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靖国問題

102-3(480) 靖国問題
高橋哲哉、ちくま新書、2005

週5でも何回か登場されている高橋哲哉さんが、靖国問題についての論点をまとめたもの。
靖国をめぐる「感情の問題」「歴史認識の問題」「宗教の問題」「文化の問題」「国立追悼施設の問題」というように整理されている。いちばん最初に「感情」の問題から入っているのが新鮮であったが、わたし自身もすでに3回ほど「カウラの大脱走」のアクティビティを行ってみて、感じたことは「感情」の部分でのことだ。
捕虜収容所において言われたという「いま、このときも戦っている戦友がいる」とか「ともに戦って、ともに死のう」とかいうことばに対して、心がすくむ気がするのだ。
高橋さんは「感情の錬金術」と表現されているが、「敵国の捕虜をかわいそうだと言うな」とか、感情にまで踏み込んで自由が許されない、そんな時代だったのだと思う。錬金術と表現すると上手さが際立つが、わたしは「感情の国家統制」とすら思ってしまう。あるいは「感情のハイジャック」状況。
それは声高に、単純なことを叫ぶ人々に対しても感じること。

「政教分離裁判で、...首相による靖国参拝は「合憲」と認定して確定した判決はひとつもない」115
ことはしっかりと記憶しておく必要があるだろう。

また、ギリシア時代のペリクレス演説などをひきながら、「国家」が「追悼」するということの意味は、次のようであると言う。
「国家が「国のために」死んだ戦死者を「追悼」しようとするとき、その国家が軍事力をもち、戦争や武力の可能性を予想する国家であるかぎり、そこには常に「尊い犠牲」、「感謝と敬意」のレトリックが作動し、「追悼」は「顕彰」になっていかざるをえないのである。」205

「戦う国家とは祀る国家である」(子安宣邦『国家と祭祀-国家神道の現在』青土社、2004)
そういう意味で高橋さんは国立追悼施設にも疑問を投げかける。軍関係の人々だけを「国のために死んだ人」として祀ること、その軍によって殺された人は祀らないであろうこと、遺族の意志に関係なく「国家の側の意志」(靖国の場合は「天皇の意志で」祀られている)で祀られるであろうこと、などがその危惧だ。

信教の自由がどんな人権侵害のアリバイにもなってはならない、としながら、そのためには徹底した政教分離のもとでしか保障されないのだから、「靖国問題」の解決は次のような方向でなされるべきだとする。235

1. 政教分離を徹底し、国家機関としての靖国神社を名実ともに廃止すること。参拝などによる国家と神社の癒着を完全に絶つこと。

2. 靖国神社の信教の自由は、合祀取り下げを求める人々の権利の尊重の上にあること。
今年、戦後60年を経て、なぜ、いま、国際理解教育を推進する立場にあるわたしたちが「靖国問題」や「戦争捕虜」の問題に関心を寄せ、学ばなければならないのか。

人類共通の課題に気づき、問題解決に協力する、そのための知識・理解、態度・姿勢・行動・意欲を育てることを目標として1970年代に始まった国際理解教育は、いま、「持続可能な社会」のための教育と名前を変えて、再度その重要性が国際的にも認識されている。しかし、国際理解教育はかならず「自国の文化」についての学習とセットで語られる。また、持続可能性は、かならず「里山文化」など、かつての循環型社会とセットで語られる。持続可能な社会のための教育内容のひとつとしての環境教育には、自然観察や自然体験学習がセットで語られる。
それらのいずれにも、「情緒的」に流れる傾向がある。米国やイギリス、北ヨーロッパなどの「学び方を学ぶ」「考え方を学ぶ」ための教育カリキュラムの整備が日本では遅れているためでもあるが、しっかりとした教育者育成制度ができていないせいでもある。
情緒的に流れる「自国文化」「里山」「自然体験」学習活動は、必ず「伝統回帰主義」とどこかで抵触する。その流れの延長として、「感情のハイジャック」に対してvulnerableな人間形成につながっていく。そんなことが、「伝統」によって性別格差を呑まされてしまう可能性の高い性にある者として、常に恐れがある。
それがひとつ、そして、もうひとつが「人権」である。戦争は最大の人権侵害である。そんなことがわかっていたところで、戦争はなくならない。しっかりと一人ひとりが自分の人権について主張できること。そして、人の人権を侵害することにいやだと言えることが大切だ。
一人ひとりの自己決定のために、「伝統」が国民国家という120年ほどのフィクションであるということを知ることは大切なことだ。

いまや「戦争」は国対国の問題ではなくなっている。だからこそ、国際社会としてどうするかを考えようとしている時代に、いまあることをしっかりと伝えよう。

日本は、洋の東西、経済の南北、地政学的独立性、60年間の不戦の歴史など、国際社会にユニークな地位を占めている。そんな位置から、国際社会に対して貢献し、発言し、行動できること、その大切さを認識したいものである。信義は、培うのに時間がかかるが、なくすのは早い。明治維新から60年間、戦い続けた国が、60年間の不戦でやっと取り戻しつつある信義もあるのではないか。
なくしていいのだろうか。なくしてしまってから、後悔するのではなく、しっかりと、自分たちの選択の結果の影響を考えられるように、子どもたちを育てたい。
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by eric-blog | 2005-09-30 10:34 | ■週5プロジェクト05 | Comments(0)

あなたはなれる? 職業・結婚・階級差別

あなたはなれる? 職業・結婚・階級差別

研修そのものが、新たなアクティビティ開発のきっかけを与えてくれることはよくあることです。今回も、二つの新たなアクティビティを開発し、検討しました。少人数研修ならではのことですが。

そのうちの一つが、表記のもの。
いまも、昔も結婚差別は当人というよりは、まわりの親戚の、そのまた子どもの就職や結婚に影響するから、というような「おじおば」あたりからのちょっかいが多いようですね。これって何なのだろうか、と思った疑問がこのアクティビティ開発の背景です。

ワークシートのダウンロードはこちらから
https://drive.google.com/file/d/0B3BtpOgiqhyrWW9FWjJRSnZtaWM/edit?usp=sharing

チェック!!! あなたはなれる?

・国家公務員
・地方公務員
・公立学校の教員
・市議会議員、県議会議員
・国会議員
・閣僚
・大学教授
・国立大学教授
・警察官
・自衛官
・医学博士
・歯医者
・国技相撲
・歌舞伎役者
・NHK社員
・天皇家との婚姻関係
・公家との婚姻関係
・ロスチャイルド家との婚姻関係
・イギリス王室との婚姻関係
・アイビーリーグの大学生
・三井三菱住友系の企業社員
・原子力産業社員
・祇園祭の氏子
・お寺の檀家
・キリスト教徒
・仏教徒
・イスラム教徒
・公明党員
・共産党員
・自民党員
・農協組合員
・生活協働組合員
・僧侶
・神官
・スポーツ選手

そして、それぞれにおける幹部となれば、どうでしょうか。「  の妻」は?

