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境界の発生

171-4(809)境界の発生
赤坂憲雄、講談社学術文庫、2002, 原著1989

同世代、と言っていいのだろう。1989年と言えば、ERIC創立のとき。わたし自身はグリーンピースでの活動に軸足を置こうとしていた時である。

文庫の前書きで、著者は、自分自身の知的探訪の道をふりかえりながら「異人、境界、供犧」などのキーワードを自らに封印しつつ、しかし、結局はその視点で天皇、遠野物語、東北をみていたのではなかったか、とふりかえる。東北民俗学への道を進みつつある著者は、自ら「異人まれびと」を実践しているのかもしれない。いくつもの日本、とは、境界の復活による「地域力」の再生を目指すものなのか、それとも、それらの多様性による「日本」の力を作り出すものなのか。「境界」というキーワードが、あの世とこの世、生と死、村を語りながら、わたしの中に結ばれる像は「ボーダーレス時代の生き方」だ。

国際交流担い手ネットワーク会議の論者の一人である伊藤憲宏さんは、まれびと異人概念を国際交流にあてはめて論じた。

今朝読んだコミック『クワン』の主人公は、人間からの畏怖と尊重がなくなれば消えて亡くなる天界から、人界を恐怖させるために送り込まれた。しかし、三国志前の中国では天界と人界を分離しようとする動きもあった。(という想定)クワンは自らのもともとの使命を忘れていたのだが、天界からクワン抹殺のための追っ手を差し向けられ、戦う中で、その記憶を取り戻していく。さあ、クワンは、分離側につくのか、それとももともとの使命に戻るのか。いま、クワンを人界につなぐのは「カゾク」というつながり、きづな、思い。

あれ、これって『はてしない物語』のテーマでもあったよね。『ゲド戦記』のテーマでもあった。人間の思いがなくなれば、消滅してしまう時空。人間の心がなくなることで広がる闇。いいものであれ、悪いものであれ、人間が境界を定めるのだ。

載は『多文化主義とディアスポラ』(5)において、ディアスポラ=国境離散民の雑種的アイデンティティを「変化と差異を通して、絶えず自己を再生産し続ける」個なのであると、多文化主義とは文化の並列への認証なのではなく、そのような雑種性の受け入れのことなのだという。

コーネルは『女たちの絆』(128-1(613))において、精神的道徳的領域=イマジナリー・ドメインにおける自由と自己決定の承認と尊重を言う。

ドーキンスは『延長された表現型』150-5(722)で、個々の表現型が、集団的に獲得、共有しているものが、個々の生き延びを有利にする、そのようなものを延長された表現型とした。

わたくしとわたくし外には、境界があるのですが、人間の社会や集団は、共通の境界を想定することで、「延長された表現型」の有利性を獲得することができるのかもしれません。その「延長された表現型」ないし「イマジナリー・ドメイン」ないし「想像の共同体」が、より高次の、より普遍的なアイデンティティに統合されていく時、個々の境界が弱体化する。それが、地球意識のボーダーレス時代に、宗教、ネーション、民俗への執着という形で、悲鳴をあげている。

この悲鳴は、過渡期のものだと考えるのか、それとも力への渇望のあらわれなのか。

より高次のアイデンティティは、結果的には中心を強化し、より多くを周縁化する。格差社会が、超リッチの出現がそのことを明確に示している。
周縁化され、無力化され、「見えない」存在とされることに、個人のイマジナリー・ドメインは健全さを保てない。あるいは集団的なイマジナリー・ドメインも。

より高次のアイデンティティに同意しつつ、力の分有と、その高次のアイデンティティに、ヒエラルキーを持ち込まないこと。意識的にヒエラルキーを解体し、流動化すること。そこにしか、地球意識の生き延びる道はない。

個々のイマジナリー・ドメインを尊重しつつ、さまざまな「境界」によるアイデンティティ(村意識、聖と俗、天、中心と周辺、生死、地元、国民、regionなどの)の重層性を楽しみながら、地球的諸課題についても協力できる、そんな人材育成の道とはどのようなものなのだろうか。

もう、最初の一文から、喚起されるものが多過ぎて、読み進めることすら難しいこの本は、果たして何?

