<   2006年 04月 ( 18 )   > この月の画像一覧

「非労働時間」の生活史

131-5(636)「非労働時間」の生活史 英国風ライフ・スタイルの誕生
川北稔編、リブロポート、1987年

工業化と都市化が進むことで余暇時間が生まれたことは社会史の常識だ、と前書きに言う。9人の日本人研究者らがまとめたもの。18世紀から19世紀にかけて、娯楽がどのように都市で発展したかを読書、スポーツ、ギャンブル、ショーや映画などについて見たもの。
上流階級にとっては「時間」はkillつぶすものだったのだが、下級社会においてはまだまだ労働時間が長かった時代。文盲と半文盲(非識字)が入り混じっていた時、「音読してもらう」楽しみがコーヒーハウスには見られたという。読まれたものは新聞や日曜新聞など。この200年間に数百万という大衆本、新聞などが流通したという。

帯に「余暇を根源的に問い直す力作」とあるのだが、どこが根源的なのか、いまいちわからなかったが、スポーツについてのアマチュアからプロの成立というのはおもしろい。
1980年代、日本の社会学者の人々はこういうことを研究し、世に送り出していたのですねぇ。

アジア経済研究所の初期の各国事情本を見ている感じがします。

中島蔵書
[PR]
by eric-blog | 2006-04-28 09:26 | ■週5プロジェクト06 | Comments(1)

読むことの歴史 ヨーロッパ読書史

131-4(635) 読むことの歴史 ヨーロッパ読書史
ロジェ・シャルティエ、グリエルモ・カヴァッロ、大修館書店、2000
原著1997年

わたしたちは、何かを取り込まなければ、何者にもなれない。
人間は「遺伝子」の表現型だけでは、人間になれないからである。

その最初の「何者か」はことばである。

ハナシことばは、母親語と呼ばれる「強引に反応を引き出すまで繰り返し話しかける」という周りからの働きかけの方法の助けを得ながら、喉頭筋の形成によって食道と気道の機能分化が完成していく時期に「からだ」で「息使い」とともに獲得される。

呼吸的筋肉的記憶の段階である。

ハナシことばの獲得は、人間の遺産型獲得のためのチケットを入手しただけにすぎない。
この時期にハナシことばを獲得できなかった事例が、狼少年、少女などの事例として報告されているし、ひとつのハナシことばを獲得している人間が、他の文化に移り住んだとき、その文化の遺産型の吸収が可能であることは、ポカホンタス、ディアスポラ、クレオールなどに現れている。

ハナシことばの上に、人間に必要なものは、「時」を取り込むことである。自分たちのルーツを知り、共有の歴史を持ち、共通の価値観、ルール、規範、儀式でつながることである。

聖書が「はじめに言葉ありき」というように、クルアーンが朗誦によって教え込まれるように、論語が「読書百遍意おのずから通ず」と言われたように、お経がお経であるように人間のからだに「時」が刻まれるためには、ここにも母親語に似た、しつこいまでの働きかけが必要である。

加藤周一が「古典精読術」にあげた書物は「声で書かれた物」であり、声に出されることで完結するものなのである。

聴覚的筋肉的記憶段階である。これは、「言うことを聞く」からだづくりへの第一歩である。

無文字であることを選んだ人類は大きく3つに分かれている。アフリカの一部とオーストラリアのアボリジニ、北米大陸の先住民である。

彼らの聴覚的筋肉的記憶段階は次のようである。
アフリカのモシ族は、川田が研究したように、音ことば、太鼓の調べに王の歴史を刻み込む。
アボリジニは「ドリームタイム」の共有によって「人」になる。
北米先住民たちにも、物語がある。彼らは1万2000年の出来事を伝承し、七代先を考えて行動するという規範を共有する。

「時」をもたない人間は、遺伝子型だけの表現型として、「思いて学ばざれば、すなわち暗し」。とここで日本語の有利性を生かして断言すると、「思いて学ばざれば、すなわち暮らし」。日々、生活するだけの存在になる。

「時」を持てば持つほど、未来は広がる。「神」を信じれば永遠の命が与えられるのと同じだ。ことば、道具、トレース能力の3つが、20万年ほど前の「Quantum Leap」で獲得されたものだとすれば、トレースすることのできる長さが、「時」の長さだ。

この『読むことの歴史』という本は、文字化社会を選んだ人間の一派であるヨーロッパにおいて、文字言葉が聖書、宗教的に望ましい書物の範囲を越えて書かれ、そして読まれていく歴史を、ていねいに掘り下げている。すごい本だ。絶対に「買い!」

