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無心の歌、有心の歌

124-3(578) 無心の歌、有心の歌
ウィリアム・ブレイク、寿岳文章訳、角川文庫、1999
Songs of Innocense and of Experience, William Blake,
詩人であり、また画家でもあった人の作品をそのまま図版で全部収録し、なおかつ日本語訳をつけ、さらに「天国と地獄の結婚」も収録して、カラー印刷で、価格が1000円! 角川文庫恐るべし。

同じ詩集だと思うのだけれど、集英社から出されている『無染の歌・無明の歌』は上下2冊で2万円!

1757-1827年。本人は貧窮のうちになくなったそうだが、いまなら印税で食べれるんじゃないだろうか。それとも、著作権が切れた頃から出版界は「古典」をもてはやすのか。

いやいや、シニカルになるのはやめよう。ブレイクは、自分自身によって満たされていたのだと思うから。そして、わたしがなぜ彼とであったのか、は、ダイソンが収録していた「老いたる無知」からだ。

ここにも、キリストをどのようにとらえるか、について『誰も知らない男』と同様のスタンスがあったことを知る。キリストは、愛と喜びの心を伝えたのだ。信仰の形ではなく。

無心、あるいは無垢(文庫版に寄せられた中沢新一さんのことばによると)というのは、そのまま、命の喜び、「あること」を喜ぶ姿が歌われている。

さて、問題は「Songs of Experiences」だ。有心と訳すのか、あるいは無明と訳すのか、この大きな違い。これは現実、無垢な心がこぎ出て行く世界の冷たさ、つらさを歌っている、と考えると無明、明かり、助けのなさ、そして絶望、と訳せるのだが、では、それを嘆いている人がいる、嘆いている心がある、これでいいのかと訴えている節がそこにある、ことを考えると「有心」が見えてくる。そんな構造になっているのが、後半なのだ。

無心、無垢はまた無知とも訳しうる。でも「無知の歌・世知の歌」じゃあ、味わいがぐっと少ないよね。わたしなら「無心の歌・有情の歌」とでもするかなあ。無心というところに、集中力を感じる分、無垢より軍配があがるんだよね。無染じぁねぇ、愉しんでいる風景が見えない。

「春」という歌の第一節にはそのまま俳句の心すら感じます。
じっくり、和訳を愉しみながら、味わいたい詩集ですね。

これは買おうと思います。
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by eric-blog | 2006-02-28 08:54 | ■週5プロジェクト05 | Comments(0)

学習性無力感の時代

学習性無力感の時代

近代個人主義は、物事がうまくいかない時、その原因を個人に帰することを求めます。そのために、「近代化により,,,われわれは、多くの機会と選択を持つほど、失敗の可能性も大きく
なる。,,,失敗理由を内的、永続的、全体的に説明することを、近代化が支持・是認
するほど、抑うつ的説明スタイルは強まっていく。われわれは個人のコントロールを
人間にとって重要なものと考えるので、個人が失敗したときには、自責−−永続的で
全体的な欠点−−−がもっともらしい説明となる。」226注1
そして、グローバル化した情報化社会においては、環境統制感の届かない、「わたし一人が何かしたって」「わたしには何もできない」「わたしには関係ない」というような無力感も学習します。注2
そして、地球温暖化や熱帯林の破壊などの地球環境問題は、わたしたちの社会開発、発展のあり方そのものが、わたしたちの生存基盤を危うくしていること、わたしたちの社会が失敗したことを突き付けています。
その背景にある近代科学物質文明、産業化社会の限界と失敗にも直面しています。注3
さらに、中等教育段階の中核とされている教科教育カリキュラムは、高等教育進学者に向けての「選抜」のための体系化、すなわち一度つまづいたら、その教科・科目の授業内容についていくことが困難になる構造によって創られています。注4
日本社会が人間を幸せにしないのは、このような近代を越えていかなければならないこの時に、前近代の遺物を振り回して思考停止を求める人々が、対立しにくい言語構造と社会構造にのっかって、恰も自分達が正義であると、声高に叫んでいることです。注5
難しい時代に、協力をすることがほとんど不可能になってしまう状況が生み出されています。
どうして、近代の限界が見えないのでしょうか。どうして、前近代に戻ることが答えだと思うのでしょうか。どうして、前に進む道を共に探れる条件を考えようとしないのでしょうか。
わたしたちが実現したい持続可能な社会の普遍的な共通の条件は明確です。
・人間のそこそこの安全保障が満たされている[恐怖と欠乏からの自由]
・秩序ある安定した社会として、平和的に変化する
・地球の生物的物理的限界、有限性に適った生活の質を学ぶ
・向上心、好奇心、挑戦する気持ちが満たされる
それは、さまざまな国際機関、条約、合意、研究が、すでに言い尽くしていることです。それを実現するための具体が、いま求められているのです。