とにもかくにも、これだけは紹介しておこう。105-106

まれびと異人が秩序と渾沌のはざまを漂泊し、中心と周縁を遍歴・往還する存在であることにおいて果たしている、交通の担い手としての役割 105

共同体への訪れ人である・・・まれびと異人たちは共同体相互の交通を媒介し、知を担い伝える人々

まれびと異人が共同体にもたらす知は、・・・共同体の整序された静的な知の体系を脅かし、秩序を活性化する動的な知である

それは共同体定住民によって・・・憧憬と嫌忌とに引き裂かれた両義的心態をもって迎えられる

まれびと異人は、閉ざされた小宇宙をなす共同体が未知なる外界にむけて開いた、いわば異質なる世界への窓あるいは通路

人間と人間の社会は、常に自己確立を求めて「境界」を張り、そして、境界を越えることで成長し、また「境界」を確認することで社会的有利性を高めようとしてきている。

力は力を承認し、付与する者がなければ、行使できない。

問題はボールディングが『権力の三つの顔』166-4(789)で言うように、「ある規模以上の集団での平等主義は機能しない。」
ことであり、人間の社会にはヒエラルキーと役割分担が発生し、「役割は、個人を越えて存続する」のだが、「上位になると個人のパワーは増す」が保守的になる。

ことかな。
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by eric-blog | 2007-02-28 09:44 | ■週5プロジェクト06 | Comments(0)

ジス・イズ・ユナイテッド・ネイションズ

171-3(808)ジス・イズ・ユナイテッド・ネイションズ
ミロスラフ・サセック、ブルース・インターアクションズ、2006

さまざまな街を紹介している絵本シリーズの一冊。
誰を対象にしているのか、この絵本は。大人でも知らない人の方が多いのではないかと思うような国連についての情報が満載だ。このままで子どもに理解できるのか?

ただ、ニューヨークにある国連本部に「寄贈」された作品が、それぞれにとても巨大で、かつ「平和」を願って、贈られたものなのだということに感動。

特に、イランから42キロメートルものペルシャ絨毯が寄贈されていることを知ると、ぜひ、平和のマラソンを、この絨毯をしきつめてと、思ってしまう。赤穂浪士の江戸城200帖敷きと同じような感覚だ。

今日、アムネスティ日本支部の人と話していたのだが、会員も、良心の囚人のために手紙を書くグループの数も減少しているのだという。「行動」する人々が減っているというのは、とても残念なことだと思う。

世界第二位の経済大国の、お寒い市民性。

グローバルな問題以外でならば、日本の市民は「元気」なのか?

今日、街頭でみかけた右翼の街宣車が「そら豆色」だったこと、そのかたり口がとてもソフトだったことは、何を意味しているのだろうか?
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by eric-blog | 2007-02-28 08:11 | ■週5プロジェクト06 | Comments(0)

聞く技術・伝える技術

171-2(807)聞く技術・伝える技術
菅原裕子、オーエス出版社、2001

著者はコーチングの仕事をしている人。大切なのは、自分の心とのコミュニケーション、聞き取る力だという。
それができれば、人のことを聞ける。

人が、自分の心とコミュニケーションすることを助けるのがコーチングなのだという。

ERICがいつも「答えは自分の中にある。それを引き出し、整えるのがファシリテーション」と言っているのに共通している。

著者は、企業文化の根底に「一人ひとりの社員の心構え・やる気」があるという。いわゆる本音の部分かな。そこから引き出していくことが、よりよい企業文化になるのだと。

エリック・バーンの交流分析からの引用なのか、コミュニケーションにおける心理ゲームのパターンが紹介されている。92-

・「ええ、デモ」ゲーム
・「皆、そう言っているよ」ゲーム
・「こんなに私がくるしんでいるのに」ゲーム
・「なぜ、どうして」ゲーム
・「それは違うよ」ゲーム

このゲームで欲しいものが手に入ることが続くと、ゲームの常習者になってしまう。100
仕掛けられた時の対処法はこれ。
1. 気づく
2. 冷静に
3. 相手のゲームを封じる

ゲームが展開されている時、そこには否定的な感情が生み出されている。肯定的な反応で返すことで、仕掛人はゲームの続行が不能になる。103

ラポール、心の掛け橋上手になるコツは、相手を理解すること。

1-5のチェックリストつきの実習本です。

今回の研修では「セロトニン5」のところでこの本に紹介されている「ラブサウンド」という言葉を引用しました。198

さて、これは何でしょうか?
そして、あなたがそのラブサウンドに込めた思いは伝わっていますか?
ぜひ、「ラブサウンド増加キャンペーン」に取り組みましょう!

