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赤瓦の家 朝鮮から来た従軍慰安婦

188-7(903)赤瓦の家 朝鮮から来た従軍慰安婦
川田文子、ちくま文庫、1994

原著は1987年。『戦争と性』そして『授業「従軍慰安婦」』と広がりと位置づけを確立していった道筋の、とっつきにある、一人の女性に対するインタビューを中心に、関係者へのインタビュー、現地の訪問、史資料などにていねいに裏打ちされたもの。

ご本人も、文庫版の後書きに、ポンギさんに出会った1977年は、まだその作業がどこへいくのか、どのような全体像の中に位置づくのか、暗中模索であったという。298

その取材作業の間、出産育児もはさんでいるらしいのが、読み取れて、すごい人だなと。
1972年、沖縄が本土復帰した年、不法在留扱いを受け、特別在留の申請をし、その取調べの過程で朝鮮から連れてこられたことが明らかになった人が、ポンギさんである。「元従軍慰安婦」としての最初の証言者。

小作以下の賃雇いの貧しい暮らしから、28歳、1944年に沖縄に「いい仕事があるから」と連れてこられて、渡嘉敷の慰安所に配属された7人のうちの一人。

この本は、沖縄戦の証言でもある。

1944年3月沖縄第三十二軍新設、8月までに陸軍10万、海軍陸戦隊1万を配備。
1944年9月9日慶良間列島に日本軍入島
1944年10月10日那覇大空襲

1945年3月23日渡嘉敷島への米軍の攻撃始まる
   3月27日渡嘉敷島へ米軍上陸
   3月28日渡嘉敷島村民300名自決

   6月23日沖縄本島戦終結

   6月30日渡嘉敷第三戦隊から20人の投降者
   7月1,2日第三戦隊による防衛隊員や投降勧告にきた村民らの処刑が続く
   7月10日第三戦隊内に「栄養失調死」出る
   8月12日渡嘉敷島で米軍による投降勧告ビラ散布
   8月16日投降勧告に来た少年二人、処刑
   8月26日第三戦隊武装解除

ポンギさんが、那覇に着いたのは1944年11月なのである。システムの一部になってしまっていた慰安婦調達という甘い汁。"帳場"に群がる日本人。中国人は対中戦争の中でスパイになるかも知れず、日本人は割高だ。だからと朝鮮半島に出張っていく「女紹介人」たち。どれほど敗色が濃くなろうが、どれほど海路が絶たれていようが、軍の金の動くところ、利権に群がる日本人たちがいた。ということなのだ。軍でも政治家でも、明確な意思決定者たちでもなく、実働していた日本人たち。日本人の男たち。そして金回りのいい男たちにつるむ女たちも。

その場、その場を生き抜いてきたポンギさんにとって、沖縄も、どこもかわりはなかったのかも知れない。

人がどこかに根を張り、関係を築き、仕事に熟達し、地位や役職が上がり、家族を持ち、子どもを養い育てあげ・・・・・

その根本はどこにあるのだろうか。

戦後も、ずっと定住せず、その場その場の働きで生きてきたポンギさん、
そして、韓国に探し当てたポンギさんの姉もまた、無給の住み込み働きを続けていること。そのことを聞いたポンギさんが言う。「哀れな生まれはこんなですよ」

文字もなく、日本語もわからず、限られた「その場」「その場」を生き延びること。

「識字の暴力」「戦争の暴力」「性の暴力」「国民国家の暴力」「貧しさの暴力」「異文化の暴力」「差別の暴力」・・・いったい何重の暴力が彼女を無力化させたのだろうか。

定住し、定着したところで、最底辺に位置づけられ、搾取されるのであれば、直接的な搾取だけでも逃れて、さすらうほうが、安心だということか。

彼女たちが聞きたいのは「暴力」に対する反省と、すべての暴力をなくすために努力するという社会的な合意と決意なのだと思う。それがどんなに果てしない目標であっても、だ。