おまけに、口絵の写真にラテン語の連続書体から分かち書きへの発展、8世紀半ば、の事例を紹介してくれている!!!!! 英語の授業で使ってやるう。

聖書さえ読んでいれば、未来永劫のいのちを手に入れられたのに、悪魔に魅入られた人間たちは、最初は沈思黙想、テクストの一層の理解のためにと奨励された黙読の技術(6世紀)118によって、「声」や「音」のからだへの侵入から自由になり、内想の自由を獲得する。それが問題になるのは俗本が出版されたりする14世紀ごろのことらしい。ルネサンスは近い。

宗教と俗人との格闘が繰り広げられ、特に女性は聖なる書物以外の読書を禁止され、抵抗し458-459、自由を獲得する。

そして、いま、わたしたちは「神ごろし」の後、どこへ向かうのか。
この本で言えば「規範、モデルとして示される作品、作家のリスト」イコール「カノン」canon正典、標準的作品、への異議申し立て506、伝統的なカノンが問い直され、拒絶されている現代はどこに向かうのか。

「歴史家たちが的確な預言者であったことは決してない」493
この本は、いまの読書の傾向を、ヨーロッパに限らずに俯瞰することで現状を描き出す。わたしたちが見ている風景だ。「アナーキー」な「ザッピング」の読書、だという。

一方で、若い人たちのからだが悲鳴をあげている。

授業で私語するということは、「声」を「音」取り込むことを拒否しているということ。
ことばがからだに入っていないということは、何者でもないということ。

隣の人と語るのも怖いこと。

語り合わなければ、相手を探れないのに、語り合ったとたんに、その「声」に支配されてしまうほど、何も「言葉」がからだに入っていない「幼い脳」をむき出しに生きている若者たち。

何が、若者たちの「幼い脳」にこれほどまでの拒絶感の学習をさせてしまったのか。

近代の人間化の課題なんだと、わたしは思っている。

Listen, little man.

I love you.
Life is beautiful.
Welcome to the Earth.

それだけを伝えたい。そこから先を考え、生きる自由が、いまの世界にはあるのだがら。
[PR]
by eric-blog | 2006-04-26 06:37 | ■週5プロジェクト06 | Comments(0)

アジアを知れば世界が見える

131-3(634) アジアを知れば世界が見える
東京大学東洋文化研究所、小学館、2001

北区図書館で「読書」で検索したらひっかかてきたもの。「読書のための版本学」という、中国の古典にあたるときの「版本」についての知識が不可欠であるがゆえに、まずは版本学を確立しようという意図の一節のタイトルがひっかかってきたのだ。

表題のように考えているのは、この本を出している人々の所属と研究がそうなのだからだろ、とは思うものの、「人間は知りたがる生き物である」いま、アジア研究とは何をしているのかを知るにはいい本に、ひょんなことからであったと思う。

世界の2/3の人口と文化的政治的多様性をはらんだアジアを、とうてい「一つ」であるということはできないが、アジアを知れば世界の多様性につながる理解が得られるのではないかというのも、あながちウソではない。要はどのように出会うのか、だ。

版本学を提唱している橋本秀美さんは、いまの時代、よりよく生きるには文字と文学に頼らざるを得ない、それによって古今東西さまざまに異なる人間の行き方と思考と感情を理解する必要がある、そのためには中国語がお勧めだ、と言う。「地理的にも時間的にも以上に大きな範囲で、背景も立場も思想もまったく異質な人々の間で、切実に意思を疎通させるために使われてきた中国語には、日本語にはない直截性と客体性がある」238ように思われるからだという。また、読める文献が多いのだそうだ。

また、インドはどう変わり、どう変わらないのかという論文では、「現在行われている宗教的な行為のなかに、いろいろな形で、インドの3000年以上の宗教文化の要素が、重なり合うようにして現れている」ことを実感すると紹介されている。118
その他、南インドに残った手織り布工業やネパールに残る「おお、神よ」「エー・パルメシュレー」という儀礼的掛け声に現れる中間的な性質と文明周縁部における借用語の姿など、アジアに「残る」というかいまある、生きのび続けているものの姿に、人間の姿が見えてくるものがある。

人間と人間の歴史は多様である。同じ環境におかれたら、同じ風土を作り出すというものではない。ことはよくわかる。
[PR]
by eric-blog | 2006-04-25 06:36 | ■週5プロジェクト06 | Comments(0)

読書術

131-2(633) 読書術
加藤周一、岩波書店、1993、原著1962年

30年も前に書かれたものを再版して、そしてなんと9刷りにもなっているという「ベ
ストセラー」!

