<   2007年 01月 ( 17 )   > この月の画像一覧

気流の鳴る音 交響するコミューン

167-1(791) 気流の鳴る音 交響するコミューン

真木悠介、ちくま学術文庫、2003
原著1977、それぞれの初出は1975-6年

見田宗介さんの筆名による本。1937年生まれ。真木の名前で出す時は、現代社会を越える視点を出したいとき。出したいものを出したいとき、なのだそうだ。
http://www.kiryuusha.com/makiwiki/wiki.cgi?%bf%bf%cc%da%cd%aa%b2%f0%a4%c8%b8%ab%c5%c4%bd%a1%b2%f0

1973年から76年にかけて中南米に旅したときに受けた印象から「近代のあとの時代を構想し、切り開くための比較社会学」を構想しつつ、まずはカスタネダ作品の読み解きから取り組んだもの。

カルロス・カスタネダの四部作そのものを読んでいないので、この本を紹介するのは隔靴掻痒的なのだが、わたしがこの本を読んで思ったのは、著者が「近代を越える」ことを夢想していたとき、わたしはまだ近代に追い付こうとしていたのではなかったか、ということである。あるいは、わたしの同世代は、ということだが。

公害反対運動、安全な食の消費者運動、玄米菜食、民衆演劇、など、近代を超えるものはあった。しかし、あのころ、同時代的に見田を読み、真木を読んでいても、同じ問題意識を共有していたとは到底言えない。

そして、また、著者自身も、賃仕事として、依頼原稿を、東大教授の見田宗介として書く時、現代社会の分析と言いながら、近代を越える努力は、真木ほどには、していなかったのではないか。

いまの社会に居場所を見い出そうとする「わたし」と、課題が見えて、変革を目指そうとする「わたし」が、真木悠介と見田宗介として拮抗する。

その拮抗関係は老若の世代間にも、東大vsその他の大学というランクの間にも、相対的に安定な立ち場vsニートの間にも、男制性vs女制性の間にも、存在するように思う。

「世界」への内在と「世界」からの超越という二つの軸を、自ら明確に実験していた著者が、近代を越える知恵として探るのがインディオの老人からカスタネダに対するレッスンだ。

世界を止める
目で見てわかることを止める
合理的説明、理性にがんじがらめになることを止める

人間が知者となる途上にある四つの自然の敵がある。恐怖、明晰、力、老い。094

無知に耽溺するものは、闇をゆく。しかし、明知に自足するものは、いっそう深き闇をゆく。095

人間主義ヒューマニズムは、人間主義を超える感覚によってはじめて支えられる。054

人間主義も、人間主義を超えるものも、すべてわたしたちの中にある。それをどのようにdevelop発展開発成長させていくかが鍵だ。

しかし、本当に「教養のある」educatedな人間になるために必須なのが、w型経験学習の蓄積だ。w型経験学習の連続には時間がかかる。w型というのは、KJ法の川喜田二郎さんが、現実→分析→理論化→実験・実証→検証と、現場フィールドと書斎スタディの往復運動を示して言っているKJ法の方法論だ。

真木と見田の融合を目指すことは誰しも難しい。しかし、わたしが思うのは、w型経験学習の年数の多寡が多様に、そして重層的に交わる社会を、その統合の答とすべきなのではないかということだ。

人間が知者となるうえでのバリヤーとしての「老い」ではなく、人間が知者となるために必要な知恵と経験を得る「時間」を経た人々がたくさんいる社会が、近代を超える社会の鍵なのではないだろうか。

少子化社会における「6つのポケット」の「高齢者」ではなく、リプロダクティブ・ライツに忙しい世代にはできないソーシャル・リプロダクティブ・ライツを主張すべき年代として成熟していけるといいなあと、思う。頼むよ、同世代。学び続けろよ。わたしたちの世代の「知恵」がマジョリティの声になれるように。

団塊+世代は、徹底した戦争違避感によって、世論に貢献してきた。その世代の影響力の薄れとともに、戦争を前提とした議論すら政治日程にのぼる。

団塊世代は、戦争なき成長を享受したお祭り世代だ。大衆学歴化社会第一世代でもある。

団塊-世代は、その上で、ていねいな社会的リプロダクティブなあり方を示せる世代でありたい。高学歴化社会のはしり世代として。教育と研究がそのことに貢献できないとすれば、それはなんなのだ?

「教育マニフェスト」のキーワードを思い出す。

=============with ERIC 2007年の展望=「わたし発・未来」==================

「深く学ぶ=喜び」のある教育
「個が交響する場」、「民主主義の実践」としての教育
「批判的乗り越え」を可能にする「自由」な精神を育てる教育

==地域と=千年考学==地球の=千年向学==多様な=千年交学==わたしの=千念行学==
[PR]
by eric-blog | 2007-01-31 09:50 | ■週5プロジェクト06 | Comments(0)

