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マルコ・ポーロの見えない都市

193-3(929)マルコ・ポーロの見えない都市
イタロ・カルヴィーノ、河出書房新社、2000新装版、1977初版
LE CITTA INVISIBILI, 1972

著者は1923年生まれ。ナチスに反対するパルチザンに二十歳の時に参加し、その経験を記した小説『くもの巣の小道』で世に出た。

知の共時性というのを、最近よく感じるのだが、この本を読んでいると「既視感」にとらわれる。文体がアーシュラ・ルグウィンのChaging Planesを思わせるし、マルコ・ポーロがフビライ汗に世界の都市を物語るという形は『東方見聞録』を下敷きにしている。そして、「空間の寸法と過去の出来事」によって形づくられる都市というものは、その可能性が無限のようでいて、どこかで他の都市を模倣していて、回廊が巡り、中庭の噴水に乙女が水浴びし、丸屋根が何棟も天を指す風景が繰り返される。

そもそもが、この本の初版が1977年で2000年に新装版で出ているのだ。

フビライ汗は、拡大しつつある帝国の一隅にあって、訪ねたこともない都市都市のことをマルコから聞きながら、地図と歴史書があれば、その都市の在り様を、見てきたマルコと同じように語れるよ、と挑戦する。マルコは「語られる都市は過去であり、求めようとする都市はいまだ存在しない」と。

これは小説なのだ。

わたしはまた東方見聞録の現代的な書き直しが、引用されていたのかと思っていた。まさにChanging Planesだな。社会学の本を読んでいたと思っていたら、引用されていたのは小説だったという。まさしく時空、領域・分野を超えた知の共時性を感じる出来事だ。

読みながら、それぞれの都市が「学問・科学」に思えてきた。それぞれに経済があり、政治が行われ、人々が行き交い、交易し、都市が元気で、魅力的であれば発展し、隆盛な都市に戦争を仕掛けられ、支配され、しかし、そこにも過去をとどめつつ、人々が活動をわびしく続ける。打ち捨てられたとしても、考古学者が訪ねてくるのだ。考古学者を案内することを生業とする者は、このうち捨てられた都市にとどまった者かもしれない。都市を大局から見下ろすことだけが、都市の楽しみではない。忘れられたような小道や、裏街道なども存在するし、存在は人々が求めるからなのであり、そこに何らかの活動があるからなのだ。

過去も未来もその中に含んでいる都市という存在。

確かに村とは違う人間の存在を可能にするな。
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by eric-blog | 2007-07-31 06:20 | ■週5プロジェクト07 | Comments(0)

ヒト、人、人間 われらはどこから来てどこへ行こうとしているのか

193-2(928)ヒト、人、人間 われらはどこから来てどこへ行こうとしているのか
東京大学公開講座、東京大学出版会、2002
Being Human The History and Future of the Human Race

2001年に行われた10の連続講座の記録。ゲノム、化石、デジタル技術、人工臓器、脳、心、人間観、ネットワーク社会、インド思想などの視点から、それぞれが人間と人間の歴史とこれからを語ろうというわけである。

昨日紹介した平田オリザさんの本にも、河合隼雄さんがゲラダヒヒについての調査結果をとても楽しげに教えくれたというお話があった。ゲラダヒヒというのは、種としてはヒトから遠いサルなのだが、チンパンジーなどよりもコミュニケーション能力が発達しており、お互いになだめる、機嫌をとり、あやす、というようなあいまいな、しかし、関係性をよくするコミュニケーション・スタイルを持っており、そのため、違う群れが出会っても、平気で同じ餌場で給餌できるのだという。

ゲノムの遠近だけではないものが、そこにある。

2500年前の春秋時代の漢民族大移動が、日本の弥生時代の引き金になっていたのではないかというのは、おもしろい。これは、2500年前、2000年前の漢代、そして現代の人たちのミトコンドリアDNAの分析から求められた結果である。23