古典を味わう「精読術」そして新刊を数でこなす「速読術」、読まずにすます「読書
術」、原書に挑み、原書に触れる「解読術」。新聞雑誌の「看破術」、難解な本の
「読破術」

古典として著者が「ゆっくり読むことのできるもの」としてあげているのは論語と聖
書とプラトンと仏典。55

一面的でないどんな深い思想もない。...肌ざわりがよく、だれにでも便利な石鹸と
いうものはありますが、円満でだれにでも便利な思想というものは、いままでにもな
かったし、いまでもないし、また将来もないでしょう。それが石鹸と思想の違いです。
55

読書は読み手の自由が大きい行動である。そして精神の仕事である。6-16

人間と時代に普遍的なものの良さは、洋の東西というような二元的な捉え方をすべき
ものではない。147

高校生に向けてと企図されたようだが、なかなかどうして、著者の乱読の成果がちり
ばめられている本である。

----- ツール・ポストカードのアイデア ------
表紙シリーズ
・12のものの見方・考え方
・対立は悪くない
・Tool Eight

ものさしシリーズ
・無量大数
・度量衡
・宇宙

通信のかわりに、使い続けられる葉書を創る!!!
----------------------------------------------
[PR]
by eric-blog | 2006-04-25 06:34 | ■週5プロジェクト06 | Comments(0)

読書の方法

131-1(632) 読書の方法
外山滋比古、講談社現代新書、1981

来週のRICニュースに資料室案内を乗せることになり、なぜ、資料室を持つのか、な
ぜ、本を読むのか、どんな本を買うのかなどについて、考えたいと思い、読書とは何
かについての本を集中的に借りてみた。
本のタイトルからだけみると「読書の愉しみ、読書を楽しもう、科学の本の読み方、
あなたにもできる速読、アジアを知る、生きること」など、専門性、趣味、人生、教
養などに読書は関わっているようだ。
ひるがえって、わたしたちの読書量はどれくらいかというと、1.2册/月という統計か
ら4册/月というような統計まであるらしい。
しかし、日本社会において活字、文字に触れずに生活することなどほとんど不可能に
違いなく、まったく別の調査が必要なのだと思う。いつも言うのだが、カンボジアで
暮らしていた時、文字情報は学校前のよろずやさんのカレンダーだけだったという状
況となど、比べ物にならないのだ。
一方で、高校生の時に、アメリカの高校では、掲示板やポスターなどの情報を、よく
見ていた。日本では口コミの方が、優っていたように思った。
情報に対する態度とか傾向など全般を調べてみたいものだ。

芥川竜之介の読書の態度は「自分が読みたいように読む」ことが大事だと、とてもすっ
きりと短い文章でまとめられていて、とてもいい。それ以外の本でおもしろかったの
が、この本だ。

読書は、と著者は言うが、「情報は」と言った方がよさそうだ、「わかっていること
を読むのはおもしろい」というのだ。「知らないことは難しい」28-33

当たり前か。そして、「難解」なものはだめで「わかりやすい」ことへの信仰が進ん
でいるのだと言う。1981年にして「活字離れ」が課題になっているという問題意識か
らこの本が書かれているのだから。

文字の発音がわかる=音読できる

それが長い間、わたしたちの文字情報との付き合い方だったらしい。その結果、意味
がわからなくても、「読めた」と思う。49
「音読が音意一体の既知のことがらを内容とすることばを読むところから始まるため
に、文字さえ読めれば、内容がいくらか不確かでも、読めたという誤解を生じやすい。
その結果、きわめて多くの読者が、知らず知らずのうちに、論語読みの論語知らず、
に甘んじているということになる。」49
「音読は、ことばの形と内容の渾然一体の状態において始まり、その範囲内にとどま
ることが理想である。」50

では「ことばによって未知を教える」ということはどのようにしてなされるのが望ま
しいのか。
「未知を読むための二重の壁」55-56
文字や表現の壁
言わんとしている考えそのものがわかっていない第二の壁。

学校の教科書は未知を読む連続である。57
翻訳で困難な未知を読んだ。78
よい悪文 必然性をもってよみにくくになっている文章82
明治以来、未知を読まずんばあるべからずといった気魄によって推進されてきた84