天皇制と部落差別

166-5(790)天皇制と部落差別
上杉聰、三一書房、1990

「部落解放運動にとって天皇制とはなにか」
「貴あれば賎あり」
危険な右傾化の中で、部落解放運動が果たす社会的・歴史的役割はなにか。

著者は、天皇制が中国からの自立をはかる中、その支配制度に全面的に倣い、日本版中華思想を作り出す。その中で、中華-蛮国という図式として朝鮮を二つの中華の間の蛮国と位置付けた。20-22
また戸籍制度の確立と同時に、古代賤民制度が形成され、「地位」が「身分」という永続的で普遍的なものとされていった。その区別(差別)が国家規模(広がり)を得手、初めて「身分」が成立したといいうる。24

中世、農民を積極的な納税者として取り込むために、荘園制から外れたものへの差別が必要とされた。地縁的結合を深めて自立していく農民と、税を逃れている外れものとの溝が深まる「排除のシステムの民衆化」。43

その「社会外」ということだけが共通で、部落の内実に共通するものはほとんどないという。78

そのために、部落は「解放令」ではなく、「賤民廃止令」であり、「民籍へ編入」なのであった。104

人外、よそ者意識の継続。106

排除による差別は人間性の否定。114

身分は血縁。
戸籍管理者である国家が差別を温存。151

明治初年頃の部落解放反対騒擾年表232
兵庫、広島、岡山、愛媛、高知、宮崎、大分、福岡、香川、京都、熊本などの県名が並ぶ。

著者は、部落問題を部落に焦点を当てる「天動説」ではなく、部落と差別する社会との関係に焦点を当てる「地動説」で考える必要があるのだという。そして、慣行が制度になり、制度が廃止されても慣行が継続するいま、大きな時代の流れの中で、悲観的にならず、努力を継続することで差別の解消を速めることができると楽観的になろうとくくる。

しかし、日本社会における「脅迫」パワーによる「統合」というこの矛盾は、さきほどの本では解き明かされていなかったなあ。民主主義と力の分有だけが、統合パワーの根源であり、源泉だとわたしは信じているけどね。

-- 人権尊重文化の推進3原則 --
○排他的ではなく包容力のある文化 Inclusion
○ヒエラルキーではなく対等な関係 Equity, Power Shared, Empowerment
○リスクを避けるのではなく、変化のプロセスに挑戦する Process Mind
-------------------------------
[PR]
by eric-blog | 2007-01-27 12:50 | ■週5プロジェクト06 | Comments(0)

権力の三つの顔

166-4(789)権力の三つの顔
ケネス・E・ボールディング、産能大学出版部、1994
The Faces of Power, 1990
PLT PreK-8の補足モジュール「エネルギーと社会」の翻訳ができました! 翻訳部分25ページに、表紙や生徒用ページは二色刷りコピーで美しく、全体で32ページのものです。ポスターや音楽CDはまだERICから提供できる体制になっていないのが残念ですが。

さて、そのモジュールの中に、What Powers the Move?動かす力は何?というアクティビティがあります。基本的にはエネルギーにはポテンシャルエネルギー(確か「位置エネルギー」と習った?かな)と、運動エネルギーとがある。エネルギーは化学、電気、機械、放射、熱、弾性、核の形をとる。パワーというのはエネルギーがどのようにその形を変えたり、移動したりすること。

この本は、もちろん、人間社会のパワーについて書かれたものなのだが、「動かす力は何?」という問いが正しく人間社会にもあてはまる問いであり、そして、動きを、つまりは歴史を作り出していくことなのだ。パワーとは変化のポテンシャルなのだ。

「人間のパワーの単純な定義は、欲するものを得る能力である。」4
しかし、それは個人に発しながら、ほとんど常により大きな存在の「ために」なされる。個人は単一の精神システムではなく、多様な個性を持ちうるのだ、と。

常に、個に発しながら、集団的である。

そして、「役割は、それを果たしている人を越えて存続すると強く信じられている。」
国益、企業益、教会益など、そして「代表」などは、個人的な利益を超越しなければならない。5

動かす力を著者は脅迫パワー、経済パワー、統合パワーの焦点をあてて分析している。脅迫、交換、愛というのは、それぞれに破壊的、生産的、統合的な要素を、配分・重みを変えて含んでいる。脅迫はより破壊的であり、交換は生産的、愛は統合的だが、しかし、他の要素を含まないわけではない。14 図表1-1
そして、政治的・軍事的パワーというのは「脅迫(大)、交換(小)、愛(小)」のように構成され、経済パワーは「交換(大)、脅迫(小)、愛(小)」、社会的パワーは「愛(大)、脅迫(小)、交換(小)」なのだという。22 図表1-2

マトリクスで表現すると、以上のようになるパワーから、脅迫パワー、経済パワー、統合パワーに焦点を当てて、それらがどのように「What Powers the Move?」しているか、考察したのが、この本である。

社会パワーは統合組織の主要な特質である。時に脅しもあるけれど。24

個人のパワーは「約八兆の遺伝学的に可能なパターンの一つ」であり、そのような遺伝的特徴はくじ引きとなんら変わらない。30

優生学は現状では事実上不可能。

しかし、それはあくまでも遺伝的ポテンシャルであって、実現ではない。31

集団におけるパワーはヒエラルキーにならざるを得ない。
「平等主義者によるコミュニティの無数の実験の失敗は、大きな集団では皆が他の皆と意思の疎通をはかることなど困難きわまりない・・・ことを示唆している」39
「ある規模を上回った平等主義者のコミュニティの対価は、無駄話と果てしない議論」40