顔学は、コンピューター処理によって数10点を結んだ顔の骨組み構造を、写真など過去のものについて再現し、近似的データを得て、比較する画像処理から発展した学問だ。明治時代から日本人の顔がどのように変化してきているか、将来どのようになるかについて研究が進んでいる。らしい。未来の顔は、中村しゅんすけに似ている気がするんだよねぇ。近似的に。画像処理はもともとテレビ電話が目的で始まったものなのだが、工学部の枠を超えて心理学、人類学、メイクなどの研究者との交流が、広がって顔学となったらしい。研究のおまけで「顔訓13か条」90
・自分の顔を好きになる・見られることで美しくなる・ほめらけることで美しくなる・目と目の間を広げよう・左右対称の表情を心がける・心置きなく笑おう・いい顔は伝わる
など。

ほんとに、人間て「伝わる」んだよね。

人間性の起源の研究では、ここ数万年は心の基本デザインは人類に共通に共有されているという。171
古環境と現代環境のずれによって起こる「誤作動」「機能不全」があるのだという。

「小さな村であれば、一番がいて、自尊感情が満たされたが、社会が広がると人生の目標が達成不可能なものになる」

誤作動ばかりではない。適応し、変化してきているものもある。

人間がどのような存在であるかを知ることで、これからのよりよい社会を築く上での原則が共有できるだろうと。

自立し、結び合い、個と社会という矛盾する二つの目標を、わたしたちはどのように達成していこうとするのか。

寿命革命、老年学というものも、これからの時代を考える上でのキーワードなのだそうだ。

人生五十年であれば、もう終わっているのだが、いまではやっと道半分と言われている。60歳定年というのは、やっと寿命の半分という時代がもうそこに来ている。
会社人間以外の社会との多様な交わりの力が求められるのだ。

名古屋に研修に行ったとき、「労働時間の長さと生活の満足」について、「11時間までであれば、労働時間が長ければ長いほど、満足感が高い男性」「0時間を頂点として、短ければ短いほど、満足感が高い女性」という結果だったと聞いた。男性は仕事、女性は家のパターンを男女ともに支持している結果だと読んだ?

いまだに、女性が満足感をもてない働き方を強制されている日本社会が浮き彫りにされている。

100年生きるとして子育て期は20年、人生の5分の1でしかない。それ以外を「家守」として生きるのか? ウサギ小屋の? 地域活動はどこを向いているのか?

これは温泉、女風呂で聞いたハナシ。熟年二人連れ。「男の人も働いているときはいいけれど、生活を共にするようになるとねぇーーー」!!!!????
定年まで、いかに夫婦が生活を共にしていなかったかということを端的に表しているね。
どこにも答えはない。自分で考え、選び取ることだ。
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by eric-blog | 2007-07-30 08:22 | ■週5プロジェクト07 | Comments(0)

対話のレッスン

193-1(927)対話のレッスン
平田オリザ、小学館、2001

1997年から2000年にかけて連載された「21世紀との対話」の単行本化。海外青年隊に参加するという方たちに、ぜひ訓練所で寸劇などを通して学びあいを進めるといいですよと、『死に向かう援助』テッド・トレイナー、『ら抜きの殺意』永井愛、などと並んで、『もう風は吹かない』を紹介した。平田さんの作品だ。進めた手前、脚本が入手できるのかどうか心配になってチェックした。図書館では見つからなかった。どうしよう?

この本は戯曲ではない。対話についてのエッセイだ。井上ひさし氏の話し言葉の分類に触発されて、著者は次のような「話し言葉地図」を作っている。9

演説、談話、説得・対論、教授・指導、対話、(挨拶)、会話、反応・叫び、独り言

意識的      ⇔     無意識的

という並びだ。その中で「不特定少数」の「他人」との間でも「公共的な空間」での「多少とも時間の長い」、「共感」にいたる「対話」が日本人は苦手なのだという。この本をまとめたときはすでに21世紀。単行本のタイトルも「21世紀との対話」も色あせたと、変更。