既知を下敷きにした音読的な読み方を「アルファ読み」と名づけ、未知を読むのを
「ベーター読み」と呼ぶことにする。86-88
教育が普及すればするほどアルファー読者が多くなる。92
商売がアルファー読者に迎合する。92
アルファー読への退行 102

未知を理解することばを身につけること。100

バーンスタインのRCとEC
限定用法という省略の多いことばと、論理的で文法的にも整備されてことば。104

国語教育を文学偏重にするのではなく、ベーター読みにいたるような「読み」のトレー
ニングとして行うこと。116-117

新しいことを知るには時間がかかる。
虚構
素読
読書百遍
古典の暗誦
古典と外国語
耳で書き、耳で読む
未知を読めば宗教に達する
ベーター読みの極限、禅の公案
時間をかけて考える
知己を100年の後に俟つ
読みの創造、意味の発見

ということで、わたしが読書について考えたかったこと、言いたかったことのほとん
どは、この本に書かれていました。ということはこの読書は「省エネ」ではあるが、
ベーター読みにはつながらなかったということ?かな?



:*:
,。・:*:・"゛☆,。・:*:・"★・。☆。・"
 
:*: ,。・:*:・"゛☆,。:・":*:・。☆。・"
              "      
[PR]
by eric-blog | 2006-04-25 06:33 | ■週5プロジェクト06 | Comments(0)

カイロスとロゴス

130-4(631) カイロスとロゴス
ティリッヒ著作集第三巻、白水社、1999、所収

金光さんが退院されて事務所を訪ねて来られたとき、「物理的時間」クロノスと「主体的時間」カイロスというギリシャ哲学の概念に言及されていました。
インターネットで検索すると、量的vs質的、客観的vs主観的、形式的vs実質的、現実的vs夢的、というような対称軸が浮かんできます。
しかし、主観的であるというと全体的という気がしますが、カイロスの語源は「分断する」というようなことでもあるらしく、つまり主観的な時間は「誕生や死、決定的な出会い、社会的大変動」というような出来事で目盛られる、メモられる時間でもあるのです。そういう意味ではカイロスも外界と無関係なたゆたうような己時間ではないようです。

しかも、カイロ=分断するというのはscience, chemistryの語源ともなっており、科学のことなのです。カイロプラクティックという言葉も連想しますが、これは「科学」と「手の技術」の融合という造語なのだそうです。

わたし的には、主体的であるということは、分析的であるということと、どこまでいっても切り離せないのだな、ただ主体的であるということは、分析したものを統合する自己というものを失わずにいること、ERIC的誤解に基づく「十牛図」的概念なのだなと思いました。(誤解に基づいて発展させるな!)

図書検索をしてみるとひっかかってきたのがこの本。もちろん、ごくごく小難しく書いています。「カイロスとロゴス」
原著は古く1926年。ただフロムの『自由からの逃走』にも言及している論文も収録されているので、著作集全体は1926年の本論文から1959年の講演録までを含んで編纂されている。
神学哲学者。ではなく、宗教社会主義神学者、らしい。

「20世紀を偉大な神学的世紀と特徴付ける」考え方があったというのに、驚きました。[後書きの翻訳者による解題より]

そうかもしれない。「我々みんなが神殺しなのだ」と叫んだニーチェが死んだのが1900年。神はどこに行ったのだろうか。在不在を巡る果てしない無間地獄の世紀であったのか。
仏教の果たせる役割は大きいと思うんだけどなあ。仏教って哲学だから。

話を戻して、ティリッヒ。ニーチェが死んでから30年、マルクスが死んでから50年(1883)ほどの、まだまだ彼らがホットだった頃に、人は何を考えたのだろうか。

「哲学と科学」より
キリスト教の勝利は、...創造されたものがその存在のあらゆる段階において良さをもつという信仰が、反抗し神に敵対する物質への悲劇的恐怖に打ち勝ったことである。この勝利は存在者そのものを根底的に非悪魔化することであり、それによって実存を肯定することである。31
「歴史」を肯定することであり、「時間の秩序」は、単に生成と消滅のみではなく、新しくなることや形成それに意味を与える目標などをもそのなかに含んでいるのである。32
哲学は啓示を求め、啓示が哲学を自己の中に位置づけた。哲学が宗教の下僕の世俗的なものになった。32
哲学の還帰は、ギリシア的なものではなく、キリスト教的ヒューマニズムを生み出した。...キリスト教的運命と哲学の運命が互いに結び合っている。33