【参考文献】
注1 学習性無力感-パーソナル・コントロールの時代をひらく理論
ピーターソン,クリストファー、マイヤー、セリグマン、
二瓶社、2000
注2 無関心の悪循環
注3 地球市民の条件、ヘンダーヘソン,ヘーゼル、新評論、1999
注4 誰のためのデザイン? 認知科学者のデザイン原論、D.A.ノーマン、新曜社、1990年、2005年20刷
注5 敬語で解く日本の平等・不平等、浅田秀子、講談社現代新書、2001
  多文化世界、ホフステッド
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by eric-blog | 2006-02-27 17:19 | ☆よりよい質の教育へBQOE | Comments(0)

先生が壊れていく

124-2(577) 先生が壊れていく 精神科医のみた教育の危機
中島一憲、弘文堂、2003、2005年3刷

東京都教職員互助会と契約がある三楽病院で1990年から精神神経科に勤務した医師が、その臨床経験から書いたもの。
『半分病気』が当人から書かれたケースということができるとすれば、この本は俯瞰して書かれているところが、特徴である。

特徴として
・受診数が増えている
・公立学校の教師の仕事関連ストレスのレベルは高い
・受診者の7割が抑うつ状態、その中の2割が狭義のうつ病で、残りの5割、すなわち受診者の半分は職場内での不快な出来事によるストレスから直接引き起こされる「反応性うつ病」である。これは一般勤労者にみられる割合より高い。
・しかし、重症者が増えているわけではない。

プロローグより

ストレスのもとは
・子どもの変化
・保護者の変化
・異動
・教育改革に伴う行政現場立場方法論の食い違い

さらには年代別に
・教職そのものへの適応不足 20代
・管理職への昇格 40-50代
・家事家族関係 女性

著者は「学校メンタルヘルス」への取り組みが大切だ、と個々の教師への目配りを基盤に提案しています。
しかし、それだけでは学校現場は救われないことも、社会的な要因から明らかにしていきます。第三部189-
・進歩脅迫症候群
・不適応を起こしていることから目をそらすためのスケープゴート心理
・「心の時代」における落とし穴 心を病んだ人間が弱者の権利だけを主張する
・公務員という「守られた」立場から来る「欠勤依存症」

「下医、病いをいやす。中医、人をいやす。上医、国をいやす」
医師のあり方にも警告を発し、「現実を全体として直視していくこと」そして「自律する精神」を生かすことのできる社会をと提言しています。

社会の分析とそこから生じる内面的な心理にも踏み込んでいるところがとてもわかりやすい本でした。


*スケープゴート心理というのは、人間の自己肯定感のために自他を「差異化」して
認識することが差別の温床になっているという考え方。

2006年2月24日丸の内丸善、1600円
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by eric-blog | 2006-02-27 11:03 | ■週5プロジェクト05 | Comments(1)

誰のためのデザイン?