沖縄の人は親切よ

同じ痛みの何分の一かは共有している沖縄、だからなのだろうか。この言葉は救いなのか。ちなみに「赤瓦の家」とは、慶良間列島に配備された慰安所が、部落はずれの比較的大きな民家を接収して設置されたところから、だ。
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by eric-blog | 2007-06-30 20:11 | ■週5プロジェクト07 | Comments(0)

子乞い 沖縄 孤島の歳月

188-6(902)子乞い 沖縄 孤島の歳月
森口豁、凱風社、2005

尾瀬あきらの『光の島』の原作がこれだったのだ。ビックコミックオリジナルで連載されていた、あのはじけるような光たちの姿。なんと忠実に描かれていたのだろうか、とシーン、シーンを思い出しながら、読み進めた。絵よりも、苦みが残る内容なのではあるが。
森口さんの本を探したのは、森達也さんが沖縄の映画祭で、ドキュメンタリーを見た。その製作者が森口さんだったと書かれていたのを読んで、『非武の島』『最後の学徒兵』などを借りてみたのだ。硬派のジャーナリスト、なのだな。この本も40年の島通いの結晶だ。初版は1985年、増補改訂版は1999年、そして新装普及版が、いまわたしが手にしている美しい珊瑚海ブルーの装丁のものだ。わたしは見ていないが、『瑠璃の島』がドラマ化されたもののタイトル。子乞い、じゃあね。暗い? からかな。

この実在する光の島は、鳩間島といい、西表島にもっとも近く、石垣島に40キロ程度。沖縄県竹富町。
薩摩藩に支配された琉球府からの厳しい人頭税に喘いでいた八重山諸島では、「島分け」という分村によって、本村の人口を維持することが行われていた。鳩間島も1702年、そのような島分けの結果として生まれた。中央政府の恩恵など、何もない場での厳しい税とは、何なのだろうか。

森口さんの物語は、沖縄本土復帰から10年の1982年ごろ。人口減と公共サービスの相次ぐ打ち切り(病院がなくなる、郵便局がなくなる、駐在さんはいない?)、小学生一人だけという状態で、学校の存続すら危ぶまれる状況。

一人の里子を引き受けたところから、島暮らしを子どもの最良の育ちの現場にまでしていく試みが始まる。わたしは、子どもが小中学校くらいの時に、田舎暮らしを体験するのは大賛成なのだ。18歳くらいをボランティアとか、徴兵して、なんて意見を言っていた人もいたが、できれば、すべての子どもたちに、一年間の里子体験を、とまで思う。誰が世話するんだ? 鳩間島では70歳代の里親もいたというから驚きだ。里が子どもたちを引き受けられないようになってしまったら、本当に、故里は失われることになるのだろうなあ。すごいネーミングだね、「里子」というこの概念。

いま、中学校も復活し、子どもたちは11人を数えるまでになったと、追記にいう。小学校を救った通事勇生さんも、30歳になるのだ。

日本全国高齢化少子化人口減状況の中で、地域をどのように維持するかは共通の課題ではあるが、離島の強みと弱みをどう活かすかなのだろうなあ。

本土からの中学生が「島はせまいが、ひろい」と感想を述べた。その感性に感心したと。264

一人ひとりの生がひろびろと展開する場所であり続けることが、いまの自由主義資本主義の下での、特に都会では、とても難しくなっている。そんなことを感じ取って、鳩間を選んでくる子どももいるのだなあ。
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by eric-blog | 2007-06-30 09:53 | ■週5プロジェクト07 | Comments(0)

ジェンダー白書  女性と経済

188-5(901)ジェンダー白書  女性と経済
北九州市立男女共同参画センター"ムーブ″編、明石書店、2007

アマゾンではないけれど、「こういうところに寄付している人は、こんなところにも寄付しています。」情報が流れているのか、最近、国境なき医師団とユニセフから、ダイレクトメールが立て続けに届いた。住所や連絡先の出所がわからないのに来るダイレクトメールは、無視することにしている。仁義にもとる輩だと思うからだ。流出させた側もわかれば、お付き合いをやめたいぐらいだ。