「科学の危機」とは二つのことを意味しうる。生の過程とは疎遠でしかも自己満足的な学問性に対するニーチェの抗議と、科学と現実の政治的変革との結合というマルクスの要求。...科学の権威への懐疑と、マルクス主義的科学のドグマ化。48

科学とは、多様な様式における世界との出会いや自己との出会いの一つの様式である。44
「カイロスとロゴス」より
認識の第三の要素の中にこそ、認識の決断的性格、認識の真の歴史性、認識が運命とカイロスのなかに立つということが存在するのである。73

主観性とは前歴史的フォアゲシヒトリヒ カテゴリーであり、しかし、自由と運命は歴史的なカテゴリーなのである。...ただ自由である者のみ運命をもつ。84
現存在がそれ自体にとどまる限り自由と結びつくことはなく、無制約者の前に立つ現存在である限りにおいて、その結びつきはおこるのである。85
認識における決断という自由なる行為は、そこにおいて認識がおこるところの運命の表現なのである。
認識は、それが主観面においては自由であり、客観面においては運命である限りにおいて真なのである。85

どこにも定義がないのですが、カイロスという主観的実在とそれを説明するロゴス論理や解釈、それしかわたしたちはできないのだけれど、そのような現実主義的認識のさらに上位概念としての第三の要素が必要なのだと、神学者であるティリッヒは言っているのだと思います。その第三の要素こそが、わたしたちの「自由」と「運命」を作り出すのだと。しかし、すでにマルクスが「歴史の中で決断するとき、人はもっとも自由である」と言ったことを経験した時代に、この認識、無制約者の想定を求める論理はどこから来る必要があるのか、よくわからない。

「信仰的現実主義II」より

現実主義の三分類。
神秘主義
技術主義
歴史主義 預言者的キリスト教的な歴史解釈がその背景。救済史としての歴史が、歴史的実存に対する無関心の態度を克服した。133
さらに深いのが信仰的現実主義である。141

うーーーーん、すごい自己中、我田引水。

「存在の次元、層および統一」より

自己統合と自己産出と自己昂揚とにおいて、生は自己を越え出て行き自己に帰る。178
生の根本過程は外部からの働きかけによっては理解されない。..生のなかへと割ってはいることのできるものは何もない。そのようなものはすべて生に属するものだからだ。外から生を破壊しあるいは回復しうるような作用は存在しない。全体としての生に「外」は存在しないからである。過程でもなく原因でもない。.....178-179

このあたり、まるで般若心経だね。

自己統合はあらゆる瞬間において分裂とたたかい、自己産出は破壊に対して自己を守り、自己昂揚は世俗化の傾向を突破し克服する。179

治癒とは、生の自己統合によって分裂の力を克服することである。180
人間はひとつの多次元的統一である。

人格における疎外と和解、そして社会における疎外と和解(これがマルクスの課題としてところだった)。再統合。宗教もそのような役割について考えるべき=宗教社会学者と言われるゆえんかな。

この本の貴重さは、英語とドイツ語、そして日本語の「言語的共同作業」が、どのような共有知を生み出すかを、時間を越えて追体験できることである。

例えば、
understand 下に立つ
comprehend 集める
これは「共に在ること」という共通項をもつ。158

説明に納得とはいかないが、英語についてこんな考え方をドイツ語を話す人はもつのね、ということが確認できてよかった。
[PR]
by eric-blog | 2006-04-19 07:24 | ■週5プロジェクト06 | Comments(0)

道徳教育論

ERICの人材育成アプローチが、道徳教育の分野で紹介されていたということで、ERICファシリテーターである木野さんに、今回は図書紹介をお願いいたしました。

知らないところで、知らない人が、わたしたちを「分類」分ったような気持ちになっているのですね。

自分もつねづねやっていることなので、それは何なのか、考えてみたいと思いました。

かくた
*************************************

『道徳教育論』荒井郁男、犬塚文雄、林泰成 2005 日本放送出版協会

放送大学の教材です。現在、価値の教育、スキルトレーニングがどのように扱われているのか、それらのERIC との共通点と相違点、道徳教育界ではどのような専門用語で何が論じられているか、などに関心があり、入手しました。12章以降はきちんと見ていませんが、「学校グループアプローチ」部分を紹介します。