全体として「言葉の普遍的な正しさなどない」「言葉は常にうつろいゆく」という主題と、新しい言葉遣いや傾向、変化に対して肯定的なトーンが貫かれていて心地よい。さらに、戯曲家らしく、実例をセリフで示してくれるのでわかりやすい。

日仏の戯曲演出交流などでは、もっと対立的な場面が語られるのかと思っても、ごく一般的な演出の違いに終わっているのは肩すかし、かな。対話は上手いが、対立を表現するのは苦手、前向きに前向きに考え、表現してしまう人なのだなと感じた。

対話とはコンテクストのすり合わせなのだとする著者にとって、いい役者さんとは
・自在にコンテクストを広げられる人
・著者自身に近いコンテクストを持っている人
・不思議な、独自のコンテクストを持っている人
であるという。

演劇が、これからの対話の時代と社会を元気にする。

と著者は言う。子どもとのワークショップでは、子どもの言葉やコンテクストをありのままに受け入れつつ、止揚していく。共通の普遍、よりよいものへと至る、そのプロセスが楽しいのだという。参加型学習やワークショップもまさしくその通りなのだと思う。

鈴木孝夫さんの『ことばと文化』、井上史雄さんの『敬語はこわくない』、中島義道さんの『対話のない社会』などが引用されている。読んでみよう。
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by eric-blog | 2007-07-29 08:57 | ■週5プロジェクト07 | Comments(0)

ポリアーキー

192-3(926)ポリアーキー
ロバート・ダール、三一書房、1981
Polyarchy, 1971

民主主義とのどのような時に成立するのか。

この根本は多様な組織化にあるというのがpoly複数のarchy統治という表題の主張だ。

参加がInclusiveであることと、公的異議申し立てが、民主化を測る軸として提示されている。11

完全な民主主義というのは存在せず、ポリアーキーに向かう努力が民主化の動きなのだという。

わたしが「参加の文化」として次の三点

・より包括的な参加inclusiveness
・対等な問題提起equality
・問題提起を受け止めるprocess thinking

などを言ったり、考えたりしているのは、「日本社会の○△□」がきっかけだった。その反対を考えてみたら、人権のキーワードに出会った、という感じだった。

「人は複数の所属を持つ時、自由である」
「どこかに所属することで、アイデンティティを獲得できる」

この矛盾する自由と所属の問題に対し、ダールは、重層的な組織を考えたのだと思う。

さらに、ポリアーキーが効果的な政治参加や異議申し立ての機会を増大させる。18

さまざまな組織が参加している「組織的社会」がポリアーキーである。市民団体もその一つだ。

この本は、コミュニティの消失が言われているいま、改めて確認すべきものなのだなと、思った。
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by eric-blog | 2007-07-28 08:39 | ■週5プロジェクト07 | Comments(0)

日本村100人の仲間たち

192-2(925)日本村100人の仲間たち
吉田浩、日本文芸社、2002

『世界がもし百人の村ならば』は、ERICの出版物である『ワールドスタディーズ』に原型がある。それが、インターネットで物語として話題になり、そして絵本も出され、というあれよあれよの展開にはずいぶん驚いた。ワールドスタディは1984年の出版物なのだから、いまのわたしたちの情報は、リニアに蓄積したり、発展したりするのではなく、つねに共時的なものになっていることを実感しました。

ということは、「大切なことは何度でも」「メディアを変えて」「繰り返す」ことも、メッセージを発信する側にとって大事な事なのだとも思います。

そこから、こんな発展もありました。というのがこの本です。

『世界・・・』と異なり、ちょっとシニカル。

例えば「日本村の「おきて」」52-53
Yes, Noははっきり言うな。他人の眼を気にしろ。マニュアルどおりに行動せよ。宗教はつまみぐい。本音と建前。均一、標準、平均的になれ。 など。

いいところも、悪いところも、見つめて、「愛すべき日本村」の住民たちに、「世界村の一員でもあることを忘れずにしようと、呼びかけています。

さらに発展系の100人ものの中で秀逸だったのが「博士が100人いる村」です。
http://www.geocities.jp/dondokodon41412002/