何の定義も与えずに、グループ作業に入り、そこから30-40個はだしてもらい、自省をファシリテートする。

抽象的な、しかし、一人ひとりの心に呼び覚ます何かを持っている言葉についての共有は、こうでなくちゃね。昨日も「価値観とモラルはどう違うのですか」と質問を受けたけど、こういう言葉こそ、共に考えることで共通理解をはかりたいものである。共通理解をはかるべき相手と、ね。
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by eric-blog | 2007-02-27 11:07 | ■週5プロジェクト06 | Comments(0)

Real Boys 本当の男の子

171-1(806)男の子が心をひらく親、拒絶する親
ウィリアム・ポラック、講談社、2002
Real Boys, 1998

本のタイトルの付け方にも、日米比較が見えておもしろい。「Real Boys」は知的刺激を喚起するようなタイトルだし、「   親」は親の恐怖心に付け込んでいる。あるいは最近流行りの親業にすりよっているのか。

内容は、むろん前者が近い。しかし、ポラックが言わんとしていることは、圧倒的に存在する「男の掟」カルチャーの中で、まずは親がいまの男の子が育つ環境の難しさと葛藤を理解し、受け止めていくようにすることで、ずいぶん男の子は救われるのではないか、ということだ。

つまり、親までが「男の掟」を押し付ける側に加担していたら、男の子は自分を出す場を失い、発達に問題をかかえてしまう。いま、男の子たちの成績はさがり、うつ病が増え、自己肯定感を持てないでいるという。それは米国だけでなく、西欧、オーストラリアでも見られる共通の傾向だという。

なんてことを書いていると、昨日の夕刊に「男が泣いて帰ってくるな」と祖母に育てられたという回顧潭が乗っていた。日本の「男の掟」だ。

問題は社会が変わっていっているということだ。

「現代の彼らにはそぐわない過去のモデルで、少年たちの行動を決めつけ、批判している。」
「鋳型を強制することによって、社会は少年たちの感情を抑え込み、彼らが自由に考え行動する能力を限定して、変動し続ける世界に適応できなくしてしまっている。」序文9

どこかに、10歳までは甘やかしてそだてていいのだ、と書いてあったが、米国では子どもを5-6歳からキャンプなどに送りだすらしい。確かに、もういっぱしの大人に見える部分もあるし、本人も強がって、大丈夫とふるまうこともある時期だもんねぇ。

さて、男の子の場合、「男らしさ」の鋳型に会わない場合、待っているのは「辱め」である。

女の子を差別してきた「男の掟」が男の子をも苦しめている。少数のエリートは、いまだに男の子だ。そのために男の子一般の問題が見過ごされている。219

日経新聞の夕刊で紹介される人の経験など、一般化することはできない、ということは、教育者はしっかりと知るべきなのだ。

言語コミュニケーション能力の発達が相対的に遅いことも、男の子を殻に閉じこもりやすくさせてしまうのだろうなあ。

「女の子」の問題から始まり、「男の子」の問題についても優れた著書が出てくるようになって、Gapのネクスト・ステップは、自己実現のための教育だね。

具体的なハウが満載の本なので、これ以上のまとめは不要、かな。まずは、自分たちをふりかえってみよう。TESTでも「女の子の育ち方」「男の子の育ち方」については考えてみてもいいなあ。
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by eric-blog | 2007-02-27 11:07 | ■週5プロジェクト06 | Comments(0)

いくつもの日本I 日本を問いなおす

170-5(805)いくつもの日本I 日本を問いなおす
赤坂憲雄他、岩波書店、2002

こんな試みが、21世紀に入ってやっと行われたのか、という感じ。全8巻からなるこのシリーズは、なかなか、すべてを読み終わるまでは行かないが、ナショナリズム論と合わせて、紹介しておきたい。

国の長さ 世界で7番目
国の面積 世界で54番目
人口   世界で8番目

経済的にも物理的にも大国の日本。

海岸線 28,000キロメートル
新人たちが到達したのが十万年ほど前、石器時代がc7-8万年続いて、縄文時代が1万二千年。弥生時代は400-500年で古墳時代に移行。