民主主義というのは、権力の不在ではなく、権力が民のために行使されることを保証するための装置にしかすぎない。法治主義は、その権力の行使のルールを決定することだ。そして、フランシス・フクヤマが言う「歴史の終焉」は少なくとも日本社会については当てはまっている。イデオロギーによる社会体制の転覆、あるいは階層の逆転という革命は起こりそうにない。政党すら交代しそうにない。
つまり、権力の座にある人々が、力によって追い落とされる可能性がほとんどない社会になっている。
特権階級の存在は、わたしたちの社会の大多数には影響がない。しかし、正義が実現され、「秩序ある社会として安定」した体制がもたらされたことによって、つまり民主主義によって、そして資本主義の中で、温存されることが確定した階級もあるのだなと、少々苦笑。学力という能力も、家族の経済力に比例するということもほとんど固定化しているいま、ロールズは、現代階級化社会をどうみるのだろうか。

モザイク社会で、自分たちの宗教と階層を維持したいがために、近親婚がくりかえされているという話を、ヨルダンで聞いたことを思い出した。

国際社会が描いた夢は、どこへ行くのだろう。

「近代化により,,,われわれは、多くの機会と選択を持つほど、失敗の可能性も大きく
なる。,,,失敗理由を内的、永続的、全体的に説明することを、近代化が支持・是認
するほど、抑うつ的説明スタイルは強まっていく。われわれは個人のコントロールを
人間にとって重要なものと考えるので、個人が失敗したときには、自責−−永続的で
全体的な欠点−−−がもっともらしい説明となる。」『学習性無力感』より

国際社会の未来を、一人ひとりの尊厳と交流による豊かさにつなげる鍵は、教育にあると思うのだが。それも、メリトクラシーの幻想にしかすぎないのだろうな、とも思う昨今です。
ま、でも、いろいろな階層の人々が対等に話し合えるコミュニケーション能力は、いつの時代にもグッドだと思いますがね。そのあたりを「参加型学習」の副次的な目標にでもするか。わたしの口調では園遊会には招かれないことは確実だが。

日本社会の「階級遵守願望」の強さにちょっぴり触れて、ブルーなかくたがお送りしました。レッスンバンクになる時は、もう少し平静さを取り戻していると思います。
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by eric-blog | 2005-09-29 13:01 | □研修プログラム | Comments(0)

ルーツに触れた旅

ルーツに触れた旅
2005年9月23-24日徳島県由岐町伊座利、海部郡海南町浅川、室戸岬、その他
アンド25日 奈良県明日香村

親孝行にと思って、74歳の母と80歳の父を連れて徳島に行ってきました。「海を渡って、ルーツに出会った」気持ちがしました。
父の里である伊座利には、わたしもごくごく小さい頃来たことがあるはずだと母親が主張するのですが、ソンナコト、覚えていません。ということで、初めての訪問。

漁村留学で有名になっている伊座利ですが、いまも小学生13名、中学生9名がいるそうです。その内伊座利の子は一人だけ。親子で一年とかの期間来る人もいるようです。
http://www.nmt.ne.jp/~izarikou/
人口100人足らず、戸数20個ほどもあったでしょうか。父の頃は、伊座利史上最隆盛の頃で、人口も300人とか400人とか、そしてなんとその半分が子どもだったというような「若い社会」の時代だったのだそうです。

昭和40年代に、父親やそのひとつ上の世代の人々によって、寺や神社に洗心鉢や神馬像を寄贈するなど、いくつかのイベントがあったことは、わたしも薄々知っていました。現地を訪ね、それらの姿を見ていると、故郷を離れてしまった人々の、それでも故郷を思う気持ちが、その土地に生き続ける人々の気持ちとうまく交流できる場所として「社寺」があるのも悪くないと思いました。古い建物や様式がそのまま残っているのです。彼岸のせいでしょうか、いずれもきれいに掃き清められていたのも好印象でした。

小学校中学校の合同の校舎は新しいコンクリートの建物です。お泊りもできる「交流館」があるそうです。町中には廃屋になっている家も何軒か見かけました。せまい通路に軒を連ねた「漁村の町」としてフィールドミュージアム的な修繕が進むといいなあと、思いました。所有権者との調整について、大胆な条例の制定が必要です。

これまでの人間の歩みに、思いをはせる場所、その蓄積に感謝する場所として、「変わらないもの」があるのも面白いですね。

何よりも、父親が伊座利への山越え「明神山」の登山口の峠まで来た時に、いっきに若返ったのを見て驚きました。「ことばは環境とともにある」わたしがカンボジアで経験したのと同じように、自分の通った山道、地名、風景や特徴とともに、どんどん言葉があふれてくるのです。自分の存在と環境をつなぐ言葉が、失われずに、しっかりとそこにあったのです。変わらぬ自然の姿のおかげでした。見ていてとても不思議な体験でした。

住んでいた家の隣は、代替わりして、「となりのバーやん」と思った人が、自分と同じ世代の人であったり、またその多くも亡くなっていることなど、人の変化には、父親はかなり気落ちしていました。

その後、母親の実家を淺川にたずねました。
そこには、わたしが子どもの頃毎夏を過ごした家が、生活とともにそのままありました。多少台所や洗面や風呂は変わっていますが、家そのものは変わらず立っていました。

沖縄の伊平屋島に、沖縄の人々のルーツにあたる泉があり、その水で産湯を使い、病気の時にはその水を取りに来るといいとうような話を聞いたことを思い出しました。人間は不思議な生き物です。

このルーツ感覚と、それが与えてくれる確かさの感覚とは、人間にとって何なのだろうかと、考えさせられる旅でした。わたしも、仕事の場面では「長老」側になり、気持ちや行動が年寄りじみてきたなと感じることが多かった昨今ですが、田舎の70.80のおばあたちに再会し、また、父親や母親をケアする子ども側になったりしたおかげで、なんだか、また別のバランス感覚に、からだが組み変わってしまいました。同時代の世代バランスの現実にしっかりとからだが意識付けられたような感じです。今年50歳になったわたしにとっても、貴重な旅でした。

いま、コンクリートのマンションの、いつ改築されるとも、どのように変化していくライフスタイルであるのかも知れない生活の中で、大切なルーツは「価値観」なのでしょうか。あきらかに、わたしの父親のような育ちではない育ちが、いまある中で、しっかりと「人間」という価値についてつなぎとめられる「アンカー」「もやい」が必要ですね。
父親の場合には、自然と人間の営みとの出会い、それは家庭教育や学校教育にだけ求めるにはあまりにも異質なものであるように思います。

また、父親と母親の違いもおもしろいものでした。わたしは淺川も懐かしく、お墓の山やら、あの川この道と歩き回りたいのに、彼女はあっさりしているのです。頻繁に来ているためかも知れません。国道55号と「国鉄」牟岐線は、わたしの覚えている「おばあちゃんの家」の様相を変えてしまった国策による道路と線路ですが、それが母親と田舎の関係の違いにも影響しているようです。アクセスは便利になりましたが、そのため変化の度合いが大きいのです。
「おばあちゃんの家」は、沖縄で言えば「アタイ」のような家畑が広がる400坪ほどの敷地で、井戸もあり、暮らしやすい田舎のライフスタイルがあった場所でした。母親とわたしの価値観は、「あんなもんとおさへんかったら良かったのに」で一致しています。