124-1(576) 誰のためのデザイン? 認知科学者のデザイン原論
D.A.ノーマン、新曜社、1990年、2005年20刷
The Psychology of Everyday Things, 1988, Donald A. Norman

最近では、図書館の蔵書検索でチェックしてから買うことも多いのですが、20刷にもなっているこの本が北区にはないというのは驚きでした。

これからは購入したものについては、「購入」と明記した方がいいですかね。借りて読んだ後、購入したものもかなりあるのですけれど。値段などは、いまや簡単にインターネットで検索できるので、あまり重要な情報だとは思っていないので、これまで紹介していませんでしたが。

1980年代の知見は、これほどに古びるのか、という面がかなりある本です。彼が異議申し立てをしたことのほとんどは、改善されているように思います。わたしが大学院に行っていた頃活躍されていたのは、交通心理学の先生でした。どうしたらマナーの悪い大阪の運転者を行儀良く行動させることのできる交通規制がありえるかなど、人間の行動を物理的制約、社会的規制、認知傾向にかなったデザインなどによって、どんどん改善された時期です。ユニバーサル・デザインというのは、このような認知科学デザインの延長上に出てきたことなのでしょう。
商品開発への女性の登用なども、ユーザーからの視点の重視傾向と同期していたように思います。

洗濯機、VTR、オーディオなどの電化製品から、本や蛇口や時計まで、日常の中にあるもののデザインの由来と使い勝手を検討しているのがこの本です。
使い勝手は「物理的・意味的・文化的・論理的」な制約によって方向付けられます。それらの方向付けが組み合わされて、使い勝手のよいものができる、というわけです。

しかし、科学について、委員会が犯す過ちに「科学的正当性よりも、社会的地位を追い求める競争で勝利するのは、常に「より大きなプロジェクト」である。」とダイソン123-1(571) が指摘したのと同じことがデザインでも起こるようです。
・スピードと目新しさを求める市場 229
・「たぶん賞でもとっているんでしょう」 246
・顧客とユーザーの乖離 256
・なしくずしの機能追加主義 281

科学はビッグだ、デザインは見た目だと出資者は思っているようなのですね。

ノーマンは、カリキュラムなども「デザイン」だという。そして、「数学の授業計画」は「教えられた無力感taught helplessness」モデルの典型としてあげられている。68
「あたかも誤解を生み出すために作られているかのようなひどいデザインのものや誤ったメンタルモデル、そして貧弱なフィードバックのもとでは、あるものを使ったときに何か問題があれば、自分が悪いと思ってしまうのも無理はない」「いったん失敗すると、自分を責めるということによって、数学一般にすぐ般化してしまうことが問題なのである。」「悪循環は次のように始まる。何かで失敗したとき、それは自分のせいであると考える。そのためその作業は達成できないと思う。その結果してい、次にその作業をしなければならなくなっても、できないと思うのでやってみることさえしなくなる。その結果、あなたが思ったとおり、できない。こうしてあなたは、自分が予想した通りのことが、まさに予想したことによって実現してしまうという自己成就予言のわなに落ちてしまうのだ。」69
人はどのように作業をするか、というのを行為の七段階理論で説明している。74-78
・ゴールの形成
・意図の形成
・行為の詳細化
・行為の実行
・外界の状況の知覚
・外界の状況の解釈
・結果の評価
それぞれの段階ははっきりと分離されるものではなく、近似的モデルapproximate modelであり、このまま起こるわけではない、と著者は言う。おおまかに言うと、ゴールがあり、実行があり、フィードバックループにつながる評価があって、行為は完結する。評価の段階も三段階に分かれているところが、「行為」にとって大切なことなのだということがわかる。

デザインについて検討するときの質問もこの七段階理論から導き出される。85-86

・装置の機能を見極められるか
・どんな操作をすることができるかを知ることができるか
・意図を実際の行為に対応付けられる関係を見つけられるか
・その行為をすることができるか
・システムが期待通りの状態にあるかどうかを言えるか
・システムの状態と解釈との間の対応付けがわかるか
・対象システムがどんな状態であるかわかるか