目次
1.道徳教育の意義
2.道徳教育の歴史
3.学習指導要領と道徳教育
4.道徳的社会化
5.道徳性の発達
6.理性の道徳教育
7.感性の道徳教育
8.行動の道徳教育
9.道徳教育と教育臨床
10.道徳教育と生徒指導
11.道徳教育と特別活動
12.道徳教育と教科・総合的な学習
13.道徳性と社会・文化
14.地域・家庭における道徳教育
15.道徳教育の課題と展望

「学校グループアプローチ」は、11章ででてきます。9章から11章を執筆した犬塚文雄は、子どもたちの思いやり行動特性(向社会性、共感性、愛他性など)を育成する上で阻害要因となっているのが、傷つきやすい自己、弱い立場の子どもの根こぎ状況(自分自身、仲間、集団との関わりの実感を持てない状況)、ピアプレッシャーなどであるとし、ピアプレッシャーの緩和と思いやり行動育成を目指した集団支援法として「学校グループアプローチ」を紹介しています。

野島一彦はグループアプローチを「個人の心理的治療・教育・成長、個人間のコミュニケーションと対人関係の発展と改善、および組織の開発と変革などを目的として、小集団の機能・課程・ダイナミックス・特性を用いる各種技法の総称」と規定しています。『グループ・アプローチ』現代のエスプリ no.385 1999年、至文堂
犬塚は、それを受け「学校グループアプローチ」を「学校教育に携わるすべての教師が、とくに教育課程の中で実施可能なグループアプローチの総称」とし、以下の20を抽出しています。全ての教師が実施可能というのは、それぞれのアプローチに関する十分な研修や指導を受ける必要があるが、ライセンス方式ではないということ。126-129

■代表的な学校グループアプローチ
1.ベーシックエンカウンター
2.構成的グループエンカウンター
3.ニューカウンセリング
4.学校グループワークトレーニング
5.ピアサポートプログラム
6.ソーシャルスキルトレーニング
7.セルフアサーショントレーニング
8.対人関係ゲームプログラム
9.フィークスプログラム
10.ストレスマネジメント教育プログラム
11.学級文化づくり
12.プロジェクトアドベンチャー
13.ネイチャーゲーム
14.ライフスキル教育プログラム
15.VLF思いやり育成プログラム VLF:Voice of Love and Freedom
16.多様性トレーニング
17.ERIC国際理解教育プログラム ERIC:International Education Resource and Innovation Center
18.ユニセフ開発教育プログラム
19.アンガーマネジメントプログラム
20モラルスキルトレーニング

これらは、グループカウンセリング系、グループワーク系に整理できる。
グループカウンセリング系:ストレス社会の中で自分らしさ、人間性の回復を目指すC.ロジャーズの流れのカウンセリング理論の影響を強く受けたアプローチ群。構成的エンカウンターがその代表。集団の維持・形成機能、人間関係調整機能に力点をおいたものであり、心の居場所づくりの実践を通して、自分自身、仲間とのかかわりに根をはる実感の回復が期待できるアプローチ群。
グループワーク系:希薄化してきている「我々感情 We feeling」の回復と組織開発、組織変革を目指すK.レヴィンの流れのグループダイナミックス理論の影響を強く受けている。学校グループワークトレーニングが代表。集団の課題遂行・目的達成機能、合意形成機能に力点を置いたもの。学校/学級文化づくりを通して、所属集団のとのかかわりに根をはる実感の回復が期待できるアプローチ群。
子どもたちの発達段階や集団の編成時期などにより2つの系の比重は変っていくが、まずグループカウンセリング系の「学校グループアプローチ」でお互いのペースの分かち合いを十分に行ったうえで、グループワーク系のでコンセンサスを練り上げてゆくことが実践の基本的流れであるとしています。このことを著者は、分かち合いsharing から 練り上げelabotation へ、癒し系から骨太系へ と表現しています。
現場では、「心の居場所づくりに代表される癒し系に比重が置かれすぎている」という批判もあるが、筆者は、子どもたちの根こぎ状況は深刻化しており、いきなり骨太系から入っても、子どもたちとかみ合わないのが現実であろうと述べています。

しかし「学校グループアプローチ」では「望ましい集団活動」の醸成には有効だが、自主的、実践的な態度を育てることには迫れない。それらを育てるためには、子どもたちが、Plan-Do-Seeを委ねられた集団活動の実践を積むことが必要だとしています。