集団はその規模が大きくなるにつれて、パワーが役割分担とリーダーシップのための何らかのヒエラルキーの形をとる組織になりがちである。40

より上位からの指令はより漠然としており、下におりるに従って部分的に改変されていく。それゆえ、組織はそれ自体のある種の自己保存のパワーをもっている。リーダーシップのパワーは、通常リーダーが考えているよりはるかに小さいものである。41-42

権威は下から贈与されるものである。下位構成員は「隠れた拒否権」をもっている。命令回避

では、個人的パワーはきわめて不平等に配分されているなかで、それぞれの人にとって、その人の持つポテンシャルにふさわしいパワーの最適な程度あるいは範囲がどのように決められるのだろうか。94

脅迫のパワーを含む個人的破壊パワー、交換のパワーを含む個人的生産パワー、受容され、尊敬され、正当化され、愛され、より大きなネットワークの一部を形成するパワーである個人的統合パワーが、個人的なパワーである。93

個人のパワーは、物理的な環境において発揮されるパワーもあるが、集団、対人関係で発揮される場合が多い。それらのパワーは社会文化的に違っている。そのために学習によって違ってくる。96

・無力さをまぎらわすものとしての破壊
・サディズムと自殺
・防衛あるいは脅迫としての破壊
・破壊的な統合パワー
・礼儀は統合システムの一部
・上位になれば個人パワーは増すが、破壊パワーは少なく、役割パターンや正当性という統合関係などによりよりかかるようになる。108

著者はシェークスピアの人生の7つの時代を通した個人的パワーの動態を描き出す。まあ、その中に「学童期」というのがあるのですが、教育は統合的パワーの行使であるはずなのに、脅しやすかしが横行するのはなぜなんだろうねぇという問題提起がある、かな。162-3
・幼児のパワー
・学童期
・恋人
・結婚
・雇用
・中年初期 「泡のような世間の思惑が気にかかって仕方がない」
・中年後期 「個人的パワーの配分の不平等化」
・老年 「再度、弱者のパワー」

資質と、学習-意思決定。生物学的資質と文化的資質の双方に由来する全てのインプットからその人が作り上げるもの。157

個人の統合パワーは、未来についてのイメージを作り出す能力と、他の人々に説得する能力にかかっている。154

わたしたちが社会の存続を望むにもかかわらず、税金のがれをしたり、罰がなければ、ルールを守らなかったり。脅迫パワーもまた、社会の統合には必要なのだ、と。184

生物の進化には脅迫パワーは働いていないのに。281

著者は、人間のパワーの役割は、地球時代にあって何なのだろうかと問う。286
石器時代の安定、パワーを増大させる農業の発見、農業とともに文明と脅迫、そして戦争。宗教と説得。290-5
現在は、破壊パワーより生産パワーと統合パワーに力点がある。299
宗教の統合パワーとそれに結びついたナショナリズム。304
余剰パワーがなければ生まれないが、さらなる余剰パワーを生み出す「知識」。
その知識の成長を抑圧する「継承的文化transmitting cultures」307


個人の精神力、人間精神の生産パワーと組織の物理。

「地球という惑星自体もまた、未来への幅広い可能性の内にあるが、その可能性には過去になされた決定の結果によってある程度は定まっているものもあり、またあるものは人間の意思決定とは完全に独立している。」313
未来のシナリオは、壊滅から発展までの幅がある。
・「核の冬」にいたる核戦争
・都市型核戦争
・持続不可能な現体制の継続
・まあまあの未来
・そして、人類の福祉が向上する未来。世界経済の7%程度が軍事産業に費やされているが、これらが教育投資や経済基盤整備に向けられ、人的生産を高めるために費やされる。人間精神のもつ未開発な留保部分は引き続き拡大し、パワーは知恵の増加とともに行使され、パワーの病理を防ぐ制度は強化される。たとえ、このような未来の確率が10%であったとしても、このために努力する価値はある。317

トータルなシステムに向いつつ、極度に異質。326
統合パワーの重要性をまず認識しよう!

という結論、かな。

ちょっとこれに関連しておもしろかったのが、『抜け荷百万石』。江戸末期に、加賀藩が薩摩藩と松前藩の間を取り持つ抜け荷で「海の百万石」を生み出していた。幕府の密偵が迫る。商人レベルでは「加賀薩摩が結束して幕府にものが言えるはず。長崎会所で取り引きを幕府だけが独占する時代ではない」250 という認識があるのに、最後の場面はこうだ。
「能登の海で、薩摩の船と加賀の船が出会ったという報告がきておる。双方、荷をいっぱい積んでおったそうな」と老中首座阿部正弘
「わが藩の船が風と潮に流されて、能登まで」と島津斉興
「わが藩の商人が、わがままに、諸藩と取り引きし」と前田斉泰
阿部がもっともおそれた加薩共同しての力ずくの答はかえってこなかった。両藩の執政たちはともかく、斉興にも斉泰にもまだ両藩共同して幕府にあたる覚悟はできていなかったのだ。317