とはいえ、昨日も事務所でその話をしつつ、わたし自身がいつから「10%クラブ」のようなことをしているのかをりかえってみた。『市民による海外協力白書』のときのインタビュー経験からかなあ。シャプラニールの徳永さん、アムネスティの恒成さん、AHIの池住さんなどを知ったのもこの本がきっかけだ。ERICとしてもそんな本を出してみるのもおもしろいかもね。めざせ! 満点アドボカシー社会の原点は、こんなところにもあった。

もう一つ、昨日再発見したのが「未来のシナリオ」だ。なんとヘーゼル・ヘンダーソンがParadigm in Progressで紹介しているのはカナダの研究所のもので、1978年だ。大きく「もっともっと」の社会か「ちょっとちょっと」の保全型社会かという選択肢が出されている。最保全型社会を「仏教的社会」と名づけているのも、あの時代ならではだなあ。いまどき、どこの仏教国だって、開発にやっきのところのほうが多いものね。いまさら、こんなネーミングをする人もないだろ。

わたしが大学院生の頃、世界はどんどん賢くなると信じていたのもむべなるかな。だって、次々とすばらしいビジョンが展開していたのだもの、これに限らず。安全な食、原子力に代わるエネルギー、教育の人間化、内なる国際化、Yes! Peace!、グリーナムコモン。
80年代、90年代はどこに行ってしまったのでしょうか。いまどき、持続可能な社会のビジョンとは、だってさ。ちょっとかなしい。

遅れてきた定着民のように、1995年に開所したムーブ。決して「先鞭」ではない。言ってみれば、バックラッシュと戦う基礎体力づくりに貢献した組織だ。雇用を生み出したという点で、そしてアジアとの連帯を強く打ち出した北九州にあったという点で。

これが五冊目のジェンダー白書だ。

女性の貧困率は、「高い租税収入と高い公共支出に立脚するマクロ経済政策」をとっている国においてこそ低いことが証明されつつある、とダイアン・エルソン(代案得る村と変換された。)だからこそ、課税と支出についての意思決定に市民参加する財政民主主義がいま求められるのだと。65-66
「財政民主主義のシステムでは、予算過程が透明で、説明責任が果たされ、市民参加型であり、あらゆるタイプの市民が対等な発言権を持つ(Bakker 2002)」なのだそうだ。いまやっている仕事で「女子ども」に対するすさまじいまでのバッシングと排除の論理にさらされているだけに、ためいきが出る。それをやっている本人はそれに気づいていないということが、また空恐ろしいのだが。いつか、気づかせてやる。その時になって、自らを知って青ざめろ。てやんでぃ。

大崎麻子さんは、「ジェンダー予算」という考え方を提唱しています。これもおもしろい。といっても、その考え方自体は前出のダイアン・エルソンなんだけどね。

しかし、いちばんおもしろかったのは、育児休暇を巡るシナリオかな。「市場の中のお母さん」松井彰彦。228-244

市場にスークと読みが振ってあるのだが、何よりおもしろかったのは、「子育て支援センターというところに行ってきたんだけどさ、あれは母親が行くところだね。・・・男親は・・・まるで村八分にあっているみたいだ。」231

というのなら、オンナを排除する男社会の「村八分」感を思い知れ、というのだ。が、これで気づいたのかどうか。心もとなく、ハナシは進む。え? 大団円? ないないないない、ないないな。男がサイエンスライターとして新たなジャンルを獲得して終わるのさ。

その他、「自由から尊厳へ」など、いい感じなキーワードがたくさん。白書とは言え、論文とインタビューと座談会と、と盛りだくさんな構成。図書館で借りるんじゃなく、買った方が良さそうだ。

個人的にも社会的にも、よりよく生き続けるために、基礎体力と基礎学力は大事だ、と思える内容だ。
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by eric-blog | 2007-06-29 09:46 | ■週5プロジェクト07 | Comments(0)

本が死ぬところ暴力が生まれる 電子メディア時代における人間性の崩壊

188-4(900)本が死ぬところ暴力が生まれる 電子メディア時代における人間性の崩壊
バリー・サンダース、新曜社、1998、2005年第7刷

A is for Ox, 1994 という原著のタイトルは、Aという文字がフェニキア文字では∀アレフで牛という意味。文字を実態概念につなげること、声を取り戻すことが大切だという主張だという。