この旅にはもう一つ、付けたしがありました。堺市の実家に帰ってから、レンタカーを返しに行くのに、少し時間的余裕があったので、今度はわたしたち夫婦だけでかしわら神宮(漢字が出ない)と明日香村をたずねました。南阪奈道路を通って、仁徳天皇稜から東に一直線です。
広々と、明治天皇の江戸遷都に伴って移築された京都の御所が本宮をなすこの神社は、「神武天皇」を祭る「国策」の神社です。伊座利に「日本人」が入り込んだのはいつ、どのようにであったのか、まだわたしは父親に尋ねる機会はありませんが、軍国少年の彼が予科練に応募し、一年半を過ごし、多くの人命を失った航空隊予科練甲13期の「殉国の碑」は、そのかしわら神宮の一隅、畝傍山への登山道の入り口にあった集落跡地を開いて創られていました。「若桜友苑」と名づけられたその場所は、ボランティアによってきれいに整備されていました。「国のために、君を称えて」逝った人々の数は、航空母艦「瑞鶴」沈没に伴う戦死者を入れて5000名余り。

なくなられた方々に合掌。しかし、「国」が間違っていたこと、その「国」の最高責任者だった人がいたこと、また、その時代の教育が捕虜の人道的な扱いや兵士の人命などについての国際標準と大きくずれた教育内容であったことは、しっかりと認識しなければならないと思います。「防衛に有利な島国、しかし中国を攻めるには小国すぎる」地政学的な認識も、過去の経験からありえたことでしょうに。(77-3-357『鉄砲を捨てた日本人』参照)
わたしたちが国際社会に生きるということは、守るべきルールとルールをよりよいものにするために参加する責任とがあるということの理解であるのです。国際理解教育とは、そのような国際的な共通基盤を地球社会のすべての人々に提供しようという決意のことなのです。

伊座利の社寺の大きさと、かしわら神宮の大きさ広さ、そして伊座利の人口と一隻の空母でなくなった方々の数、甲13期の予科練生の数。わたしたちの「暮らし」と「国」について、考えさせられた体験でした。なんのためのフィクションなのでしょうか。しっかりと考える必要があると思います。

簡単な結論のでる問題ではありませんが、人の心を呼び覚ます山河とそこにあった生き方をここまでずたずたに変えた「国」でもあること、そして、その国のあり方に、いまわたしたちは責任があるのだということを、わたしは忘れることができません。

いま、コンクリートの中で、「根無し草」にされつつある人々が、刈り込まれていく先のひとつが、このような「神社」のルーツ感なのだろうか。どのように子どもたちを育てていけばいいのか、「価値観」の教育を早急に実現していく必要があると思いました。

ま、教育は時間がかかるから。国際理解教育は、1970年代からすでに取り組まれるべき方向として明らかであったのに、ちょっと日本の教育改革の取り組みは30年ほど遅れている。この遅れが今後どう響いてくるか、ですね。
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by eric-blog | 2005-09-26 11:33 | Comments(2)

持続可能な未来のための学習

102-2(479) 持続可能な未来のための学習
Teaching and Learning for a Sustainable Future
ユネスコ、立教大学出版会、2005

環境教育マニュアルのグローバル・スタンダード
オーストラリアのジョン・フィエン王立工科大学教授が作成責任者
阿部治立教大学教授が監修。

わたしがこれまで参照してきたTeaching for Sustainable World TSWの持続可能な開
発のための教育版だ。

第1章 世界の現状を知る
第2章 持続可能な開発についての理解
第3章 カリキュラムにおける未来への展望
第4章 持続可能な未来のための教育の再方向付け
第5章 挑戦を受け入れること
第6章 カリキュラムの枠を越える持続可能な未来
第7章 市民教育
第8章 保健教育
第9章 消費者教育
第10章 持続可能な文化と宗教
第11章 先住民の知恵と持続可能性
第12章 女性と持続可能な開発
第13章 人口と開発
第14章 世界飢餓の理解
第15章 持続可能な農業
第16章 持続可能な観光
第17章 持続可能な地域社会
第18章 体験学習
第19章 ストーリーテリング
第20章 価値観教育
第21章 調べ学習
第22章 適切なアセスメント
第23章 将来の問題解決
第24章 課外活動
第25章 地域問題を解決するために

ひとつの環境教育の指導者育成カリキュラムではあるでしょうが、教員養成課程のコ
ンテンツとしては教育心理学的な部分が弱い構成になっています。参照NAAEE環境教
育スタンダード

版型がA4版を取れないのが、日本の出版界の教材出版における決定的な弱点ですね。

参考までに、TSWの構成は以下の通り。
**************
持続可能な世界のための教育Teaching for a Sustainable World
TSW「カリキュラム・モジュール」
1.  持続可能な世界を概観する
2.  環境教育の手引き
3.  開発教育の手引き
4.  環境教育と開発教育のつながりを探る
5.  生態系的に持続可能な開発に向けた教育
6.  未来の選択肢を紹介する
7.  持続可能な未来を大切に
8.  文化と宗教: 持続可能な生活のために重要な課業
9.  環境倫理を探る
10. 新しい科学-新たな世界観
11. 健康、環境、地域開発
12. 村落共同体における環境および衛生教育
13. 持続可能な開発に向けた地域の行動
14. 地域に根差した環境教育
15. 初等教育における河川学習
16. 持続可能性のための消費
17. 女性、環境、開発
18. 人口-食料議論
19. 持続可能な農業と農村開発
20. 旅行者あるいは観光客: 発展途上国における観光業
21. 希望それとも絶望?都市計画外の都市居住区における持続可能な生活
22. 廃棄物管理: 未来の問題解決の練習問題
23. 代替技術
24. 難民と開発
25. 環境教育、開発教育の教材分析
26. 個人の力と惑星の生き残り

モジュールの構成

introducation 導入、成果、ワークショップの流れ、準備物、追加的読み物リス

activities
OHT
resources 資料的読み物
************


----------------------
角田 尚子
(特活)ERIC国際理解教育センター
eric1@try-net.or.jp
http://ericweblog.exblog.jp/
ブログで週5紹介中! 来てね!
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by eric-blog | 2005-09-26 10:31 | ■週5プロジェクト05 | Comments(0)

水平社博物館

102-1(478) 水平社博物館
2005年9月25日

奈良県御所市柏原、全国水平社運動の始まりの地にたつ『水平社博物館』を訪ねた。
橿原神宮を訪ねたら、「水平社博物館」こっちという看板があり、なんと橿原神宮内
に水平社運動の記念館があるのかと早合点、駐車場(500円もする)に入れて場所を確
認すると、そこからは車で20分もかかるという。ここで駐車して歩いていく距離では
まったくない。
なんだ、この表示は?
しかーーーし、そこはレンタカーの強み、行って来ました。2003年にリニューアルさ
れた「博物館」と「人権のふるさと」へ。

