にこりて膾をふいているんだろうなあ。

矛盾と無為、空を耐え忍ぶ力というのは、次郎物語のテーマの一つだったかな。

昨日の「すごい人」特集
・ヘレン・ケラーの来日時に通訳をし、教員になった人
・「マザー・テレサ」が貧乏をくれた、ハングリー精神を培ったという写真家
・アラン・ドロンを治療した針灸師がそのことを最近になるまで漏らさなかったこと。
が印象にのこった。
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by eric-blog | 2007-09-19 12:09 | ■週5プロジェクト07 | Comments(0)