しかし、著者の主張はゆらいでいて、はっきりしない。
確かに電子メディア時代の「現実感」のなさ、そして「受身」、読書からの逃避については第四章で、そしてその結果については第五章で扱っている。そしてそれは「識字」が分離するという機能の故に起こりえることなのだという。

そして、第六章からは母性へ、第七章の家族へと、実態概念に近いところから、やりなおそうと、結んでいる。

原著においても、著者がどこまで、どのように無文字文化を大切に思っているのか、了解できなかった。すぐに電子メディアの批判に移行してしまうから。

改めて、日本語でも読んでみて、どこが違和感であったのか、はっきりした。

教室をもう一度人間の声で満たすことによって、教室を生き返らせること
現在の読解教育の束縛を打ち破らなければならない。292

その通りなのだ。しかし、その前の
「教師は、かつてはおとぎ話や神話を物語ることによって・・・
教室は教師の声というシンプルな道具の魔術によって・・・
教師は物語を覚えていた・・・」

ここだ! 日本語にするとはっきりと違和感が感じられるのは。
日本の学校文化には、公式的にはなかった機能だ。

識字、文字が人間の賢さではない。
アルツハイマー病についての知識を、わたしの母はラジオから得ている。「脳のための糖分をとらんといかんねんて」と知識の応用的結果、行動変容についての情報も、きっちりと把握している。しかも、「医者が不勉強で、ダイエットばかりさせるから、脳をだめにしてしまう、と怒ってたで」とラジオの講師の怒りにも共感しつつ。

大学を無文字のままで優秀な成績で卒業したマクスウェルの逸話。
漢字文化では、この事例は存在し得ない。

英語を読んでいて、何週間かかってもわからなかった違和感が、日本語という文脈に置き換えて、あたらめて読んでみると、わかることもある。英語で読んでいるということは、その文脈を受け入れてしまっており、その文脈そのものの食い違いに対する想像力を働かせるのは難しいということもあるのだな。

5刷とずいぶん売れている本なのはなぜだろうか?
そして、そこからどのような議論が日本では展開されているのだろうか?
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by eric-blog | 2007-06-28 07:46 | ■週5プロジェクト07 | Comments(0)

環境交流箱!

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by eric-blog | 2007-06-26 13:19 | □研修プログラム | Comments(0)

擬態 鳥と虫 参考図書

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188-3(899)昆虫 ミ 大きくなれない擬態者たち大谷剛、農文協、2005

おもしろい!  
「鳥と虫」を翻訳して、参考図書の洗い出しをしていたら、昆虫について、こんなわかりやすい本が出ていたとは!

昆虫は、成長できない。外骨格は成長が遅いのと、気管系呼吸は大容量には不適だからだ。手のひらサイズが限界。18, 23

結果、「食べられやすい」という不利を背負い込むことに。24

大きくなれる四つ足動物(両生類以上の脊椎動物)の餌にかたっぱしからなりながらも、小ささを利点に、空中へと逃げ場所を求めた。26

変態をしなくなった状態を成虫というのだが、外骨格の寿命はそれを構成している細胞の寿命である。そのために細胞の死亡が成虫の寿命である。42

昆虫が脊椎動物、植物、そして鳥を育てた。24, 29, 46

まさに、地球は、細胞が生き延びようとするときに、さまざまに変化してきたその姿としてあるのだなという実感。

海で言うと、オキアミとか、プランクトンなどが、がんがん生まれ、がんがん喰われ、がんがん死んで海底にたまり、また湧昇流がまきあげる栄養によってがんがん増えるというのに印象が似てきた。

とはいえ、その多彩で多様、変貌自在な奇策あふれる世界は、たくさんの昆虫学者たちを引き付けて止まないのだろうなあ。この著者自身は、北海道大学の蜂小屋で9年間暮したのだそうだ。