橿原神宮の威丈高さに圧され、商売に逸る飛鳥寺、国費を注ぎ込んで補修し、駐車場
代すら無料の高松塚古墳、補助金できれいに整備された田園風景と続くその確固とし
たたたずまいを逍遥しながらの末、博物館に行きつくと、伝統に楯突くのにどれほど
大変な思いがあったかと、それだけで、じーーーん。でした。

ちなみに、当時の柏原は桐の下駄産業で、本村より経済力があったほどだったそうで、
いまも9軒が下駄づくりに携わっているとか。最近、中国製の安い桐の下駄ばかり履
いているわたしとしては、現場を見たかったでした。

とはいえ、展示内容にはちょっとがっかり。ジオラマのつくり方は「ビデオのイント
ロ」「ジオラマ&3Dで再現」「フロアに配した人型からの声で聴衆の気持ちを表現」
と面白かったのですが、展示がなにせ「文字」ばかり。古文書館の趣きなのです。水
平社運動に携わった人々についての展示は、大阪や福岡の展示よりはるかにていねい
なのは、さすが運動の起こった場所だけあると思いましたが、その生活や生き方を追
体験できるような工夫はありませんでした。(例えば、オーストラリアの環境教育施
設では、昔の建物を移築した明治村のような建物の中で、1800年代、女性の自立を願っ
て旅立つ娘と、それを心配しながら見送る母親のストーリーを、現場劇の中で追体験
できる工夫がありました。)

たぶん、わたしよりも上の世代の、まだ自分たちもその頃の生活体験を覚えている人
が監修したのでしょうが、部落差別からの解放を願った時代は『おしん』の時代のよ
うに、過去なのです。その時代の「差別」とそれを解消するために立ち上がる人の気
持ちを実感するには、もっと工夫がいると思いました。縄文時代も明治時代も、実感
のなさでは同じだ、ということが、創る側に分かっていないんだなと思います。

奈良県の人権学習資料集「なかま」の指導者用資料があったので購入してきました。
いまから考えれば、もとのものも買えば良かったです。
1. 「なかま 小学校用指導書」奈良県人権教育研究会、2002年
2. 「なかま 中学校用指導書」奈良県人権教育研究会、2002年
3. 「なかま 高等学校用指導書」奈良県人権教育研究会、2003年
4. 「なかま成人用 第6集」奈良県人権教育研究会、2005年
5. 見学ガイドマニュアル-指導者の手引き- 水平社博物館、2003
『なかま』の教材のねらいとアプローチの視点は、人権教育の視点として小学校、中
学校、高等学校ともに共通しています。

I. ねらい
1. 知識・認識
-1. 人間観
(1)同質性
(2)多様性
(3)相互依存
(4)共感的理解
-2. 社会観
(1)環境統制感
(2)平和と対立
(3)文化の多様性
(4)環境問題
-3. 人権の基礎的知識
(1)権利・義務・責務・責任
(2)人権侵害の事実
(3)人権の歴史
(4)人権に関する宣言や法律
2. 態度(姿勢)
-1. 人間の尊厳
-2. 興味・関心
-3. 他者への共感
-4. 受容
-5. 正義と公平
3. 技能
-1. 情報活用能力
-2. 批判的思考
-3. コミュニケーション能力
-4. アサーティブネス
-5. 公民的資質

II. アプローチの視点
1. 普遍的視点
-1. セルフ・エスティーム
-2. 慣習・因習
-3. 予断と偏見
-4. 非科学的思考・価値観
-5. 少数者の排除と多数者への追随
2. 個別の視点
-1. 部落問題
-2. 女性
-3. 「障害者・児」
-4. 子ども
-5. 外国人
-6. HIV等
-7. アイヌ・オキナワ
-8. 高齢者

学習方法は基本的に「参加型」による話し合いが中心で、「答え」よりも「考える」
ことが重視されているものです。
高等学校段階では、かなり難しい資料の読み込みやデータから考える活動が増えてい
ます。また、人権の実際については海外の事例との比較がおもしろいです。

 

-- 人権尊重文化の推進3原則 --
○排他的ではなく包容力のある文化 Inclusion
○ヒエラルキーではなく対等な関係 Empowerment
○リスクを避けるのではなく、変化のプロセスに挑戦する Process Mind
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by eric-blog | 2005-09-26 09:33 | ■週5プロジェクト05 | Comments(0)

人権教育ESD fc at ERIC

「人権教育」ESD fc at ERIC
2005年9月18-19-20日

今回も参加者が少なかったSmall Size Workshop第三段階経験でした。ほとんど、ERIC内部ミーティング、オープンゼミナールの延長という感覚でしょうか。ということで、参加者の方々には「Making of ERIC Contents」の体験を目指しました。
参加者の方にとって、自分たちの現実に応用できると感じられたところはあったでしょうか。それぞれに満足感は高かったようですが。

今回の実践で確認できたことは、『いっしょに考えて! 人権』『いっしょにすすめよう! 人権』に紹介されているプログラムは、分析的な手法が多く、そのままで行うと単調かつ退屈な印象があるな、ということです。ということで次のような「テキスト活用のためのファシリテーターのスキル」を取り入れました。

1. プログラムの流れの中で変化する学習者の意識の流れに沿いつつ、プログラム進行中に焦点化していく「ファシリテーターの心のカウントダウン」
2. アイスブレーキング、エネジャイザーによる活性化 場に「棒」「ボール」「毛糸」を持ち込む
3. 「力」についての演習に、さまざまなスポーツの理論を取り入れて、からだ感覚で「対立」「方向転換」などを捉える

2.3.はすでにどこかで行われていますし、1も「学習者の意識の流れ」ということで決して新しいものではないのですが、特に人権でこれが大切だなと感じたのは、やはり「点検の視点」のモラルを高く保つことがどのように可能であろうかということです。その力こそが「人権教育ファシリテーター」自身の人権感覚なのだと思います。

参加者の声として「自分が加害の側だ」と気づいた、という発見が共有されました。アフターセッションなどでもっときちんと扱う必要があるのだろうかと、危ぶみましたが、その時点では踏み込みませんでした。いかがだったのでしょうか。
今年度は、外務省のNGO相談制度支援が得られていますので、相談が必要な場合は、ぜひお申し込みください。ERICのスタッフであれば、誰が対応しても構わないという制度です。時間は1件1時間半程度を目安に、相談料は無料です。週日、月曜日から金曜日まで、10時から18時のオフィスアワーとなっていますが、予約していただければそれ以外の時間でも可能です。
相談内容は個別お名前は出さずに、報告・インターネットに開示することになっています。
プログラム相談なども、この枠組みで受け付けることができますので、ぜひご活用ください。

人権教育における「through」の意味をしっかりとみなさんと共有できたことが、とてもよかったと思います。わたしたちの社会に差別はあります。しかし、わたしたちがよりよい社会を求める気持ちにおいて、協力できることが希望です。プロセスこそが道である、と同時に、人権が尊重される中で、人権尊重を学ぶ、人権尊重に向かう姿勢が築かれる。aboutがawarenessであるとすれば、throughがattitude、action、forがadvocacyでしょうか。
とはいえ、参加型という手法で教えている以上、一つのプログラムにこれらの要素が含まれているのだということも大切なことだと思います。