20の中にはあまり聞いたことがないものもありますが、「方法」という一つの切り口で分類すると、16-18も他のトレーニングと同じアプローチ群に入ることは、発見です。この分類では、参加型の理念や教育目標の異なりを伝えることができませんが、関心をもたれた先生方がアクセスされるきっかけにはなるのではないかと思います。


このテキストは道徳教育を考えるための素材を提供しています。
全体を通して、道徳教育は論争の的になることが多いテーマであるということ、提示された意見を批判的に見ることが、市民的公共性へつながっていくこと、開かれた議論の場をつくっていくことが大切だという執筆者の方々の主張が伝わります。
最終章の道徳教育の展望においては、これまで取り扱われてこなかった領域として、情報倫理教育、ボランティア活動、いのちの教育、キャリア教育があげられていますが、ここにおいても、グローバルな視点での論述がほとんどないこと、テキストの中に、(学習指導要領の中にも)人権という言葉が用いられていないことが 残念です。

木野美穂
[PR]
by eric-blog | 2006-04-19 05:34 | ■週5プロジェクト06 | Comments(0)

ミラー・ウィズイン、第四の生き方

130-2(629)ミラー・ウィズイン
アン・ディクソン、新水社、1995
The Mirror Within by Anne Dikson, 1985

130-3(630) 第四の生き方
アン・ディクソン、つげ書房新社、1998
A Woman In your Own Right, 1982


疑問なのですが、第四の生き方では「アサーションの11の権利」と言っているのですが、わたしたちが知ったときにはすでに「12の権利」になっていました。どこで誰が最後の「わたしはアサーティブでないことを選ぶ権利がある」というのを付け加えたのか、知りたいなあ。

4つの行動パターン、アグレス(攻撃的)、ドロシー(受身的)、アイビー(作為的)、そしてセルマ(アサーティブ)という名前で、本を通してそのパターンを紹介している。

「現実的にはこのようなワンパターンの女性はいない。私たち一人ひとりがそれぞれの状況で攻撃的にもなれば、受身的、作為的、またはアサーティブにもなるのである。」18

感情表現の三段階と、著者は言うのだが、「自分が感情に気づく、コントロールする」「感情を言葉で表現する」「からだを通して表現する」113。これは不思議だ。感情は沸き起こったと同時に「からだ」に影響しているのだから。

後者の本は特に男性のステレオタイプや行動のステレオタイプなどの「マニュアル本」仕様なので、わたし的な紹介の仕方として項目を書き出しておくことはいろいろにできる本です。こういう本も、理屈での呑み込みが先走ると、大変なことになりそうだなあ。「べきだ」「と、ディクソンが言っている」から解放されない人々がたくさん生まれそうだ。どうすれば、自分で「考える」「感じる」ことが、そして、そこから発見と解放と成長が生まれるのだろうか。

それに対して『ミラー・ウィズイン』はいい。それは第四の生き方の最終章で「批判に応えて」というようなところがあるのだが、個人に焦点をあてて、社会変革に焦点をあてていないというのに対し、「しかし、大多数の女性が自分の人生を自分のものとして感じていない現状では、女性が妻であり、母である以前の、本当の自分を取り戻すことが先決ではないだろうか。」271と論じている、その内容をしっかりと伝えてくれているからだ。

「現代に生きながら、常に誠実でありつづけることは、誰にとっても困難だ。現実の世界、すなわち私たちの能力を知らず知らずのうちにむしばんでいる文化の中で、ありのままの自分の心とからだを理解し守りながら、女性として他者とかかわるにはどうすればよいのだろうか。」215
「それにはまず、自己受容という点をスタートラインにすればよい。自己受容は、他人と足をひっぱりあうことなく、親密なかかわりをもつための力になる。」215

感覚と肉体を取り戻すこと、心を取り戻すこと。自分の魂を取り戻せる。219

私たちは分断しあうよりも、互いに話し合い、耳を傾け、支えあうことを学んだほうがいい。私たちのセクシュアリティはパートナーに依存するものではない。そして私たちのからだは私たち自身のものであり、私たちはこのからだを分かち合う選択もできるのだと考えたとき、比較や競争はなくなり、祝福や喜びを共有できるようになるだろう。164
[PR]
by eric-blog | 2006-04-18 07:51 | ■週5プロジェクト06 | Comments(0)

子どもの社会力

131-1(628) 子どもの社会力
門脇厚司、岩波新書、1999

筑波大学で長く教育社会学を教えた人が59歳の時に出した本。14刷まで売れている。
教育社会学の入門書とも言える内容であるためだろうか。

1980年から、子どもの発育に変容が現れたのではないかという。日々の変化は、いついつというように確定はできないものなのだが、と断りつつも。[前書き]