その他、この「鳥と虫」のアクティビティにはこの本は必携だ! [写真はここから]
■擬態生物(カムフラージュ)の世界、マルコ・フェラーリ、新潮社、1994
原著Colors for Survival ミ Mimicry and Camouflage in Nature, 1992
[色彩はなぜ、どのようにして存在するのかについての本。カラー写真満載の大型本]
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by eric-blog | 2007-06-26 13:06 | ■週5プロジェクト07 | Comments(0)

地中海  Ⅰ環境の役割

188-2(898)地中海  Ⅰ環境の役割
フェルナン・ブローデル、藤原書店、2004

山と平野の関係、陸と海、山と都市、陸路と河川と海路のつながりなどの興味深い視点から、地中海を三つの歴史の層から描いたもの。
第一部はほとんど動かない歴史、人間を取り囲む環境と人間との関係の歴史。
第二部は緩慢なリズムを持つ歴史。社会の歴史。
第三部は、これまでの歴史でも取り上げられてきた個人の次元の歴史。
この本はその第一部。環境。

ブローデルは、歴史に対するこの重層的なアプローチと、国家主義を超えたことによって、大きな影響を与えた。ウォースタインの「世界システム」の考え方にも影響を与えているとも、言われる。

収録されているウォーラースタインによる解説では、構造、変動局面、出来事の三つの時間性に対するアプローチなのだと。そして、プローデル自身が「変動局面の人」なのだと。

初版は1949。この翻訳書は1966年版を元にしている。それ以降の版には大きな改変はなかったからとして。

そして、その時期こそが、ウォーラースタインの言う「あの1945年から1967-1973年にいたる特別な変動局面」に合致するのだ。

民族誌、地理学、植物学、地質学などの文献を参照しながら書き上げられたものなのだが、著者はそのような個人作業ではだめなのだと言う。二十人の歴史研究者が生涯をささげて研究し、発掘しなければならないのだと。18

「地中海は人間の手で作られたのだ」462

「地中海の各地を結んでいるのは海の水ではなく、海の人々なのだ。」

いつも不思議なのだが、日本は海洋国家には見えない。南太平洋島嶼国の人々が海になじんでいるほどには、海に親しんでいないし、せいぜい潮干狩りを愉しむ採集民族的に思う。

ニュージーランドほどにもヨットの所有者も増えたりしないし。海流の厳しさの関係なのかな。

その他、干拓は金持ちの行為であり、平野を獲得していくことは、山岳の民との格差を広げた、とか。奴隷が当然のように労働力として出てくること、とか。
放牧民が夏冬移動するのも、長い間に確立した権利になっていること、とか。

何よりも、たくさんの地図が、地中海は山で囲まれた「地中」の海なのだということを示してくれる。しかも、意外に深いんだよね。昨日は、狭山市にある大学から、相模原、小川町、そしてまた巣鴨と随分JRには投資した日でした。この分厚い本を鞄に入れていたために、やたら電車に乗りたくなったのも事実です。
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by eric-blog | 2007-06-26 09:47 | ■週5プロジェクト07 | Comments(0)

田んぼが学校になった

188-1(897)田んぼが学校になった
佐伯剛正、岩波書店、2007

「Takaraお米とお酒の学校」の実践報告。場所は千葉の安食、宝酒造の松戸工場の近く。
群馬の「森の学校」で、環境教育実践として「ふりかえりの授業」を行ってきた著者が新たに企業との連繋で始めた学校。
環境教育
社会・伝統文化教育
食育
の三つを理念として取り組んでいる。

イラストがいい。

田作りから取り入れ、日本酒のできるまで、田んぼウォークなどなど、が良質なイラストでていねいに書き込まれている。

いいですね。
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by eric-blog | 2007-06-26 08:51 | ■週5プロジェクト07 | Comments(0)

世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい

187-8(896)世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい
森達也、晶文社、2003

このブログでは同じ著者による『放送禁止歌』を紹介している。ドキュメンタリー作家という肩書き、の人なのか。オウム真理教を扱ったドキュメンタリーA, A2はまだ見ていない。最近、テレビにも出たようで、公式サイトにはそのような感想が出ていた。この本が出た時から比べると、ずいぶんメジャーになっているのではないだろうか。ビデオも出ているようだし。高いけど。買わないけど。