もう一つ共有できたことは、フアシリテーションというのは、解放運動、積極的差別是正、アサーション・トレーニングなどの蓄積を踏まえて、生み出されてきた学習促進方法論であるということです。その学習を通して、アサーティブネスが、そして積極的差別是正措置が実現されていくようにすること、それがファシリテーションであるのです。

だからこそ、ファシリテーションが人権尊重の未来を拓いて行く可能性を持つのです。

ことばによって共有することに限界を感じながら、しかし、共通の場で出会える人の人数にも限界を感じながら、ファシリテーションという学習支援型教育技術がESDの根幹に、教員養成の根幹にすえられて行くことを夢見て、努力したいと思いました。

みなさんと、出会える時を楽しみにしています。

かくた 


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今回は人権教育の4つの側面
「人権としての教育」as
「人権についての教育」about
「人権を通しての教育」through
「人権のための教育」for
について、じっくり取り組むことができ、
Holisticに「あたま」と「からだ」と「こころ」で
人権教育を考える、ということについて深めることができました。
また、現在Leggsに入っているアクティビティの開発・実践も行いました。
開発されたアクティビティは、今後レッスンバンクとして発行される予定です。
お楽しみに!

以下、実施プログラムです。
◎実施プログラム-------------------------------------------
【1日目:9/17】
セッション1 共通基盤づくり<角田>
 ・この講座のすすめ方・研修の位置付け ミニレクチャー
 ・[参加型学習が成立する基盤を考える]ペア→全体
  「講義型学習」と「参加型学習」を対比して考える
 ・[3日間の心がけ]ペア→全体
 ・[他己紹介+傾聴]2人 正確に聞く→他己紹介→訂正、補足、追加
 ・[他己紹介のふりかえり]
 ・[ファシリテーションの準備] グループワーク
  S2、4、6、8を参加者がファシリテーションする。
 ・[セッション1のふりかえり]
  ?)準備の時間に何を行ったか?
  ?)他に何をすれば良かったか?
  ?)ファシリテーション準備のカウントダウン

セッション2 人権としての教育1<佐藤宏幸>
 ・[人権としての教育/でない教育]グループ→全体
 ・[人権としての教育ーランキング]グループ→全体  
 ・[ライフサイクルと人権教育の課題]グループ→全体
 ・[人権教育推進の課題(力の分析)]グループ→全体
 
セッション3 人権としての教育2<角田>
 ・[セッション2のファシリテーションふりかえり]全体
 ・[プロジェクトコンペ]ペア→全体
  「人権としての教育」を「Holistic」に学ぶには
 ・[カリキュラムクリティークfor 人権としての教育]
 ・[アクティビティ開発]グループ→共有/実践
  「フォトランゲージ」「人が育つとき 人を育てる言葉」
  「アボリジニウォーク」
 ・[今日のふりかえり]全体
 「ラーメン発見伝/芹沢語録」より

【2日目:9/18】 
セッション4 人権についての教育1 <参加者によるファシリテーション> 
 ・[人権教育の目標について]ペア→全体 
 ・[じゃんけんゲーム]ペアワーク
 ・[じゃんけんゲームふりかえり]ペア→全体
 ・[参加者はどんな人]→[三段論法の落とし穴]全体
 ・[多数派・少数派]全体
  ?)言葉を言わないで
  ?)言葉を言って
  ?)ふりかえり
 ・[少数派も安心、多数派の心がけ10箇条]全体(ポップコーン方式)
 
セッション5 人権についての教育2 <角田> 
 ・[セッション4のふりかえり]ペア→全体
  「人権についての教育に含まれるべき要素」
 ・[カウラの大脱走]4人グループ
  ?)人権感覚を問う20の扉
  ?)異和感がある、反対しにくいの二次元軸で考える
  ?)なぜ加害を語れないのか[因果関係図]
 ・[カウラの大脱走ふりかえり]
 ・[アクティビティ開発]ペアワーク
  「性差が制差に変わる時」「服従の心理」
  「これって人権侵害?」[和解のための11箇条]
 
セッション6 人権を通しての教育1 <参加者によるファシリテーション>
 ・[こだわりのもので自己紹介]ペア→全体 
 ・[ふりかえり]全体
 ・[良くある自己紹介/こだわりのもので自己紹介]
 ・[人生に成功するカード]ペアワーク→全体でふりかえり
 ・[あなたならどうするー対立の場面で長所を活かす]グループ
  ?)自分の長所を8つ書き出す
  ?)5枚カードを引き、ある状況で有効と思われるカードを選ぶ
  ?)有効なカードの分析→全体でふりかえり
 ・[肯定的な態度の社会的効果]全体ブレスト
 ・[ファシリテーションのふりかえり] 全体
 ・[長ことば/短ことば]全体ブレスト

【3日目:9/19】 
セッション7 人権を通しての教育2 <角田>
 ・[人権を通しての教育について]ミニレク
 ・[アイスブレーキング]ボールの受け止め方(ペア)
 ・[人権尊重のために必要な3つの分野]ミニレク
 ・[異なるルールの時何が起こるのか?]3名グループ→全体共有
 ・[ふりかえり気づいたこと/感じたこと/学んだこと]
 
セッション8 人権のための教育1 <参加者によるファシリテーション>
 ・[生物的性差/社会的性差]グループ
  ?)男女で違うことを書き出す
  ?)生物的/社会的な性差を、二次元軸で分類(全体共有)
   「より地域差がある」「より強制力がある」
 ・[社会的性差の有利/不利]グループ
 ・[不利益を解消するための手立てを考える]グループ→全体共有
 ・[これって公正?ロールプレイ]ペア→全体共有

セッション9 人権のための教育2 <角田>
 ・セッション9でやりたいこと (グループ→全体共有)
 ・[3つのテーマ別にコーチングの手法でふりかえり]ペア
   ?)ファシリテーターの資質について
   ?)ファシリテーションの焦点化
   ?)3日間のふりかえり評価
 ・[サークルタイム]
  テーマ別ふりかえりと3日間のふりかえり 一言づつ
 ・修了証の授与
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■次回ファシリテーター養成講座は「対立から学ぼう」です。
日時:10月29日(土)~30日(日)10:00~17:10
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by eric-blog | 2005-09-22 09:28 | □研修プログラム | Comments(0)

第一次産業の復活 森と水と土の世紀

101-2(476) 第一次産業の復活 森と水と土の世紀
篠原孝、ダイヤモンド社、1995年

槌田敦さんが、地球の水循環によるエントロピーの低減化効果を書いていたり、ブルース・ブラウンが鮭が遡上することで、物質循環を促進したりすることを指摘したり、わたしたちの土が、緑が、そして水がいまある姿であるのはなぜかという壮大な発見が20世紀の後半にはもたらされた。