母親語の消滅
初語のテレビ化
テレビ症候群--1960年代に報告が出ている。
人間関係をもてない--自閉症児化
人間嫌い、大人不信

などの傾向を問題意識として指摘しつつ、人間の社会を成り立たせているのが人間の社会力なのだと、社会性の発育、獲得に必要なことを描き、そして成育環境の変化を指摘し、対応策として大人、家庭、地域の責任を説く。

教育社会学者って、学校には関心を向けないんだよね。
学校という社会で子どもたちに何が起こっているかが大切じゃないなんてなぜ思えるんだろうか。


1970年代とどこが違うのか。なぜ、教育社会学は進化しないのか。
[PR]
by eric-blog | 2006-04-16 07:12 | ■週5プロジェクト06 | Comments(0)

それでも話し始めよう 、泣いていいんだよ

130-4(626) それでも話し始めよう
アン・ディクソン、クレイン、2005
Difficult Conversations, 2004

「難しい話題」について、相手を傷つけず、対等なコミュニケーションを実践する。
『第四の生き方』がベストセラーであるというアサーティブ・トレーナーの第一人者である著者の和訳としては10冊目ほどに当たるものだろうか。
「アサーティブとはビジネス・スキルなのか、人間解放につながる道なのか」その岐路にある時に、人間解放の側をとる彼女の本を紹介したいというのが、アサーティブ・ジャパンがこの本を翻訳した動機。

アサーティブというのは「内側からのパワー」personal powerによって、自分を社会的なパワー格差のある人々と対等に向き合う力のことなのですね。

ずいぶん、わたしたちの時代と社会は回り道をしてきたように思いますが、そのためにわかったこともたくさんあるように思います。

タテ関係の力を著者は以下のように言います。031-033
・社会的役割
・所有物による力
・専門的知識、技術による力
・カリスマ性による力
そのような「力」関係の中で、行動変容を求めようとすれば、「正しさ」による相手より優位な立場を手に入れたくなる。034
力の「はしご」に慣れすぎているために、勝ち負けが先立つ。037
勝つ保証を得るために「攻撃」する。見下げる。批判する。欠陥や間違いを指摘する。
そこに交流はない。

内側の力は、感じること、話すこと、行動の内容が一致している「調和congruence」の力。047
自分のことを親友だと思える、自己信頼感。
はしごの地位にかかわるプライドのことではない。048
特性として
・バランスをとる能力
・自分の感情を認識すること
・誠実さ
特徴は
・つねに変化し続ける
・外部要因に左右されない
・持続性

大切なことは、いままでのパターンを続けるのか、それとも変えるのかを選択することができること。053

不安、怒り、悲しみなどの感情が何を伝えているかを知る。

大切な三つの問い。
何が起こっているか
どう感じているか
何が変わって欲しいのか

++++++++++++++++++++++++++++++++++++
130-5(627) 泣いていいんだよ-母と子の封印された感情
青木悦、けやき出版、2004

ちょっと重い本だったので、単独で紹介することがためらわれました。
1946年生まれの著者が、子どもの頃に、元軍人のかっこいいお父さんと結婚したお母さんともどもに、暴力をふるわれて、自分の中に育ってしまった「どなり声」回避、失敗回避、「攻撃」回避のために培われた「性格」や行動のパターンについて書いた「当事者研究」のようなもの。

たぶん、まだ、青木さんは、泣けないんだろうなあ。
自分を二回見捨てたお母さんも許せないんだろうなあ。

なんなんだ? 子どもが育つということは?
子どもは、そして子どもたちは、親や社会の何を見て、どう育っているのだろう。
どうやら、子育てというのは、人間が大人として未熟なときにやることらしい。「ジジババ」の存在が人間と他の動物を隔絶するというのは、どこかにあったが、いまはそれも役に立たないのかもしれない。
後半は、画一化が進む「家族像」「子ども像」からのプレッシャーが、子どもと子育てを大変にしているというレポート。同調圧力、成長圧力が近代教育の産物だと言っていたのはどこだったか。
青木さんを救ったのは「教育」だったのだと、言う。書いたり、自らをふりかえったりすることができる力という意味で。「よくがんばってるな」と認めてくれた教員の一言という意味で。
[PR]
by eric-blog | 2006-04-15 12:22 | ■週5プロジェクト06 | Comments(0)