上位になるほど、保守になる。

いやあ、昨日の「第7回東アジア女性フォーラム」準備会呼びかけ会議でのパワーも見物だったなあ。時間を無駄にできる人ががんがん余計なことを発言し、効率的な会議運営を阻む。効率的な会議になどなんの魅力も感じていない。いままでどおりを継続することに意義を見い出している。
[PR]
by eric-blog | 2007-01-27 12:15 | ■週5プロジェクト06 | Comments(0)

おんなと日本語

166-3(788)おんなと日本語
れいのるず=秋葉かつえ 編、有信堂、1993
Women and Language in Japanese

英語のタイトルが「?」である。日本語における「女性と言語」なのか、女性と「日本人における言語」(in Japaneseで日本人における、は、ないか)、ということは、女性と「日本語における言語」か。
タイトルがWomen and Japanese ではないので、少し、寄り道しちゃいました。

昨晩は、IGSお茶大ジェンダー研究所でHidi Gottfriedさんの講演会に参加。フェミニズム理論の変遷、特に第二波フェミニズム(1970-80)の再認識とポストモダニズム再考が主題でした。講演のタイトルは「ジェンダー・労働・政治」「フェミニズムと労働」であったのですが、講演者の論点は「労働のジェンダー化」であったと思います。特に、ミクロでもなく、マクロでもなく、middle rangeの研究として、講演者が行なったのが、多国籍企業Manpowerの各国展開に見る「ローカライゼーション」。つまり、労働のジェンダー化というのは、各国によって違うと。

ポストモダニズムによる既存のグランドセオリーの「脱構築」を経て、「再構築」へという課題はわかるけれど、「労働のジェンダー化にみる各国のローカライゼーション」というのは単に「各国の商慣行に従っている」という発見に留まり、それだけでは「比較文化論」に終わってしまう気がする。文化比較の視点が「労働」、すなわち法制度、家族、企業関係、労使関係などの視点から行われたということはあるにもせよ。フェミニストの連帯も、へったくれもない気がした。

専門家として生き延びようとするとき、おんなの現実から分断されていく。

そのことに興味を惹かれた。それこそが「階級の二分化」において働いている力なのだが。配布されたClass Questions-Feminist Answers において著者Joan Ackerさんがcapitalisms are gendered and racializedと言っているのは、おおおおって感じだった。講演より、配布資料の本の方を読んでしまっていた。伊庭さん、通訳ありがとう! 通訳付きだと、日英どちらかでキャッチアップできる利点を発見しました。

さて、労働がジェンダードであるならば、労働の場での関係やコミュニケーションもジェンダード。そして、コミュニケーションもジェンダード。

そこに、これまでの「女性語研究」の域を越えて、多面的に切り込む書として編集しようとしたものだと編者が前書きで述べている。

言語の性差研究は女性解放運動から生まれた。
言語学そのものの「科学性」がすでにジェンダード。
  (男性学者らが「自然だ」とか「科学的だ」「原則だ」と言っているものがすでにジェンダードという意味で)
メディアにおける性差別の構造的問題
「婦人」など、女はどのように括られ、呼ばれてきたか。
国語辞典の楽しみ
対面的コミュニケーション状況における権力装置

などが項目である。コミュニケーションにおける権力装置については、別の本とのからみで扱い方ので、パス。

マス・メデイァにみる性差別表現の三形態は、現在最終編集作業中であるGap Gender awareness programの冊子にも取り入れたい「分析の視点」である。
しかも、その三形態は「女性差別の意識がコトバ・表現に結晶化している度合い」によって分類されるというのだ!!!!!! 103

1. 性差別語の無自覚的使用  コトバそのものに結晶化しているもの
1) 女性が従事している/いた職業に対する社会的蔑視観  「女給」「女工」
  2) 婚姻制度との関連で女性が置かれる立ち場に対する社会的差別観念 「二号」「出戻り」「オールドミス」「ハイミス」「嫁にやる」
  3) 女性を男性の付属物視し、自立した主体として扱わないコトバ 「人妻」「主人」

2. 還元主義的性差別表現
「ネガティブに評価されるある事象のよってきたる原因が、あたかも"女性であること"自体に由来するかのごとく描き出すこと。」108  「女性独特の・・・」「女心の・・・」
「男性の場合には、その人個人の問題として扱われながら、女性の場合には、その人個人の問題次元をこえて、"女性一般"の問題へと還元され、オーヴァーカテゴライゼイションがなされていくのである。・・・男性独特の性差別意識が表れる」109 (傍点つきなので最後の文章は受けねらい?あるいは例示にあたる?)