バウマンが指摘していたように、いまの若者の間でうつが増えています。博士の1割近くが「行方不明」というのも、なんだかすごいハナシです。

わたしたちはもっと人間にとって居心地のよい社会を作る力と賢さがあるはずです。問題があるということは、逆説的にわたしたちの賢さを示しているのですから。
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by eric-blog | 2007-07-25 21:55 | ■週5プロジェクト07 | Comments(0)

廃棄された生 モダニティとその追放者

192-1(924)廃棄された生 モダニティとその追放者
ジグムント・バウマン、昭和堂、2007
Wasted Lives, Modernity and its Outcasts

英語のニュアンスは、「無駄にされた」に近いと思うのだが、「廃棄物」という意味でのwastesとして使われている。またoutcastというのは、まさしくカースト制度外の存在ということで、近代が階級社会であることを端的に表しているのに対し、「追放者」というのはまた別のイメージをかもし出す。

『見えない都市』からの引用で始まっているが、それはそれぞれの存在が「異邦人」の目から初めてその特徴がわかることの象徴である。

いまや「地球は満杯」であると言われているが、それは「入植と開拓」の対象となる領域の消失のことである。そうした場所は近代の「人間の廃棄物」の投棄場所として重要な役割を果たしてきた。8

wasted humans

これがこの著書のキーワードである。

問題の表れとしては「うつ病」の若者が、増えていることから、第一章は展開する。「学位をもった若者でうつの傾向がない者は三分の一である。」16
「リキッドなきんだいに種差的な」不快であり苦痛17

若者にっての「仕事」の位置づけは、
・えり好みするな
・フレキシブルで
・多くを期待しないこと
・疑問をさしはさまず、そのまま受け止めること

前近代からの産業として鉱山業が「廃棄物なし」では想像もできないものとして、比ゆ的な比較がされている。37

わたしたちは、鉱山業を人間について営んでいるのではないか、と。

近代的精神は「世界は変更可能である」という観念とともに誕生した。40

わたしたちはどのような世界を設計するのか?
できるのか?

課題は、「廃棄物化」されていくものとしての痛みから救い出すことなのだと。
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by eric-blog | 2007-07-24 07:01 | ■週5プロジェクト07 | Comments(0)

レイプ・クライシス この身近な危機

191-7(923)レイプ・クライシス この身近な危機
東京・強姦救援センター連続講座、学陽書房、1990

どこがきっかけでこの本を予約したのか、もう忘れ果ててしまっているほど、待たされた本。北区には蔵書がなく、荒川区からの相互協力貸出本。永久保存、廃棄しないこと、と厳重注意書きがある。すごっ。

東京・強姦救援センターは1983年設立とhttp://www.tokyo-rcc.org/center-hp-home.htmは言う。相談カウンセラー講座も開催している。

この本は、設立五周年記念連続講座の記録であり、強姦についての理解を共有するためのとてもよい構成になっている。

第一回ポルノは女性への暴力だ
第二回女性にとっての性的自由・自立
第三回つぶせ! 強姦神話
第四回ハードでもソフトでもレイプはレイプ
第五回女のからだを取り戻そう

第一回の講座資料はサンフランシスコのWAVPM Women Against Violence in Porno and Mediaのものをもとにレズビアン・フェミニスト・センターが1981年に製作したものを使っているとのことだが。
ポルノの語源は売春、エロスは愛。性愛とポルノは違う。
そして、問題は、ポルノが性の代替になっており、それ以外の性についての情報が少ないということ。最近でも、東京都では性教育に対する抑圧的な風潮があるのに、わたしのメルアドに来る売春的ジャンクメールは減らない。社会的な意志の方向がどこかおかしい。
この後、セクシャルハラスメントの問題、DVの問題が社会的に共有されるようになり、性および性的な関係を取り巻く暴力の問題についての理解は進んだ。では、「強姦神話」「ポルノ万歳」「歌麿オッケー」などのヒドンメッセージが飛び交う社会の中で、どのような教育が求められているかなのだと思うのに。