解せないのは、そのような知の探究のそもそもがどこであったのかをあたかもネグレクトするかのような「だから昔が良かったんだよ」という言い方になることである。

いまの知の探究ですら、スーザン・ジョージなどによってその偏りが指摘されているのだから。わたしたちが、先人の長い試行錯誤の結果の再生産だけにとどまる存在に戻ることはありえない。いや、どの時代の人類も、冒険をしながら、再生産をしていたのではなかったか。

ルネサンスは、心の自由の獲得である。復古も、ひとつの選択である。しかし、心の自由を獲得した時代の「復古」はひとつの「型」の提示でしかない。

という大前提を何度も繰り返した上で、篠原さんの描く未来がどんなものか、見てみよう。
前田正名『興業意見』地域の実情に合わせた農業振興
「日本型」時代 経営、労働組合、社会、家庭、NGO、ボランティア、食生活、保育
これから1000年の内向きの時代。185

江戸時代に比べて農地面積は倍、単収は3倍、つまり1億4280万人を養える。196

持続可能や社会を考えるというとき、2つの規範が大切だ。現在合意されている国際水準、基準を遵守すること。それらを点検の視点とすること。
その上で、「内向き」に自分たちのもっているリソースなどをしっかりと自認すること。いずこの社会も、人が生きてきたには、それなりの生存基盤があるのだろうから。

いま5-6人の子どもを生んでいるカタールの人々、人口70万人がどうなっていくかを心配しなければならない時代は来ないだろうし。

わたしたちの社会が、「内向き」にはなっても海外とのつながりが断ち切れるはずもない時代に、この2つの規範は最低限の「共存」の条件である。そのことを明示していただけない未来像づくりは、合意を得られないのではないだろうか。海外の花嫁さんがこんなにも増えている中で、国際結婚が10組に一組になっている状態で、人権についての国際標準遵守を前提に、話し合うのがマナーだろう。
人種差別的な慣行はないか、女性に経済的政治的な不利益は生じないか、子どもの参画は認められているか、など、ごく簡単な点検項目で日本のやり方をよりinclusiveに、よりempowerfulに、よりprocess-thinkingに変えて行くことはできるはずだ。こんなにも自然も人の知恵も豊かな地域なのだから。

いま、最高に違和感があり、ジェンダラスなのが「国政」レベル、「最高学府」レベルだ。このあたりの変革力の弱さが、日本をだめにしている。
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by eric-blog | 2005-09-21 09:14 | ■週5プロジェクト05 | Comments(0)

ジェンダラスな日本社会を切り拓く

解放教育 原稿 ぜんぜん別のバージョン

ジェンダラスな日本社会を切り拓く

女性解放は女たちからの問題提起

女性解放運動は、海外の運動の受け売りではない。部落解放運動が受け売りなどではないように。
わたし自身が「女の子は損だ」と思ったのは小学校6年生の頃。そのため自分の性が大嫌いで、「女らしい」と言われるのがいやで、小学生の頃には好きだった手芸なども中学生高校生の頃は見向きもしなかった。
高校生から大学の頃にかけて、女性解放運動のニュースや考え方に触れることが増え、自分自身の生き方として、フェミニズム的なものや運動の模索があり、さまざまな人との出会いがあった。それらの出会いがなければ、わたしは自分を否定しつづけるだけになってしまったのだろうか。
基本的な生き方としての「自立」が当たり前、というのはそういう出会いの以前、アメリカ留学の影響だろうか。20歳で一人暮らしを始めて、職業に就くのは当たり前のことでしかなかった。アメリカという国や文化の「型」との出会い、そして、それ以上に個性的な「型」との出会いがわたしを形作った。。
大学院のその先にも夢が持てず、子どもができたのをきっかけに、退学。英語の教師のようなパートしかできなかった時期があったが、子どもがいなくても、20代後半の大学院まで行った女性にそれ以外の職業があったかどうかは疑問だ。
時代の中で、消費者運動にも、環境問題にも出会った。フェミニズムと環境、その双方が満たされる生き方が欲しかった。自分の納得のいく職業につく人もいるだろうけれど、納得の生き方が生業になるということも、あるのだ。道がない分だけ、時間がかかるけれど。
いま、若い人たちが、女の子も男の子も、こだわりなくそれぞれにファッションを愉しんでいるのを見ていると、いいなあと思う。くったくなく育っている彼らが切り拓いて行く未来が、明るいものだと心底思う。あせらず、自分の道を探し続ければ、いいのではないかと思う。一人ひとりが満たされ、よりよい「生きるということの質」が実現される社会へと向かう道筋は、一人ひとりのクリエイティブな作業にかかっていると思う。
「枠」を抜け出て、多くの「型」との出会いがある時代に、どう生きるかは、クリエイティブな作業だ。迷いも、悩みも、しんどさもある。ていねいに自分自身を探すこと、ていねいに自分自身を生きること、ていねいに自分自身の居場所を創って行くこと。そして、ていねいさには時間がかかることを知ること。

ていねいに未来のことを考える

個人個人の女性の実感と共振し、支えられている女性解放運動とその成果を、認めない人々もいる。彼らは、「枠のない時代にどう生きるかを模索する」クリエイティブな作業に向き合いたくないのだ。昔ながらの男性中心のドラマのシナリオしか演じたくないし、演じられないのだ。そのような「わかりやすいドラマ」に魅入られる次世代もいる。わかりやすさとは麻薬であるからだ。
しかし、考えてもみよう。現在のご長寿社会における、「女」という記号の賞味期限の相対的な短さを。80年は平均ですら生きるという現在でも、「生理」があるのは30-45年ほど、その中で「母」は20年ほど。「女」を語る人々は、人の人生のことについての想像力などないし、責任など持っていない。そんな中途半端な言説で、人の人生を振り回すような、無責任なことを奨励しない方がよい。
彼らの語りの中に、日本という場所に、1億人ほどの人々が生き続ける、その豊かさ、環境との共生と持続可能性の未来像は、どんなものなのだろうか。その想像力さえ、見えてこない。
少子化対策のもっとも短絡的な意見表明として「女は家庭に帰れ」というようなことを言う人の描く未来像は、果たして200平米の家に500平米の庭、休日にはバーベキュー、平日の午後には子どものスポーツチームのコーチと地域活動という中流家庭の豊かさを実現するということなのか、それともどんな人生のことなのだろうか。
変化の時代、複雑な時代であるからこそ、「わかりやすさ」が心情的に求められるのかも知れないが、ていねいに考える力をつけるための言説にこそ、表現者としては力をそそいで欲しいと、願う。