よいデザインの原則は次のようである。
・可視性
・よい概念モデル
・よい対応づけ
・フィードバック

65億人の人々が生きているこの地球そのものがは、グッドデザイン賞ものだ。そのグッドデザインを生かす生き方をすべての人々が習熟できるようにすることが、BQOEに求められるデザインなのだ。そんなに難しいはずがない。答えはユーザーであるわたしたちの中にある。

2006年2月24日丸の内丸善、3300円
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by eric-blog | 2006-02-27 10:33 | ■週5プロジェクト05 | Comments(0)

教育段階別目標の明確化

BQOEを実現する
教育段階別目標の明確化

教育についての議論が混乱するひとつの原因は、公益的学校教育の目標を、段階別に承知、了解、合意した上での議論になっていないからだと思います。そのため、「基礎基本が大事だ」とか「総合的な学習が大事だ」あるいは徳育が大事だ、というようなばらばらとした主張の言いっぱなしに陥っているのです。

初等教育、中等教育、高等教育というように分けて考えてみると次のように言えるのではないでしょうか。
初等教育では、言語、特に「文字」の獲得が大事になります。文字の獲得というのは人類史上かなり遅い段階で獲得された資質で、アフリカなどの地域によっては「無文字」であることを選択している文化もあるほどです。文字を習熟することの意味をしっかりと押えた上で、全体言語的に読み書き算が習熟されること、そして、言語や数字で考えることができること、伝えることができること、つまりコミュニケーション能力と、コミュニティ意識を育成することが大事なことだと言えるでしょう。
中等教育段階は、学校制度が始まってから、義務教育となった歴史的が浅いものですが、「市民性教育」「職業準備・探索教育」が大きな柱となります。憲法にうたわれている国民の2大義務である労働と納税の義務を果たすためには、近代社会において中等教育レベルの準備は不可欠だと考えられるからです。
中等教育は前期中等教育、すなわち中学校レベル、と後期中等教育、高等学校と日本の学校制度上は義務教育と義務教育でないものと大きな違いがあります。しかし、子どもの権利条約において、18才以下が「子ども」という特別な配慮が必要な存在であると国際的にも、普遍的にも認められるようになっている現在、義務教育に準じた考え方で営まれるべき、普遍的に提供されることによる公益的性格の高い教育段階であると考えるべきでしょう。すなわち、18才以下までの教育は「すべての人々」が享受することができる教育段階であるということです。
高等教育は、科学者、専門家、医療関係、教育、法曹、官僚や政治家などの専門的な知識が求められる職業につく人々のための職業教育という面と、研究職の育成という側面の両方を持つものです。Specialistでありながら、高い教養に支えられたGeneralistであることの教育とトレーニングが求められるのです。

1960年代の科学教育進行政策のおかげで、中等教育段階における教科教育カリキュラムの体系化が進みました。しかし、米国では、1970年代には早くも「教育の人間化」という動きによって、中等教育が高等教育の準備段階と位置付けられることは、すべての子どもたちのニーズにあったものではないことが主張され、「学習者にとってレリバント、関連性のある内容を」「考える力やスキルを伸ばす方法で」「学習者を次の段階に準備するために」教育はあるべきだというように、教科教育の体系化のベネフィットは活かしながらも、学習者中心のカリキュラムに中等教育段階のカリキュラムが変革されていくのです。

わたしたち人間は「考える」生き物です。「学ぶ」生き物です。社会的生き物ですし、互いを必要とする生き物です。共にいることに喜びを感じる生き物ですし、互いを尊重することを学ぶことができる生き物です。その力を信じ、伸ばそうとする教育課程を考えるのか、それとも、人間は「管理」されるべき生き物だと考えるのか。人間ひとりひとりにすでに力が内包されていることを信じて伸ばすのか、人間は注入されるべき、受け身の存在だと考えるのか。