あせる必要はないが、しっかり考えていく必要がある。
社会のヒドンカリキュラム
・大量消費大量生産
・性はモノ
・尊重される女性の性は子どもを生む性だけ
そんなメッセージにさらされながら成長する自分たちであることから、どのようにすれば解放され、さらには自己実現の道をゆけるのか。
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by eric-blog | 2007-07-20 11:48 | ■週5プロジェクト07 | Comments(0)

マウス アウシュヴィッツを生きのびた父親の物語

191-6(922)マウス アウシュヴィッツを生きのびた父親の物語
アート・スピーゲルマン、晶文社、1991、1994年7刷

Maus: A Surviver's Tale
My Father Bleeds History
(MID-1930s TO WINTER 1944)
the sheik
the honeymoon
prisoner of war
the noose tightens
mouse holes
mouse trap
And Here My Troubles began
(FROM MAUSCHWITZ TO THE CATSKILLS AND BEYOND)
Mauschwitz
Auschwitz (time flies)
・・・and here my troubles began
saved
the second honeymoon


テッサ・モーリス-スズキさんが『過去は死なない』で紹介していた漫画による過去の共有の事例。なんと、北区滝野川西図書館にあった。漫画コーナーが充実している館だったのだなあ。隣に「月館の殺人」などもあって、なぜ? と選択の基準がわからない。

スズキさんは『はだしのゲン』なども挙げていたのだけれど、『戦場のピアニスト』『シンドラーのリスト』、いや『ショアー』ですら、この『マウス』とは違っている。アーティと呼ばれている戦後生まれの息子が、80年代になって、父親にアウシュヴィッツのことをインタビューしようとする、そのことも描きこまれているのだ。

第一巻はアウシュヴィッツに送られないためにポーランド内で隠れ住み続けて、とうとうハンガリーに逃れようとして手配師に大金を払い、裏切られるまで。そして第二巻がアウシュヴィッツ・ビルケナウだ。

第二巻の始まり方が秀逸だ。ユダヤ人はネズミ、ドイツ人は猫、ポーランド人はブタ、フランス人はカエルとして擬人化されて描かれているのだが、アーティの連れ合いはフランス人。どう描くか、で彼が悩んでいるのだが、改宗しているからということで、ネズミに落ち着く。

ポーランドで生き延びるときに、ドイツ人に見える服装をしている時には、猫の仮面を、ポーランド人として外出している時はブタの仮面を、というように、場面場面でお面を付け替えていたりする。ネズミのしっぽが見えているところもあったり。

画面から、そのドキドキ感、緊張感が伝わってくるのだ。

「大人ってみんなああいう風に、うなされながら寝るものなんだと思っていたんだよ」と義父の家に泊まって驚く連れ合いに言う著者。

第一巻の始まりは、「友だち? 友だち同士を部屋にとじこめ、一週間たべものがなかったとしたら、そしたら友だちとはなにか、おまえにもわかるさ」という父と息子の会話の思い出からだ。
そして、第二巻の終わりは「テープレコーダーをとめておくれ、しゃべりは疲れた。リシュウ」・・・リシュウとは戦争中に死んでしまった著者の兄の名だ。

なぜ、アウシュヴィッツを生き延びた母親が1968年、著者が二十歳になったとき自殺したのか、失われた彼女の日記とともに、その記憶は伝えられないままだ。

P.S. 頼むから、図書館の本に、過誤修正を書き込むのはやめてくれ。書くのなら、晶文社に書き送ってくれーーーーーー。で、果たして、これらの過誤修正はその後の刷で変わったのだろうか? 
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by eric-blog | 2007-07-20 08:04 | ■週5プロジェクト07 | Comments(0)