3. 文脈不適切
「ある文の主題の流れになんらの関連ももたないのに、"女性"が、あるいは"女性であること"が、いたずらに前面に押し出されたり、飾りものとして扱われる場合をさす。このことによって、女性に対するネガティブな反応が喚起されたり、女性は"男性優位社会の飾りもの・付けたし"というものの見方が助長されていく。」110

女性が役職についたりすると、「孫何人」とか「何児の母」とか言われることとか。

でもなぜ著者は「このことが、女性に対するネガティブな反応を喚起し、女性は"男性優位社会の飾りもの・付けたし"というものの見方を助長する。」と言わないのかなあ。あるいは「このことが、女性に対するネガティブな反応を喚起し、女性は"男性優位社会の飾りもの・付けたし"というものの見方を、(もっとも陰備、陰湿に、あるいは潜在的に、など)助長する。」と言わないのかなあ。論文、論調において「怒り」を押さえることも、また、専門家たちが学び、修練し、習熟しなければ、生き延びられないことなのだろうな、と観察してしまいました。専門家になると怒りは遠のく。怒りのパワーこそが自己実現と未来を切り開く力になる、とわたしは思うのだが。

『ら抜きの殺意』の162-177の8ページをコピーして、英語の授業の最終回に学生たちに読ませました。「他言語を学ぶということは自言語を知る」ことでもあるよ、と。ノリノリでやれる人、ためらいのある人、いろいろに面白かった。

英語が国際語になれた一因に、女男の区別なしでいい、尊敬語謙譲語などがなく、基本的にはていねい表現だけ、というのがあるかもしれませんね。Dear Mr. Kakutaなんてとこは間違っていても、その後の手紙の文そのものがおかしい、ということにはならないですものね。ま、それぞれに「言語に課題あり」ということで。

『読むことの歴史』に、中世、女性は本を読むことを妨げられていたことが書かれていました。まだまだ、わたしたち一人ひとりの「意識化」は始まったばかりです。気長にやりましょう。

方言において「女言葉」がないというのも、おもしろいことだと思います。地域の現実がそれほどジェンダードされていなかったということなのかもしれません。(とは言え、ジェンダード=男女差別化の傾向が大、あるいは拡大傾向=という使われ方を容認していいのか、という疑問は感じます。)
バタード・ウイメンのようにジェンダード・ウィメンというカテゴリーが成り立ちそうですね。
[PR]
by eric-blog | 2007-01-26 10:45 | ■週5プロジェクト06 | Comments(0)

おいしい日本語

166-2(787)おいしい日本語大人のための言語学入門
金川欣二、出版芸術社、2006

oxymoronで紹介したウェブサイトの作者が、書き込みを大幅に改訂しつつ、まとめたもの。これは「入門」と銘打つのはいかがなものかと思いつつ後書きを読むと、「「何だ!こいつは」と思っていただけば、こちらの思うつぼなのである。」とあるので、そこまでは思わないことにした。はっきり言って、雑学です。本人は体系化できていないといいつつ、「雑学からは何も生まれてこない」とおっしゃる。本当にタチが悪い。週5プロジェクトで紹介しないつもりでいたのですが、どうしても共有しておきたい「雑学」があったので、引用します。「新明解さん」「ワードプレイ」など、このプロジェクトでも紹介した語学関連の雑学を一気に一覧したい人にはお勧めの本かもしれません。

環境派的に言えば、「雑草」という植物はないので、きっと「雑学」という学はないのです。著者は、きらかに「誤解を恐れるな」「言葉を楽しめ」という主張のために、書いているのですから。

さて、その誤解について、言語的な要因と非言語的な要因の「命名」をまとめてくださっているので、そこを引用します。183-188
【言語部門】
・言い間違い良い間違い、好い間違い、善い間違い、いい間違い、いいまちがい
・聞き間違い危機間違い、嬉々間違い、効き間違い、利き間違い、鬼気間違い
・誤記
・悪字
・誤植
・誤打、変換間違い
・読み間違い「永久脱毛」「反則係」
・レトリック「わしも山下清に毛の生えたような男です」
・誤読「ヒカルの墓」[これはショック! 誤解を広げないように、碁です。]
・誤文脈「あれは何?」「カンガルー(わからない)」/カステラの語源も、かな。
・「偽りの友」a false friend 「クレヨン=フランス語で鉛筆」「マンション」
・誤訳

【非言語部門】
・誤認
・レアリアグレープフルーツはブドウの一種だ/『大鏡』はないが小さな鏡ならトイレにある。
・誤った状況判断
・都市伝説
・誤った文化理解
・間違った論理三段論法の落とし穴
・間違った認識天動説
・既視感、未視感
・うろ覚え
・ウソ
・「神話」「母性神話」など、誤った言説の集合体
・情報がない
・思いやり
・タダの誤解
・タダのアホ
・メタ馬鹿これで誤解の全てが網羅されたと考える馬鹿

こんなのを書いていると気分がとっちらかってハイになるので、しばし瞑想。
[PR]
by eric-blog | 2007-01-23 10:55 | ■週5プロジェクト06 | Comments(0)

文学部をめぐる病い  教養主義・ナチス・旧制高校

166-1(786) 文学部をめぐる病い  教養主義・ナチス・旧制高校
高田里恵子、松籟社、2001

「日本的教養主義とドイツ青年運動とは、男子の高等教育に関わるものだったという最大の共通点をもっている。たとえば教養主義の中心地である旧制高校に広がっていたという、俗世間を低く見る態度(いわゆる弊衣破帽や蛮カラ)、文学や哲学への陶酔、自然愛好、男同士の友情、女性嫌悪などは、ドイツ青年運動の主な担い手であったギムナジウム生たちの在り様と繋がっている」21