ていねいさの足元を創る

一つの「型」を乱暴な議論で押し付けるよりも、先にやるべきことがある。
日本社会の「枠」を超えて、わたしたちの生活が展開している現在、さまざまな「型」との共存のための基本姿勢を身につけることが必須だ。
日本は、国際開発援助額最大の国であるのだから、そのための人材を輩出することと同時に、より多くの人々の開発援助についての理解と支援の裾野の広がりは大切だ。どのような開発援助がもっともよいのかについての議論も、民間や市民社会に対してオープンになっている現在、より広範な人々の関心と参加は、地球規模での持続可能性の実現にとっても不可欠だ。
国連安全保障理事会の常任理事国になるかならないかは別にしても、日本という国が国際社会でどのような役割を果たすべきかについても、官民財のさまざまな関わりからの議論が必要だ。
そのような過去の蓄積、経緯の上で、わたしたちが「持続可能な社会」としてのこれからを、あらゆるセクターが、地球社会との関連で考えなければならない、また、地球社会との関連で、意思決定がされていく時代に、わたしたちは生きている。
自分自身の価値観を大切にすることも必要な一方、集合的に、ともに考える力が求められている。
明らかに物質的にはダウンサイジングに向かって行く時代の中で、これまでと同じような経済の覇気を保つのは難しい。取り分の維持だけのために行動すれば、衝突は避けられない。生活の質を、物質的なものから精神的な満足に移行しつつ、より高い質の生きるということを実現することを時代の目標としなければ、矛盾は解決できない。

個人個人に対しては、わたしたちが「枠」のない、たくさんの「型」に出会う時代に生きているだけに、選択する力、吟味する力、現実とすり合わせて行く力が求められる。
自分たちの「枠」の再生産にだけこだわりすぎていると、なすべきことの優先順位を見失う。少なくとも、女性解放は女たちからの問題提起であるという現実認識と、問題提起を受け止めて変革を遂げて行く社会にこそ、「参加」の価値があると、女たちは考えていることを、知るべきである。
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by eric-blog | 2005-09-20 16:06 | ▲ファシリテーターの課題 | Comments(0)

少年事件の臨床 「いのち」を学ぶ付添人活動

101-1(475) 少年事件の臨床 「いのち」を学ぶ付添人活動
神谷信行、明石書店、2000

少年事件の付添人をすることを神谷さんは「学校」と呼ぶ。事件のあと始まる子ども自身の変化、同時に神谷さん自身も変化し、学んできた。

ロジャースの来談者中心療法22 『カウンセリングを語る』河合隼雄より
1.無条件の積極的関心
2.共感
3.自己一致

24
ちがう人生を生きてきた以上、「君の気持ちはわかる」と簡単に言うことは許されないとしても、「気持ちをわかろうとする」ことはできる。
25
自分の想像力を総動員して、相手と自分の人生をとことんつき合わせ、事件を自分のこととして考え続けようとする沈黙のプロセスに、付添人の仕事の核心がある。

56
子どもの言った本を読む時、どのようなことが書かれているかを確かめながら、この子はこの部分をどのような気持ちで読んでいたのだろうかと想像することが重要で、面会の時、彼がその本のどの部分を一番記憶に残しているか、それを読んだ時どのような思いがしたかに焦点を合わせ、対話を進めてゆく。

仮面がとれる、ほんとうの自分、父母未生前の真面目、
63
仮面は..「時」の流れの中ではずされる

神谷さんが「いのち」について話すストーリーは、わたしが考えるのととても似ている。宇宙のビッグバンから始まり、そして生命の誕生、人類の進化、
昭和の時代に戦争があった。その戦争を生延びたひとから生まれ、いまがある。ここにいるということ自体の奇跡。ここにいるだけで価値がある 154-160

また、いまの子どもたちに起こっている問題のひとつが「孤立化」だという。それを「メンタルサポートネットワーク」というような自覚的な営みで対応できないかと。165

厳罰主義については
202
子どもたちの心に蓄積されているストレスや負のエネルギーを、肯定的な方向に向けて発散させるプロセスや、被害を受けた人や家族、自分自身の家族の痛み、苦しみを実感させていく柔軟なプログラムを取り入れずに、単に、非行を犯した行為だけに着目して15歳以下の子らを「厳罰主義」に処すとしてら、子どもたちの「負のエネルギー」はさらに凝縮されて大人の予測もつかない事態を引き起こすにいたるだろう。
203
「正義」の仮面をつけた大人から科せられる「刑罰」を簡単には受け入れない。...心中に恨み、被害感、疎外感をさらにつのらせてゆき、大人の勝手なふるまいや言動に出くわした時、..トラウマがうずき、負のエネルギーが噴出する。
厳罰主義を唱える大人たちには痛切な自責の念が欠けている。

実名報道についても、同じように犯罪を犯した子どもは、そのルール違反を知ることでこう考える、という。
237
大人はみんな自分の理屈をつけて自分の行動を正当化する。自分も人を殺して何が悪い。弁護士だって、金をもらってやっているだけだ。そんな大人のいいなりになんかならない。
「大人」と子どもの溝が深まるだけだ。関係性の構築の機会が奪われることのマイナスは大きい。
単純な正義感、表面的な共感では解決できない。

付添人をしているときは、その事件についての取材もお断りするのだとか。自分が第三者的な立場で語ることにエネルギーを割いてしまうことで、少年に付き添うためのエネルギーが磨り減ってしまうからだという。

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101-3(477) 知って活かそう! 著作権
神谷信行、日本評論社、2005

前書きにもあるように、この本の特徴は著作権を「人間の尊厳」から生まれてきていることを強調しつつ、法律上の実際的な事柄を教えてくれる本だということだ。

少年犯罪にかかわる神谷さんが、著作権というものを教えて行くそのことにも、「人間」を、そして法律が人間を基盤にしていることにも、深く深く触れていかれるのがいいなあ。

書や音楽、とても幅広いお方なのだなと、驚きました。

学校教育の場で著作権を扱うときなどに、ぜひ、活用したい本です。
050922 追加
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by eric-blog | 2005-09-19 09:11 | ■週5プロジェクト05 | Comments(0)

9.11 セプテンバーイレブンス

100-7(474) 9.11 セプテンバーイレブンス
冷泉彰彦、小学館、2002

2004年に小学館文庫にもなっているJMM [Japan Mail Media] に連載されたレポートをまとめたもの。2001年9月12日の第1信に始まり、2002年1月4日の第22信まで、248ページにもなる日々のアメリカについてのレポートは、何よりもマスメディアでは伝えられない表情を伝えてくれます。「冷泉彰彦は、問題点を絞り込んで行くというよりは、問題点を列挙していく」というような評論もインターネットで検索するとありますが、重層性の確認が好きなわたしとしては、心地よい書き方だと思いました。
リービ英雄が、日本の「奥の奥の8畳間」で日本語で書くことを決めたように、冷泉さんはニュージャージに根ざしながら、日本語で考えて行く、そのことの決意がこのレポートになったと、後書きで述べられています。そして日本語教育に携わっているというそこから、新しい日本語が開けそうで、とてもうれしいです。心地よい書き方であるとわたしが感じたのは、わたしたちがいつも心がけている「未来型コミュニケーション」のにおいでもあるのかもしれません。
ことテロにからんでは、言っていることはわかるが言い方が嫌い、ということが多いので。

さて、昨日杉山さんとも話したことですが、一人ひとりの時代認識が大切な時代、そして教育というのは、一人ひとりの中に、その人にしかない時代感覚とその「自分自身」の時代を生きて行く、生き切る力を育むことなのだと思います。教育によってマスとしての歴史を覚え、マスを語り、マスを動かし、マスの一員としての意思決定に関わるのではなく、一人ひとりの時代のからみあいが、結果としてのマスになるのでしかないわけですから。そのことの実在を忘れさせる言説や論調が、心地よくない、のでしょうね。