わたしたちの次の世代が、わたしたちの社会に元気一杯で参加し、次なる担い手と成長してもらうために、必要な教育は何か。なぜ、どのような内容の教育が「すべての人々に教育を」と求められているのか、考える必要があるのです。
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by eric-blog | 2006-02-25 15:32 | ☆よりよい質の教育へBQOE | Comments(0)

司法修習生が見た裁判のウラ側

123-5(575) 司法修習生が見た裁判のウラ側
司法の現実に驚いた53期修習生の会、現代人文社、2001

裁判官と検察は独立した存在でなければ、公正な裁判はできない。しかし、検察庁と裁判所が同じ場所にあって、裁判官と検察官の交流パイプは太い。この本は、裁判のあり方をゆるがす両者の関係と、任官に働く「力の濫用」問題、そして検察の取調べの問題について、問題提起を行っている本である。

この本の編集にあたったのは、5人の弁護士。53期の修習生から弁護士になった人々だ。裁判官、検察官への任官枠は、弁護士になる人数より少ない。53期は12クラスあるようで、全体の1/4が女性であるにもかかわらず、検察任官の女性枠は各クラス一人。って全体は何人だったんだ、1999年4月から2000年10月までの1年半の司法修習を受けたのは。
53期という数え方はいつから数えて53期なんだ?

49期から53期で弁護士になったのは2857名。らしいのだが。

インターネット検索でもわからない。どうやら現在1000名程度を3000名/年にしようという計画があるらしい。

人数の急激な増加で、制度的にもいろいろなことが変わっていくだろうな。そして、社会も。そのあたり弁護士ごろごろ時代になっているものね。定年制度もなさそうだし。

ロースクールという制度もできたし、陪審員制度も始まったし。

ちなみに、教員の新規採用は2万人から3万人程度が、順当な世代交代枠です。教育に力を入れて人間的な生活の質を高めるように努力するのか、法曹界に代表されるような管理に力を入れるのか、これからの社会のあり方の根幹が問われているように思います。

もう一冊読んだのが『日本警察崩壊』小林道雄でした。
彼の本は、『退化する子どもたち』とともに紹介しようと思います。
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by eric-blog | 2006-02-25 09:38 | ■週5プロジェクト05 | Comments(0)

科学の未来

123-4(574) 科学の未来
フリーマン・ダイソン、みすず書房、2005
Imagined Worlds, 1997

科学モノを読んで、涙が出た。
カナダ映画の「コズミックワールド」がミクロからマクロの世界を見せてくれたのに対して、ダイソンは、55億年前のビッグバンから55億年後の宇宙までの予測までのナビゲーターを務めてくれる。

ダイソン、74歳の著書である。若くして核の平和利用に道を開く研究に携わり、そして最近では核実験を伴わない核兵器の保持能力についての研究に関わり、核兵器が式典のために養われている騎兵隊の騎馬のような存在になる未来の可能性を描き出す。20世紀後半の科学の変遷を、体現し、科学の道を選ばなかったヒッピー世代の息子との接点を取り戻し、社会の変遷を体現してきたことのおもしろさが見える。

最後の章「倫理」から、二つを紹介しよう。

「労働者の望みは何か。
学校が増え、刑務所が減り、
本が増え、銃が減り、
知識が増え、悪徳が減り、
余暇が増え、貪欲が減り、
正義が増え、復讐が減ること。
そして、われわれの天性のよい面を養う機会がもっと欲しい。」
サミュエル・ゴンパーズ 155
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老いた無知

時間の海に溺れ、
長年の深い無知の中で、
神聖かつ冷酷に、
月下のあらゆるものの羽根を切る。

『天国の門』ウィリアム・ブレイクより 179
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by eric-blog | 2006-02-23 09:52 | ■週5プロジェクト05 | Comments(0)