アメリカ憲法は民主的か

191-5(921)アメリカ憲法は民主的か
ロバート・ダール、岩波書店、2003

現在世界にある「発達した民主国家の選挙システム」20カ国と比較して、アメリカの憲法は民主主義のために機能しているのか。どのような政治体制をとったととしても「不確実性」は残るのだと、著者は言う。完璧な間接民主主義など、そのような制度を作ることはできないのだと。そのために、憲法を評価するということは、その機能を評価することによる。著者はその評価基準を次の5つに置こうと提案する。

1. 民主的システムを維持すること
2. 民主的な基本権を保護すること
3. 市民の間での民主的公正さを確保すること
4. 民主的創意の形成を促すこと
5. 効率よく問題解決できるような民主的統治をもたらすこと

スイス、オランダのような異なる下位文化をもつ国における比例代表制度。123
スウェーデンの少数派内閣の歴史。126

著者はアメリカ憲法の欠陥は
・小さな州の拒否権が通る上院制度
・選挙人団
・司法権
などをあげています。22-26

しかし、連邦制、大統領制、選挙人団、不平等な代表制は変わりそうにないというのが著者の見るところです。163-166

実際に、と著者は言う。「アメリカ憲法はほとんど模倣されず、実はほとんど拒否された」200
しかし、世界にもたらした贈り物は、二つあったと評価する。

1. 成文憲法をデザインできる
  批准する
  修正する
  維持する

2. 政治にかかわる生活・信条・文化・制度を根本から形作ることができた

138-139の比較表について、日本がどの程度検討しているのか、知りたいものだ。

日本国憲法にも民主主義の制度としての確実性はない。
日本国憲法を模倣した国はないかもしれない。
しかし、半世紀以上にわたって、わたしたちが世界に示して来れたことは何なのだろうか。

軍隊を持たないこと。
軍隊を派遣しないこと。
軍需産業を拡大しないこと。

その原則にのっとった国際協力

その逆の方向に、どのような未来があるというのだろうか。

すべての銃を自転車に、すべての武器を楽器に。
というような市民運動。

わたしたちが築いてきた実績を、次なるものに発展させていかないのは、「もったいない」。
「もったいない」という言葉だって、モノだけに使ってきたようなもんじゃない。

自分たちを知らないということは、本当にもったいないことだと思う。地球にとっても、もったいない。ありがたいことなのに。
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by eric-blog | 2007-07-19 09:59 | ■週5プロジェクト07 | Comments(0)

謎の古代文様 渦巻きは神であった

191-4(920)謎の古代文様 渦巻きは神であった
大谷幸市、彩流社、2007

縄文土器の模様は縄目文様であり、それは立体的にまきとった縄、あるいは縄そのものをを土器の平面に転がして写して作ったものだと考えられている。

模様は、植物であったり、動物であったり、生物の具象的な意匠と、縄目のような非生物の抽象的な模様に分けられる。そしてアラベスクがそうであるように、抽象的な模様にこめられた「意味」は、神に近づく行為なのか。

著者は、生命誕生の原理「同質でありながら異質の二者の合体によって新しい生命が生まれる」という哲理が渦巻き文様が二つ合体した姿に読み取ります。

鏡を使って、渦巻きを映し出してできる鏡像は、より複雑な模様になり、それは終わりのないメビウスの輪を平面に写し取ったようなものになる。

著者は、土器づくりに、神へ迫ろうとする対話を、見ていたのだと、言います。

アラベスクのように、抽象的なものに魅了され、追及し、意匠化したもの、アステカ、インカのように具象的なものを意匠化していたったもの。

神を想定した時に、人間社会がやすやすと至る限界、陥る美意識とは何なのだろうか。

なぜ、フェニキア文字は、広がったのか。現在の科学的認識にまで至ったのか。

昨日、学生たちに『Contact』を見せながら、「科学という言葉にとって数字、数式ほど確実なものはない」という表現があったことを思い出しながら、わたしたち漢字文化圏のものは、英字文化圏との補完関係によってのみ、成熟しえないという気が、最近しています。まだまだ、考えるべきことは多いですね。
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by eric-blog | 2007-07-19 09:13 | ■週5プロジェクト07 | Comments(0)