もちろん、マス心理学、マス社会学的な動態力学も存在し、わたくしに影響するのは当然でずか、それもあくまでも相互的なものであるでしょう。

冷泉さんのレポートを教えてくれたのは中島ですが、感謝です。いまもJMMで連載が続いているようですので、ぜひ、ご覧ください。なんて、いまさら、ですよね。
http://www.asyura.com/0304/war31/msg/1154.html
911直後にも、そして高遠さん直後にも、触れていたかもしれません。そのように日々の中で、そしてインターネットの中で触れるのと、やはり一冊の本になって触れるのとの意味の違いが、まだからだにしみている世代なんだなって思いました。

もうこの後は、いつもの通り、備忘録ですから。
刺激されたのは、前書きで星条旗のあふれかえった状況の中でも、旗の描き方に個性があったという記述でした。「個性が感じられる分、政治色は薄まって見える」と彼は表現します。これは、わたしが韓国の国旗を見たときに、感じたことでもあります。おりしも機内誌で「太極旗Taegook」の意味と使われ方の変化がレポートされている記事があったのも、当地での圧倒的な市庁舎を覆う太極旗を見ても、そこに「個」を感じ取ることができた理由かもしれませんが、冷泉さんの描写で、そうだったのか、と思うところがありました。
日の丸は単純すぎるのですね。あの旗の単純さを超えるアイデンティティの確立が求められるのですから、日本の右翼と対決するのが大変なはずだ。

ま、韓国国旗も「中央の円は太極(宇宙)を表し、すべてのものの統一・一体性を表す。巴の形は陽(赤)と陰(青)を表し、積極と消極・善と悪・男と女・太陽と月……といった、ものの二重性を表している。四隅のしるしは、乾・坤・坎が離と読み、四つの相対立し、しかも調和をもつものの組み合わせ、すなわち、東西南北、父母兄妹などを表す。」http://www.sarago.co.jp/nfhtm/kr.html
となっているわけですから、ある種の「呪 」、枠にはなるのでしょうか。国民国家を代表する国旗に対峙する課題は同じですね。

9
日米が関わる歴史については、個別に歴史を勉強して自分なりの答えを出すしかないし、それができればあとは現代に生きる一人の人間として胸を張れば良いように思う 

11
一人ひとりの人間の心の奥に歴史や軍事問題が影を落としていることに気づくと、戦争か平和かという単純な二分法では何も説明できないことがわかってきます。余りにも複雑な現代において、その複雑さに対抗できるのはやはり一人一人の人間の誠実な生き方に他ならないのでしょう。自分の力で因果関係の糸を辿ることや、先入観や外見でものごとを判断しないこともこれに含まれます。

12
アメリカに生きる人々は、...ある種の複雑さや多様性を維持しながら苦しんでいる、それを何とか伝えたかった。

23
「20世紀的な二分法」ではなく、どう解決すればいいか、悩んでいる

32
国際政治学のリチャード・A・フォーク教授は「この戦いは人類の経験したことのない戦いだ。第一に、この戦いは軍事衝突ではない。第二に、国境紛争ではない。第3に、過剰反応は必ず敵のエスカレーションを招く」「問題解決の策としては第一に非暴力、第二に国際法と国際司法システムによる解決、第3に『聖戦』という思想の除去、原理主義は言語道断」 

108
日本赤軍の問題...不正への怒りが世論の過半を引き入れることができない。その敗北感から「究極の被害者」と共に戦えば「究極の正義」が得られると思って中東でのテロ活動に身を投じていった。それは個人的な心の病以外のなにものでもありません。...今回のテロ事件の主犯格が、サウジ、エジプトなど「穏健諸国」の反政府感情に育まれたことや、高い教育を受けていたことなどには何か共通するものを感じます。

175
8年間の民主党政権を経た学校現場では「人権」が新たな「権威」になってしまっています。黒人や原住民、女性の人権を尊重するのが「主流」の考えであって、優等生はそれを口にするようになっていく。...そのこと自体は全く悪いことではない。ですが、そこからはじき出された子どもたちには、そうしたリベラリズム自体への敵意が育ってしまいます。日本でも「日教組系」の教師に疎んじられた子どもたちが極端な右翼思想に親しみを持ってしまう現象があったが、こちらはもっと痛々しい

218
911以来...事態を打開していく「英雄」は現れていない。英雄はあくまで庶民の中にあった

219
バチカンと共和党は一致するところが少ない。中国がWTOに加盟すると同時に、バチカンはカトリックの布教に名を借りて植民地化に手を貸した過去を北京に対して公式謝罪しました。
219
9月23日に法皇がカザフスタンで「軍事的な解決への反対」5万人ミサを執行した

256
(『アリ』と『ビューティフル・マインド』にからめて)
「天才」を開花させるために大切なのは、「天才」も一人の等身大の人間として認めるということ...権威に追従する意識が、「才能」のある人間を一段上の人間として持ち上げて日々の生活空間から追いやってしまう。そんな風潮が逆に「天才」を救いのない歪みや、才能の枯渇へとおいやる

267
2000年の「ミレニアム」を迎えたあたりが、グローバリズムの頂点でした。...
「新ミレニアム」に入った途端に、アメリカの主導するグローバリズムは突然失速してしまった...
269
アメリカ人は、飽きてしまっていたのです。ハイテクとバイオの描く、余りにも素晴らしい未来図に。女性や少数民族の人権が無制限に拡大し、本当に平等な世界が来てしまうことに。

274
親日家と親米家のすれ違いとその愛のゆくえ
275
異なる文化に接したり、未経験の環境にとびこんだらまずその「良いところ」を真似て「悪いところ」は無視すれば良い
国際化に打って出るのは何かプラスになると思っての行動
異なるものとの出会いを通じて「良きもの」を求めようという自然に欲求

276-277
国家でない脅威に対処する話が、ひとつの国の内戦への介入になったり、二分法により憎悪感情を煽動したり、人権問題で戦争を正当化したり、身近な悲劇に同情を集めつつ遠くの惨劇を隠したり、古典的な手法
その結果としての民族主義、排外主義、地域のブロック化、覇権主義や帝国主義
そんな空虚な政策で複雑に一体化した21世紀の国際社会を維持していけるはずはありません。
何よりも、人の命をもて遊ぶことで歴史が動かせるというような迷信は20世紀で終わりにしなくてはなりません。犠牲への追悼や名誉回復を新たな紛争の口実にしない
278
ある種の学者や政治家にとっては悲観論も仕事のうちなのかもしれませんが、コミュニティに根ざしながら日々の生活を築き、次の世代を育てなくてはならない私たちにとって悲観論は何ももたらしてくれない...新しい時代が開かれることを信じて書かれている

そして、もちろん、人種差別主義、宗教差別主義をとがめる、批判する姿勢がマスコミにも日常にもあったことも、随所にレポートされていました。抜書きしませんでしたが。
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by eric-blog | 2005-09-17 07:19 | ■週5プロジェクト05 | Comments(0)