統一国家が「日本」を名乗ってから約1200年。正式に北海道と沖縄を取り込んで約百年。

列島には生活を営むための空間が、無数に存在し、その背後にはそれぞれの時間が流れていた。

歴史とは人間が織り成す空間と時間だ。もともと空間とは、人間が時間をかけて歴史的に形成したもので、地域つまり空間によって、時間の蓄積の度合いは異なる。さらに時間が空間に蓄積されるため、それぞれの空間は、そこに流れる時間のスピードを左右する。(この場合、空間には人間のもつ知識や情報・技術も含まれる)。まさしく列島の人々は、さまざまな空間と時間のなかで生きてきた。しかし、今日の日本では、地域の特性は失われ、どこにいっても、同じような空間と時間を共有する時代になってしまった。・・・国家と社会の進展に伴い、それらの均質化が急速に進んだためである。vii

異なる時空を「ひとつの日本」にまとめあげ、そう見せかけたのは国家の力vii

以上、原田信男さんによる前書きより。

均質化が進んでいるいま、多様性の掘り起こしと自覚は、何を意味するのだろうか。
根無し草のように「地域」感覚をなくし、結果コミュニティ意識をなくしてしまったことへの反省なのか。
ヘイリーの「ルーツ」のように、自己確認とアイデンティティの取りかえしなのか。

このシリーズが、何を未来に投影してくれるのか、しようとしているのかがわたしの関心なのだが、その試みはどこかの巻にあるのだろうか。第一巻を読むかぎりでは、歴史学者のち密な研究報告以外の視点を持っているのはイ・ヨンスクさんの論文のように思われる。イさんについては「「国語」という思想」とともに、紹介したいと思っている。

この本にいたったのは『ナショナリズム論の名著50』(大澤真幸、平凡社、2002)で「「国語」という思想」が紹介されていて、イさんを検索したら、さらにひっかかってきたというもの。

『ナショナリズム論の名著50』はそのタイトルをすべてここに再録したいほど、よくセレクトされた本で、実は、タミールさんの『リベラルなナショナリズムへ』というのには、ここから出会った。この本に押村さんが解題を書いていたところから、本そのものの翻訳へとつながったということだったのだ。

もちろん、Gapの片寄りをもったわたしは、収録されている中の女性論者に注目したのだが、
B.アンダーソン『想像の共同体』
H.アーレント『全体主義の起源』
ぐらいしかないわい、と思っていたのに、Y.タミールさんに出会えたのはとても嬉しかった。
スーザン・ジョージ、ヴァンダナ・シヴァ、ヘーゼル・ヘンダーソンは、わたしが必読図書にあげている独学の女性研究者たちであるが、わたしが彼らをあげる理由は、それぞれ経済学、政治学、開発学について、独自の、とても貴重な、そして広い視野からの議論をしている人々だからである。ナショナリズムについては、タミールさんをこれからはあげようかな。
となると、ドゥシラ・コーネルさんも加えたいし。日本人では誰?

いずれにしても、備忘録として、これから読んでみたい本のタイトルを書き出しておく。
・F.ファノン『黒い皮膚・白い仮面』
・A.D.スミス『ネーションのエスニックな諸起源』
・W.コンナー『エスノナショナリズム
かな。後の本は、ナショナリズムの検索でひっかかってくるものだろう。

自分の知っていることで、生きていくしかないのだけれど、すごい本があるもんだ。わたし自身の偏愛がなければ、溺れるね。強い自己愛と「飛び石伝いに」探検していく方法、そして新しいものを取り込んで、新たな自分に変わっていく勇気。そんなものをこの週5プロジェクトを続けてきたおかげで、身に付けたように思います。
すでに800册。1000册への道のりの4/5を過ぎました。ちょうど来年一年、5年かがりで終了できるようになりそうです。
その次に来るものが何か、わくわくします。
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by eric-blog | 2007-02-24 12:40 | ■週5プロジェクト06 | Comments(0)