メディアの側に身をおこうというのは、どのようなことなのだろうか。

自分をどう生きるかを模索し続けているような著者が、メディアの人間として生きるということを選んでいるにもかかわらず、著者自身がひとつの対象、消費されるものになっている。

いまの時代。

オウム真理教は真理を求めて、いま時代の病や闇からの解脱を求めて、もっとも現世的な裁判やら立ち退きやら強制執行やら、地域住民とやらと向き合っている。

オウムは怖いが、この信者は一人の人間だ、と身近で監視する人には「情が移る」

人はそもそも矛盾と曖昧さを抱えた生き物だ。だからこそこの世界は豊かなのだ。66

その後に続く文章を、全部書きたいくらいだ。でも、結論だけ書くとこんな感じ。

こんな国は他にはない。他のどの国にもできないことを日本は間違いなくやっていた。どうして胸を張れないんだ。67

うんうん、共感する。

歴史は想像力なのだと。後世の想像力なのだと。
そして、それはいま、この瞬間にも理解という名の想像力が、共同体を作るのだ。

「人は共同体に加担することで繁栄し、他者への想像力を停止させるという共同体の負の側面で滅ぶのだろう」273

A 1998
A2 2002
サリン事件 1995
9.11 2001

覚えるべき事柄が多すぎる。わたしのキャパを超える。覚えていようと努力しすぎると、過去が重くなるのだが、学生と、そして子どもといると未来が重くなる。その彼らとどのように、何を共有するのか。わたし自身の問いは続く。

今日6月23日は沖縄戦終了から62年
文部科学省が集団自決について軍の関与についての記述見直しの検定方針を示したのが今年。
わたしたちはどのような想像力を持って沖縄戦という歴史を見ることを、伝えるのだろうか。

国家やら国益からの枠組みに縛られた想像力ではなく、情やらなにやら、自分の人間性の多重性と多様性、矛盾と曖昧さのすべてを動員しての想像力。やさしいことは強いこと。
だとしても、一瞬一瞬、人は行動を選択しているし、し続けていく。その行動が何に縛られ、煽られ、方向付けられているのかも、自覚しつつ。

その他、一挙に借りた森達也本。
『世界が完全に思考停止する前に』2004
『こころをさなき世界のために』2005
『世界と僕たちの、未来のために』2006

こころをさなき・・・は親鸞から学ぶ地球幼年期のメソッドという副題なのだが。ちょっと、ずるい。タイトルが善過ぎる。
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by eric-blog | 2007-06-23 09:12 | ■週5プロジェクト07 | Comments(0)

ことばの力 平和の力 近代日本文学と日本国憲法

187-7(895)ことばの力 平和の力 近代日本文学と日本国憲法
小森陽一、かもがわブックス、2006

九条の会事務局長。

人間は、他者との間に言の葉をざわめかす能力を持つことで、暴力を介在させずに他者とかかわる方法を編み出してきた。それが文明のもっとも根幹である。(まえがき)より

そして、太平洋戦争に向かう時代を樋口一葉というオンナの眼と、夏目漱石という個人の革命に翻弄された人
そして、宮沢賢治、大江健三郎。
この四人の文学作品を読み解きながら、日本社会が集合的体験としてくぐってきた近代戦争から、「平和を希求する」にいたった心根を探っていく。

ノエル・ペリンがすでに指摘しているように、日本列島は17世紀において、すでに刀以上の武器の武装解除を成し遂げている。

打って出るには小さすぎ、攻め込まれるには大きすぎる

そんな地政学的特性を活かしつつ、国際社会に貢献できる道は、あるはずだ。
人間一人ひとりもそうだが、平均値で語る暴力から、まずは脱しようではないか。

文学が平均値を目指すような試みであったことは、かつてないことだし、個別も描きながらも、そこに共感価値、普遍につらなるものがあることに価値がある。
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by eric-blog | 2007-06-22 08:26 | ■週5プロジェクト07 | Comments(0)