「しかし旧制高校生のこうした自由は、ドイツの場合と正反対に、まさに学校制度によって支えられていた。未来の制度的エリートだからこそ、彼らの学生としての一時的逸脱は世間から許容され、のみならず称賛されもした。」22

「『車輪の下』は詰め込み教育のなかで破滅していく少年を描いて、学校秀才とそれを作り出す教育制度を批判したが、日本ではこの小説はまずは、受験の勝者によって受け入れられたのである。」22

「教養主義的という避難の言葉は、しばしば大学教師における一種の知的怠慢、とりわけ社会や政治に対する無知や無関心をさしており・・・。そして、こういうドイツ文学者たちの、ドイツに対する無批判な憧憬、ドイツ文化跪拝がナチス讃歌へと繋がっていったというわけだ」24

なぜ、日本のドイツ語教師たちが、この二つの矛盾する役割を引き受けていたのか。平和主義者のヘッセを紹介し、ナチス・ヒットラーを賛美するという。

それだけではない。著者は、文学部という「教養的」学部そのものが、近代立身出世主義と蜜月にあった大学においては、冷や飯食い的存在、出世の花形ではない日陰、あるいはニヒリズム、斜に構えて社会を見る性格的傾向を帯びてすらいた、と指摘する。果たして、戦前の日本において「知識人」「インテリ」は成立していたのか?

「単なる高学歴者たちが、・・・ファシズム推進体制の内部で安定した地位を得ていたこと」90

「ファシズム期における教養主義的読書の復活と隆盛は必然であったようだ。・・・読書は・・旧制高校生たちに自由の空気を教えてきた。・・・教養主義がもたらす自由や解放は、現実の不自由から自分自身を遠ざけるだめの欺瞞してい作用する不徹底な解放だからだ。」と批判した加藤周一と竹内好の意見を紹介しながら、192
著者は「不徹底」でいいのではないか、という。問題は、そのような「教養主義」ではなく、「単なる高学歴者たちが、強者へのすりよりを隠ぺいし、自分自身をアウトサイダーや批判者と見なしてしまう朗らかさである。」特権的朗らかさ。198

精神の自由、近代学歴社会における高学歴者に特権的に与えられた自由にあぐらをかいただけで、社会的には自分がどのようなメッセージを発している存在であるかには目をつぶっている人々、それが文学部の姿だったのだと。

もう一冊『グロテスクな教養』ちくま新書、2005では、著者はさらに戦後の教養部の遍歴を描き出す。それらの分析の最後に、「いやーな気持ちの後には小さな希望が湧いてくる」236と著者は後書きに言う。

分析、分析、分析で、展望、ビジョン、提言のない研究とは、研究としては重要であり、誠実なものだと思う。しかし、本人も大学という高等教育で教鞭をとっている人、存在としては、何らかのビジョンをもって行動されていることを期待したい。また、そのような実践報告にもどこかで触れる機会があればと思う。

わたしの指導教官であった扇谷尚さんは、一昨年他界されたのだが、晩年の年賀状に「教養とは、他者とともに生きるためのもの」と書いて来られた。高等教育のカリキュラム論を中心として教育課程論が専門であった彼は、「スペシャリスト」「ジェネラリスト」の両面が高等教育教育課程には必要であるというのが持論であった。

わたしが、「国際理解とは、自己理解、相互理解という文化相対主義で留まるのではなく、共通理解を含むものであり、求めるものなのである」と"発見"したのだと年賀状に書いたとき、激励のことばをいただいた。大阪大学を退官された後も、知的挑戦を続けておられた方なのである。

教養部が解体され、(高田さんの「あばき」を読んでいると、仕方ないのかなとも思えるが) 本も読まず、社会的活動にも心を閉ざし、早く「何者かになりたい」、そのために狭い専門性の獲得を求めて大学にやってくる学生たちを間近に見、再び、語学だけは単位時間が増加されていく大学の現実の中にあって、「外国語を学ぶ」「他言語を身につける」ということの意味を、国際理解教育の視点から改めて、しっかりと位置付けたいと思う。

いやあ、教養という言葉一つでも、ずいぶん、その背景が違うのですねぇ。
[PR]
by eric-blog | 2007-01-21 08:44 | ■週5プロジェクト06 | Comments(0)

わたしの外国語学習法

165-7(785)わたしの外国語学習法
ロンブ・カトー、ちくま学芸文庫、2000
IGY TANULOK NYELVEKET, Lomb Kato'

米原万里さんが1981年に翻訳されたもの。これが通訳者への道ともなったと、文庫版の後書きには書かれています。米原さんは、ロシア語の通訳者ですから、ハンガリー語からロシア語に翻訳されたものを日本語に訳されたのだと思います。

著者は、ヨーロッパ系言語14と中国語、日本語を、ハンガリーをほとんど出ることなくマスターした人。1910年ぐらいの生まれか。

外国語習得のコツは時間とエネルギーをかけること、そして学習の動機は、彼女自身にとっては困窮と知識欲だったと。通訳という仕事を得るための必然と、そしてまずは小説や専門文献など、自分が関心をもった「内容」のある書物の 読破から入るという方法。それは、ヨーロッパの言語が互いに類推が効くからこそ可能であったことかもしれないが、辞書を引きながら、文章の意味がわかったときの喜びが大きいと彼女はいいます。中国語に取り組んだときは、「万国の労働者、団結せよ!」という一文に一日かかっている。