象は鼻が長い

170-4(804)象は鼻が長い
三上章、くろしお出版、1960年初版1987年17版

平凡社の大百科事典を、PLT学習会でかならず何度か引くようにしているのだが、根毛なるものの定義を求めて「根」の項を読んで、のけぞった。一番最後に「根という植物学用語を、根の機能から転じて、根本、根付くなどと使う。」この項の著者、岩槻邦男さんは生物的多様性の問題について、ずいぶん本を出している人だが、病膏肓に入るほどの専門家なのだな。どうも、わたしとは世界観がかなり違うらしい。

わたしは文法を日本語について学んだ覚えが、古語以外はないのだが、こう書いている時にも意識していない。悪文かもしれぬが、文法的に正しい文章が明文でも、名文でもなさそうだ。

自国語の文法を自覚的にし、説明しようとする文法学者らもたいがいに「病にいる」状態らしいことが、ばっさばっさと切っているこの三上の論文からわかる。いずれの学問も、再帰的に自己形成と再生産をくり返していくものだが、「主語」「述語」と説明しだすと「わたしは日本語が話せます。」で混乱する。

この本を手に取ったのは『主語を抹殺した男』(金谷武洋、講談社、)という三上の評伝からである。カナダで日本語を教えることになった第一回で、「日本語が話せますか」「はい、話せます」「先生、これは主語である「わたしは」を略した形ですよね。」「はい、そうです。正しくは「わたしは日本語が話せます」です。」でフリーズした経験が、三上へと導いたのだという。1978年のことである。外国語としての日本語を教える者として、三上文法以上の日本語文法はない、と現在は「日の丸・盆栽文法」を教える著者は絶賛する。日本の学校文法は、日本語教育が日本社会で行われている間は害もないが、海外では通用しない。「三上が佐久間鼎と始めた「日本語」を持って、日本は文法開国をしなければいけない。三上が主語抹殺論という鍵で見事に開けてくれた門を、われわれは押し開くだけでいい。」謝辞より、285

東大では建築を学んだ三上自身の文法との出会いは、戦前に台湾や韓国の学校で教えた経験からだ。やはり海外体験がきっかけなのだろう。「街の語学者」と呼ばれるほどに、実践的、現実の日本語と常に向き合いながらの「可能態」としての研究。

述部に対して被述部が多様である(13型?)のであり、いずれの被述部も、ひとつの述部で受ける。また、テニオハが日本語の「格」を明確にする道具なのだが、特に「ハ」は「ガノニヲ」を兼務する。

日英の文型で共通なのが「料理型」。料理の方法には、主格がない。それは一般的な行為だから。英語でも、Youはほとんど使わない。Stir until simmer.てな感じだ。

付録についている日英文法比較がためになる。
英語のパターンを
動詞文 ちょっと違う
存在文 かなり違う
名詞文 ほぼ同じ

と説明しているのがわかりやすい。わたしが学生たちに「英語は動詞だ」と叫んできたのも、あまり的外れではなかったのかもしれない。

あ、今日の研修、忘れてた。では、では。
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by eric-blog | 2007-02-23 11:19 | ■週5プロジェクト06 | Comments(0)

朝鮮語のすすめ 日本語からの視点

170-4(804)朝鮮語のすすめ 日本語からの視点
渡辺吉鎔、鈴木孝夫、講談社現代新書、1981

ずいぶんと古い本だが、この本をきっかけに韓国語の勉強を始めたと書いていた人がいたので、手に取ってみた。

それまでの言語学の中で、英語、仏語、独語vs日本語論が展開されており、つまり欧州語族に対するに東アジアの一言語を比較して、そこでの違いで日本語のみならず、日本人論まで展開してしまうと言う傾向を、笑う。

謙遜する言い方には、わたしもカンボジアで「お母さんの手料理はまずいけどいっぱい食べて」と言われてのけぞった覚えがある。韓国でもお膳の足が曲るほどの料理を出して「何もありませんが」と、そして「少ないですが」と差し出し、「何もわからない若輩者ですが」という。38

しかし、助詞などがよく対応し、その助詞が省略され、また主語のない構文も共通に見られるが、それは決して韓国人が「あいまいさ」を好むからという論調にはつながらない。
「日本語を通じて、日本人を考えようとする今日、日本語ともっとも類似している朝鮮語に顔をそむけたまま、日本語が論じられている。その結果は、朝鮮語と共通するいくつもの言語現象があたかも、日本語だけの特色のごとく扱われている」85