北九州研修

2日間の人権研修でした。とても良かったです。BQOEを共有できたのがうれしかったです。
教育の質を高めることでわたしたちは何が達成できるか↓a0036168_165661.jpg



ファシリテーターの資質向上に取り組むための標語作り↓、いずれもおもしろかったです。

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by eric-blog | 2006-02-22 16:05 | □研修プログラム | Comments(0)

大林先生はなぜ死んだか

123-3(573) 大林先生はなぜ死んだか 高校教師がたどった「過労死」への道
村田有、高文研、1993

1991年5月9日に亡くなった大林さん。ちょうど1980年代後半の教育改革のあり方がよく見える本である。

古河三高は、1990年度から92年度までの三年間、茨城県の「学力向上推進研究指定校」であったという。

高校を大学受験の予備校化すること、それが教育改革と言えるのだろうか。

進学校以外にも進学の波、推薦入試などの制度の多様化、生徒指導に求められるものの質的変化、などなど、1974年に教員になったいわゆるベテランの先生が走り続けて息切れた現実が、克明に描き出されている。

誠実であるからこそ、先生であるからこそ、「走らされた」教育改革の現実。

わたしたちは、「走らされる」のではなく自ら「走る」学校を創ることができるのだろうか。それが課題なのだ。なぜ、こうなるのだろうか。

戦えば必ず負ける
もっとも恐ろしいのは、被災者や遺族たちが戦い続けること

そう後書きで著者は言います。人権は主張しなければ、守られる社会を創ることはできない。
その訴えをつぶそうつぶそうとする側は、いったい何を守っているのだろうか。

と思う反面、勝ち負け、競争、なぜ、そこに取り込まれるのだろうか、という思いもぬぐえない。結局、また自分の人生が「走らされる」だけにしかならないのに。

わたしたちが学んできたものはイエ・ムラの論理しかなく、それを越えた公共性の欠如と公共のルールの欠如、ルールの明示とルール作りへのすべてのステイクホルダーの参加としか、わたしには言えないんだけどな。そして、そのルールとは、人間が人間らしく生きることができる社会づくりのためのルールでなければならないはずなんだけど。
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by eric-blog | 2006-02-20 10:04 | ■週5プロジェクト05 | Comments(0)

親のしごと教師のしごと

123-2(572) 親のしごと教師のしごと 賢治の学校の挑戦
鳥山敏子、法蔵館、2000

宮崎県綾町にいま賢治の学校は実験農場つきの学校を運営しているらしい。というのが、岩手や岐阜、東京の賢治の学校はインターネットにひっかかってくるのだけれど、綾のはよくわからない。

1941年生まれ。やろうと思ってではないけれど、1964年から小学校の先生。そして1974年くらいから竹内敏晴、野口体操・整体などに取り組み、たくさんのワークショップを手がけてきた人である。いま岐阜大学の研究者が、彼女の周りの人々に聞き取り調査をしているらしい。

この本からは、時代の流れは終えないが、学校が何に病んでいるのか、は見えてくるように思う。しかも、親との関係で言えば、何代も続いて作り出されている問題のようにも見える。人間関係中心のワークは、わたしは苦手だ。唯一の救いは、変化していける姿、かな。

娘さんのつながりでシュタイナー教育にも出会われているとか。そう言えば、稲垣さんも、「僕のやっていたのはシュタイナー教育やったんやなと、後で知って思うた」と言っておられたな。

何をシュタイナー教育と言っているのか、それぞれの理解もそれぞれなんだろうなあ。鳥山さんの娘さんの活動はオイリュトミイストと紹介されているし。

学校は人間研究所になれると思うんだよね。人間の根源としての生命や地球などに向き合うとしてもね。

ということで、友達を紹介してもらいました。

郷田実『結い心』
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by eric-blog | 2006-02-20 09:38 | ■週5プロジェクト05 | Comments(0)