そして、「外国語こそが、たとえ下手に身につけても決して無駄に終わらぬ唯一のもの」034として、いつからでも、何歳でも、外国語の勉強をすることを進めている。

さて、彼女の言う外国語学習のための10の教訓を紹介しておこう。211
1. 毎日学習すること
2. 学習意欲が減退しても、捨てないこと。別の学習法を考えること
3. 文脈から引き離して覚え込まないこと
4. 多くの場合に最大限利用できる《成句》すべてを順不同で書き出し覚えてしまうこと
5. 可能な限りあらゆる物事を頭の中で訳してみること。
6. 正しいと分っているものだけを、しっかりと覚え込むこと
7. 成句や熟語的表現は一人称から三人称の単数で書き出し覚えること
8. 外国語攻略は、四方八方から襲撃すべき。新聞、ラジオ、文通、会話など。
9. しゃべるのを恐れぬこと。誤りをおそれず、それを直してくれるように頼むこと
10. 自分は目標を達成出来るのだ、自分は強力な意志力と、類い稀なる語学的才能を持ち合わせているのだと、固く確信すること

どんな言語も難しいものなのです。特に母国語は。213
[PR]
by eric-blog | 2007-01-19 12:24 | ■週5プロジェクト06 | Comments(0)

ポストモダニズムの幻想

165-6(784) ポストモダニズムの幻想
テリー・イーグルトン、大月書店、1998
The Illusions of Postmodernism, Terry Eagleton, 1996

ポストモダンは、真実、理性、アイデンティティ、客観性、普遍的進歩、解放、単一的枠組み、歴史的筋書き・グランドナラティブ、論理の究極的基盤といった古典的概念を、徹底的に疑う思考法である。5、序文より

その社会的背景として、西側資本主義の流動化、脱中心化がある。
脱中心化され、深さがなく、基礎をもたず、自己観照的で、戯れ的で、摸倣的で、折衷的で、複数的な・・・・6

ポストモダニズムの功績は、セクシュアリティ、ジェンダー、エスニシティの諸問題を、政治的議論としてしっかり定着させたことであった。37

とはいえ、ポストモダンは、何を目指すのか、批判、破壊、反体制的でありながら、「根源的」という意味でラディカルな政治運動にはつながっていない、というのが著者の批判だ。では、ポストポストモダニズムの世界はどこへ行くのか。

「ポストモダンの理論でみえてこないのは、人間はある程度の自己決定ができるように決定されているという事実であり、条件付けられていることと、自律的であることのあいだには決定的対立はないという事実である。」124

「ヒューマニスト的」自我と「脱中心化された」自我は対立しない。127

不可知論なものではなく、できないことを指摘するのではなく、黄金時代などけっして存在しなかったことを知りつつ、どこかへ行こうとすることができないわけではない。さて、どこへ?

「原始」共同体と活気ある個人主義の融合。147

「前近代的社会には、現代社会にはない長所がある。・・・全般的には、そうした社会にはより強い地縁、共同体、伝統の意識があり、よりはっきりした輪郭があり、弱肉強食の競争、過度の野心などは少なく、残酷な道具的理性への隷属もない。しかし、それとひきかえに、前近代社会は経済的に貧しく、文化的に息苦しく、社会的に視野が狭く、しかも、家父長的で、個人主義的自由理念も欠いている。現代はそうした個人主義的自由を、精神的豊かさと共に発展させた。さらに、現代はわれわれの祖先の知らなかった、人間の平等、普遍的権利といった観念を孵化させ始めた。とはいうものの、われわれはこうした文明的特徴が、じつは野蛮で、冷淡な現代的秩序の一面にすぎないということを知っている。現代の体制は社会の成員同士の大切な関係を崩壊させ、貴重な文化的象徴を奪い、生活の手段を目的だと思い込ませた。また、近代前近代二つの社会的生活様式には、悲しむべきことに、重労働、抑圧、搾取、激しい権力闘争、陰険な神話、軍事暴力などといった多くの共通性がある。・・・モダニスト的な伝統嫌悪が魅力をもつのも了解できることである。」147-148

「よい面だけを結合した状態をめざす。・・将来こうしたユートピアが実現されるか疑わしいが、それが悲観的絶望や楽観的自信過剰にたいして、また、盲目的反動や未熟な進歩思想にたいして警鐘になっていることだけはたしかである。」148

「美徳とは人間の持つ能力が適切に、存分に発揮された結果であり、また、実践であり、実践の結果である。人間であるとは技能をもつことであって、いやな開いても寛大に扱うこととか、ハーモニカを上手に吹くこととか、人間は自らの技能を常に磨いていかなくてはならない。しかも、こうした技能は単独では身につけられない。・・・ある人生がそれにふさわしい形で特別の軌跡をえがいていくとき、そこには目的論的展開がある。」150