・「です」と「ですが」「けれども」など「言い切らない」表現
・「こ」「そ」「あ」の用法と、「アレ」「ソレ」
の用法も同じだが、それは日本語論者が好んで言う「省略の美学」や「察し」や「特別な人間関係」などの「日本人の特徴」とは無関係に、朝鮮語にも存在するのである。同じ言語現象があるのに、なぜ日本人はそのことを知らず、学ばず、知ったうえで日本人は何かを考えるという作業をしないのかと。
「地理的にもっとも近い韓国、そして言語的に類似性の高い朝鮮語に目を向けた上で、日本人は自らが何であるのかを正しく見つめ直す作業を一日も早く開始すべきである。日本の本当の意味での国際化への道はここにはじめて可能になる。」117

ちょうど、わたしがベルギーの平和大学夏期セミナーに出た年の出版である。
大きく世界が、パクス・アメリカーナ、米ソの冷戦構造から、ポスト国民国家の新たなあり方を探り始め、「教育の人間化」の取り組みが始まった時代。

地政学的に、撃って出るには小さ過ぎ、占領されるには大きすぎる日本。
1980年代からの「学び」を元に、日本の国際的な貢献のあり方を、日本の義務教育を受けている人々がしっかりと考えることのできるワールド・スタディーズに乗り出すべきなのだ。
くり返しになるが、拉致やミサイルの問題で、身近なコリアンに憎悪を向けるなど、もっての他のことなのである。国家間の問題と個人とをわけること、ヒステリックに国民を動員して世論をかき立てて、外交が向う先に、日本のいま国際社会の諸問題に対する国際貢献の向う姿は見えない。
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by eric-blog | 2007-02-22 09:56 | ■週5プロジェクト06 | Comments(0)

非日常の国 イスラエルの日常生活 「乳と蜜の流れる地」から

170-3(803)非日常の国 イスラエルの日常生活 「乳と蜜の流れる地」から
山森みか、新教出版社、2002

昨日紹介したタミールさんが生きている日常を描くことで、彼女が言おうとしているリベラルなナショナル、個人や個別の自由の尊重と発現と国家や地域機構の調整機能の両立は可能であると提言する時、彼女が感じ、見ているものはどのような個別であるのかを、共有したいと思う。ネーションと、個別をくくって使ったとしても、少なくとも、次のような自己主張するカテゴリーがイスラエルには存在するのだ。

・イスラエル国籍のある人 【国籍】

・ユダヤ人(母親がユダヤ人であるか、もしくは改宗した人) 【宗教】
  ・宗教派 なかにも超正統派、改革派
  ・伝統派
  ・世俗派
                   【人種】
  ・色の白い東欧系ユダヤ人  アシュケナジーム
  ・浅黒いイエメンのユダヤ人  北アフリカ系セファルディーム
  ・エチオピアから来た肌の黒いユダヤ人 
  ・ロシア系

  ・新帰還者


・非ユダヤ人
  ・アラブ人
  ・ドゥルーズ教徒

・パレスチナ地区に住むイスラエル国籍を持たないパレスチナ人
・占領地に住むイスラエル人入植者

・ヘブライ語  19世紀の終わりに日常語として復活 49
・アラビア語
・英語
・ロシア語

そして、この本を書いている著者は、キリスト教徒の日本人、イスラエルの永住権を持ち、ユダヤ人の夫を持ち、非ユダヤの子どもたちとともに、テルアビブ大学で東アジア論についての教鞭をとっている。

リービ英雄やデヴィッド・グッドマンらの著書を引きながら、日本語は開かれた言語でもあることが指摘されている。また、多人種から構成されている家族を持つグッドマンさんがユダヤ人として子どもを育てつつも、「子どもたちのアイデンティティのすべての層を培うこと」がその責任だと思っていると。13

ナショナルの責任は、そのナショナルを構成するすべてのネーションのアイデンティティを培うことなのではないだろうか。タミールさんがリベラル、ネーション、ナショナルという言葉を使う時、背景に広がっているのは、このような風景なのである。

この境界領域が広がる時代にあって「境界領域にある者への感受性を欠いた、自らが正義のマジョリティであると信じて疑わない鈍感な人々」に対して、「この日本人論者ども」と舌打ちしたくなるのである。

しかたなく銃をとるのではなく、憎悪の表現としてのテロや事件が重なる中で、まったく出口が見えない状況にイスラエルはなってしまっていると著者は言う。しかしそれでも、アラブ人の友人は「ものごとは流れるままにまかせよう。どれほど思い煩っても、我々のような個人ができることはかぎられている。しかし何が起きようとも、我々は我々だ。」と。191

共存の道を探る現実的試みの一環として、諸個人がそのような日常性の基盤を培うことの意義は不変であることを、この地において私たちは確信している。191

衝突が激化した2000年に、著者の家族は、ムスリムの友人を招いてパーティを行う。「このような具体的、直接的な(「あの危機状況においても、一緒に楽しい時間を過ごせてよかったね」と思い出せる)人間関係の記憶が、憎悪の連鎖をいつかは断ち切ることを信じています。」86 「11 憎悪に抵抗する記憶 (2000年10月13日記)」より

教育マニフェスト文章化の会議に向う道で、頭にスカーフを捲いた5-6人の女性たちのグループが買い物をしている傍を通り過ぎつつ、声かけ、握手したくなる衝動を覚えた。わたしにできることとして。

拉致やらミサイル実験やら核やらで、過剰に想像の共同体を盛り上げようとする「戦略」が、自らの危機を決して招きはしないと楽観しつつ、予算獲得に走れる利益団体政治しかない国の、なんと平和であることか。
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by eric-blog | 2007-02-21 09:45 | ■週5プロジェクト06 | Comments(0)

火星人

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価値観とビジョン研修でわたしが書いた「火星人」に地球を紹介するの図 です。
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by eric-blog | 2007-02-20 15:04 | 研修プログラム | Comments(0)

リベラルなナショナリズムとは

170-2(802)リベラルなナショナリズムとは
Liberal Nationalism, Yeal Tamir, 1993, 夏目書房、2006

1954年生まれで、1977年から82年まで、さまざまな市民運動に関わっていたという人の実践的な博士論文。イスラエルという国家、ユダヤ人というネーションが、どのように存在しうるのか。イギリス留学を経ての、「提言」である。
「わたしはこの本で、同質的国民の反映でありたいと望む中央集権的国家が、複数のネーションが構成する地域的機構、またネーション横断的な機構へと移行するであろうと予見した。」18
「複数ネーションにより構成される地域機構に、少数者と多数者という伝統的な概念は適用されない。」19
「主権国家を持ちたいという要求は、領土や住民を巡って相互に競合する。しかし、どのネーションの主張を取り上げるべきかという選択を不要にして、多くの国籍、文化的伝統、また文化集団を包摂するトランスナショナルな共同体を作り、そこにおける政治権威のの配分を調整できるようにすれば、さらに、そのような配分の選択がある種の補完性原理により導かれるのであれば、ネーション相互の二者択一性は大きく緩和される。つまり、一者のアイデンティティが必然的に他者のアイデンティティの犠牲の上で承認される、とという状況は解消される。」MacCormick, 1994
「ヨーロッパの場合は、こういった地域機構が、スコットランド人、バスク人、コルシカ人、ウェールズ人などの小さな「国家なきネーション」に対して、欧州共同体に留まりながら文化的、政治的な自治を発展させることを可能にしている。」
「EUの拡大は、大陸を横断して先祖返り的なナショナリズムが大火のごとく飛び火するのを防ぐための最良の途なのである。」MacCormick, 1994

「政治的解決の決め手が、理性であり、断片的な妥協であると信じている。しかし、このことは、リベラリズム、ナショナリズムの持つ鋭い刃先を丸くして、戦略的に「曖昧な態度」を採ろうとしたことを意味しない。およそ複数の価値体系を同時に擁護しようとする理論は、理性的-断片的-な妥協を目指すべきである。・・・妥協する必要があるということは、使われている概念が曖昧かつ不正確である証拠ではなく、複数の価値が相互に両立不可能、通約不可能であることの証拠であり、またわれわれの直面する社会的現実が複雑である証拠なのである。」21