「真の複数的社会は、複数性に敵対する者と徹底的に戦うことによってのみ実現される。」96

『娘に語る人種差別』の翻訳者である松葉さんとの勉強会で、「相対主義は絶対主義を批判できない」という哲学的矛盾が出されたことがある。

絶対主義、相対主義、そこから普遍主義へと、人間の価値観、正義感の成長があると思うのだが、普遍主義に至るには、「他者を知る」「多くを知る」などがあって始めて可能なのだと思う。

自由も、そして共同体も、人間はほしがるのだということが、普遍的なんだよね。

ポストモダニズムは、訳者後書きによると、そのような「普遍性」を批判し、虚無的懐疑主義を生んだという。「一見破壊的にみえながら、この虚無的態度のせいで破壊が、実際のところ、本当の破壊となりえていない」ともいう。そして、成熟した資本主義体制の現状維持に貢献している、と。197

批判と懐疑だけでは、子どもは育てられない。わたしは生きれない。人間について、二項対立的に整理しようとすることが、人間と人間社会の理解を妨げるよね。

もう、三回目ぐらい、貸出しを更新してしまった本である。これも出版が1998年、だなあ。
[PR]
by eric-blog | 2007-01-18 11:07 | ■週5プロジェクト06 | Comments(0)

fc at ERIC 『地球のみかた』準備会より

今回のfc at ERICでは、ESD推進チェンマイ・ワークショップの構造と方法を参考に、トレイナーのためのESD理解と深化、そして「すべての教材をESD的に展開する」力を目標に、『地球のみかた』のアクティビティ実践を行うという二本の柱で計画しています。チェンマイ・ワークショップの報告書はとても荒削りナもので、そのままではESDのトレイナーのための研修づくりに直結しそうにないものなのですが、ERICファシリテーターたちによる解読・想像・創造作業によって、次のような内容がリトリバーされました。

・状況マッピングという手法を行うとき、カードは状況についてのデータとなるように書く。これは、従来ERICが「共通基盤づくり」と位置付けてきたセッション1で行う。
・ESDの推進に関わる「質問リスト」が重要。一つだけではなく、いくつかを組み合わせて、意識化の深化がはかれるような組み立てがあるはずだ。
・「状況」についてのデータカードとしてカードを書くのだから、KJ法の四註記は、一枚一枚のカードを書くときにも心掛けた方がよい。
・カードの書き方にもKJ法の「探検の五原則」を活かすべし。

・ロールプレイを評価に使うというのは、おもしろい。経験学習の四段階で「ロールプレイ」という体験をするのだと思えばいい。

・トレイナーの資質チェックリストというの「PLTファシリテーターの資質」に類似している。そろそろ構造化を図るべき。そのうえで、現状を評価し、課題を洗い出し、手だてをたてるというところまで行かなければ、「トレイナー」にはなれない。自分がそうなっていこうという心がけだけではだめなのだ。

さらに、今回は『地球のみかた』徹底活用を目指す「チャレンジ・コース」でもあるので、ESD的にするとはどういうことなのか、ということも重要なポイント。今回は、チェンマイ・ワークショップで共有されている「多様性」「相互依存」「協力」の三つのキーワードをアクティビティ実践にからめることを目指しました。そのために
・まず、「多様性」の現実を知る。その現実の利益は何かを知る。(その他のキーワードについても同様)
・『地球のみかた』のアクティビティを進化させる。実践してみる。
・すべての教材をESDの観点で実践するとはどういうことか。やりやすいもの、やりにくいものなどがあるのかどうか、総合的な学習と教科とではどちらがやりやすいのか、クロスカリキュラムな共通課題と単一分野の知識理解を中心とした教授とではどうか。などの視点で分析する。

以上、方法論的にとても新しい試みができそうで、楽しみです。ぜひ、御参加ください。

[PR]
by eric-blog | 2007-01-18 08:58 | △研修その他案内 | Comments(0)

PLT連続学習会 夜間コース

【E&S関連のアクティビティ検討会】開催要綱決定!

PLTの英語版を読んでの勉強会を開きたいなというアイデアと、では、E&S関連のアクティビティからやったらどうかというアイデアとの出会いが以下のような連続学習会の開催ということになりました。ぜひ、御参加ください。場所はERIC事務所です。

○全8回、各回で一つのアクティビティを読み込む。実践する。
○水曜あるいは金曜の夜、18.30-20.30を予定。(水金各4回ずつ)
○参加費 通しで申し込まれる場合PLT2007年版=\3,000込みで1万円。
 (各回のみの参加の場合は1500円/回。テキスト代は別途。)
○日程とアクティビティ予定
 1/24(水) #15わたしのお気に入り
 1/31(水) #36公害を探せ
  2/9 (金) #37リデュース・リユース・リサイクル
  2/16(金)#44水の不思議
 2/28(水) #53引っ越すぞ
 3/7(水)  #55理想のコミュニティを計画する
  3/23(金)#84地球気候
  3/30(金)#86変化する世界

*4回以上出席された方は「PLTファシリテーター認定」が得られます。
[PR]
by eric-blog | 2007-01-18 08:52 | ☆PLTプロジェクト | Comments(0)