リベラル・ナショナリズムの理論にはそれに相応しい教育理論が必要である、という著者は、教育についても論じている。(これは、これまでの国家論にはなかったもので、わたしがこの本を高く評価する点だ。)
「ほとんどの国家は、ネーションという点でみると内部が同質ではなく、過去に同質であったこともないし、これからも同質でありそうにない。」22
「教育の目標は、あらゆる市民を同質な公衆に束ねることではなく、差異を隠さずに表明する個々人の、間柄の調整法を発見することである。」23
「合衆国のような複数エスニック国家、イスラエルのような複数ネーション国家、またベルギーやカナダのような複数ネーションの連邦もしくは連合国家、さらに欧州共同体のような地域機構などのすべてが類似した問題に直面している・・・つまり、どのようにして一方で多様性を保持しながら、他方で統一を維持するかという問題である。」23

ナショナルな教育と公民的教育

国家の中立性が公民教育の根本だと信じられてきたが、マイノリティを含むあらゆる公民に権限と自由、権利の教育を行い、そして、その結果「国家」と「ネーション」が完全に分離し、複数ネーション国家であろうとするとき、「ナショナル、またエスニックな感情が高まり、各成員の独自性ではなく全成員の共通性を強調する自由民主主義的な公民紀要行くが、不要になるどころかなおさら必要になったのである。」24

近代国家発展の一里塚は国家教育システムの創設である。公民として、読み書きの促進、価値観の共有、法の尊重、忠誠心の強化。

ネーションや文化の保全と強化を目的とするナショナルな教育とははっきりと区別される。国民文学と国民言語、ネーションという形の、ネーション魂を忠実に吹き込む。26

「しかし、国民国家の発展の軌跡は、二つの教育を区別が不可能になるまで融合させた。国民と国家の違いを意図的に薄れさせようというこころみがなされた時代に、国民教育と公民教育は同一視されるに至った。」28

しかし、アメリカ合衆国でも、フランスでも、国家の教育は、価値中立ではなかった。
「マイノリティ文化に身を置く人々が、国家が文化的に中立であるというイメージを認証しがちであること」36

中立性、普遍性、同化の袋小路。
疎外され、周縁化されたまま留まるか、それとも自己を失うという代償を払って同化するか。37

差異を許容する公民権 が求められた。39

「自由で平等な人間が尊厳を得るためには、諸制度が自由かつ民主的であり、なおそれらが、抑圧や差別を生まない討議的なものである必要がある。」Guttmann

利益団体政治についてのヤングからの引用は、いまの日本の政治状況そのままだ。
「他者が利益追求のための同盟者になるかそれとも敵対者になるかを戦略的に考えはするが、それを除けば他者の利益に配慮する必要がない。従ってそれは、公的議論と意思決定を阻害するのである。利益団体的な多元主義の規則では、自身の利益が社会正義と同じほど正当であることを、証明する必要がなくなってしまう。」Young, 1989
「差異を隠ぺいするような「統一の原理」を唱えることによってではなく、各構成団体が自己の経験に照らして経済・社会問題の分析を行うことを可能にしつつ、政治的な目標設定に至るのである。」Young, 1989
ナショナルな教育と、公民的他者への尊重の教育の両輪が求められる。
ふうーー、これで前書きである。

日本の伝統を学び、というときの、多様な地域、伝承、伝統。
日本人としての規範意識、というときの公民的な普遍性。

その両者が別物であることになぜ気づかないのか。そこがわたしにはわかんないんだよねぇ、日本の教育。なんで、遠野物語から、国民国家、公民どころか皇民教育が、一直線に思えるかなあ。不思議だ。前者はナショナリズムの教育であり、後者は公民教育であるべきであるのに。
異なる他者の尊重についての学びは、この一直線幻想で軽く乗り越えられちゃっているのかな?

教育を考える上で、とても示唆に富む本である。

押村高さんという方が、訳者後書きで、当然のことのように「ネーションとしての一体性を日本が自覚的に持つべきか、そのために国民意識を喚起すべきか」というテーマを想定しているのに驚いた。わたしにとっては、日本は多様だ。ネーションとは多様性を代表する言葉としてこそ使うべきものであるのに、ここでもまた、ネーションとナショナリズムの合一が無自覚にはかられており、なんのためにタミールが、この本において、ネーションとナショナルを分離し、リベラルな個や多元主義と多元主義に立ち、尊重されるが故のナショナルへの協力という構図を提案しているのか、わけがわからない。
骨の随まで、徹底的に、多様性を認め、尊重することのできない精神構造なんだなあ。
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by eric-blog | 2007-02-20 11:22 | ■週5プロジェクト06 | Comments(0)