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テロリストは誰? ガイドブック

78-3(362) テロリストは誰? ガイドブック
グローバルピースキャンペーン編、ハーモニクス出版、2004

雑誌国際協力で紹介されていたビデオ上映会に行って来た。画面下に字幕が出ている
ビデオを数列に並んだ聴衆が見るのは無理があると思いました。それでガイドブック
を購入して途中で帰って来てしまいました。

でも、フランク・ドリルという『戦争中毒』発行人がクリップしたドキュメンタリー
10本をさらに編集した全部で10章からなる120分のうち、前半第5章までを見て、い
ちばん心に残ったのは「School of the Americas」という工作員養成機関です。暗殺、
情報操作による心理作戦のプロが育成されている機関であり、海外からの軍指導者を
対象として、米国の国家予算で運営されています。そこの卒業生たちがどのような事
件にからんで名前が上がってくるかということのリストは震撼すべきものがあります。

1946年開校、中南米23カ国55000人以上

エルサルバドル、1980年12月、4人の女性教会関係者レイプ殺人事件、犯人の将校た
ち5名中3名がSOA卒業生
ロメロ大司教暗殺、1980年3月24日、暗殺計画者ダブイソンおよび実行犯の将校3名
中2名がSOA卒業生
エルモソテ村虐殺、900名、1981年12月11日、責任を問われた将校12名中10名がSOA卒
業生
サンサルバドル、イエズス会宣教師6人プラス2人の殺害、1989年11月16日、関わっ
た将校26名中19名がSOA卒業生
国連真相究明委員会からの1993年3月15日の報告でエルサルバドル内線での残虐行為
を名指しされた将校60数名中49名がSOA卒業生
ペルー、大学生9名と教授1名殺害で1994年2月に有罪になった軍幹部3名SOA卒業生
コロンビア軍将校250名中半数が人権侵害で糾弾されたが、SOA卒業生

優等卒業生らのその後
・元ボリビアの独裁者ヒューゴ・ボンサ
・マヌエル・ノリエガ前パナマ大統領、現在米国で服役中
などなど。

すごいね、教育の力って。1993年にジョセフ・ケネディ下院議員が軍事予算削減案を
提出。290万ドルというSOA運営費分をなくすということだった。まだ、実現していな
いのかも。

第10章に紹介されているのはブライアン・ウィルソン。『Legs』の著者、非暴力平
和運動家である。
ちょっと、これは見たかったな。

上映会を開こうという呼び掛けがガイドブックの最後にあります。info@wa3w.comま
で御連絡を。公式サイトはhttp://www.wa3w.com
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by eric-blog | 2005-02-28 21:17 | ■週5プロジェクト04 | Comments(0)

紀ノ川

78-1(360) 紀ノ川
有吉佐和子、新潮文庫、1964年、1997年65刷、新刊本1959年

いやーーー、読んだことがなかったです。

 「紀ノ川」の舞台になった和歌山市木ノ本。紀ノ川に沿ったこの一帯は、戦前まで木本、垣内の大地主が占めてきた。忙しい旦那衆にかわって、「大御っさん」と呼ばれるしっかりもんの女主人が家を支えてきた。「紀ノ川」は流域に生きた旧家の女たちの物語である。

 物語は、高野山に近い九度山から嫁ぐ主人公の花と祖母との慈尊院詣でから始まる。
やがて花嫁らを乗せた五艘の舟が紀ノ川の流れに。川沿いからの祝福の中.六十谷へと下る。 「紀ノ川沿いの嫁入りはのう、流れに逆らうてはならんのやえ。みんな流れにそうてきたんや。自然に逆らうのはなによりもいかんこっちゃ」。下流の旧家・真谷家への縁組みは大御っさんのこんなひと言で決まった。」http://www.zusi.net/meisaku/kinokawa/ariyoshi.htm

なんと、有吉自身の出身地の物語、フィクションなんだね。明治から大正、昭和の三代の女たちの物語を通してみごとに歴史が重ねられていく。ジェンダーについて検討するいい教材だと思うけどなー。以前映画化されたときは、大竹しのぶとかが出たんだっけか、なんだか絢爛豪華な着物の映画みたいな記憶しかない。

週末用に借りて読んでみて良かったあ。

解説を桂芳久さんが書いているが、有吉と岡本かの子の違いを次のように表現する。「女の系譜をたどりながら、歴史の縦糸をしっかりとらえている。...有吉には「生々流転」の意識はない」297
しかし、流れに逆らわない。自然を支配するには自然に従順であるべき。
あの敗戦と農地解放によって凋落した家のみが「家」と呼ぶにふさわしかった。
「われわれは伝統ということばを否定的な意味でしか使うことができない」T.S.エリオット
否定すべき対象の重みを実感した者のみが伝統とは何かと問い続ける。
三代目として描かれる華子も決してラストランナーではないと解説者は言う。そして「作者は将来第4部を書かねばならないだろう。そのとき華子の娘が、否定できなかった部分だけが新しかったことを証明するだけである。しかし、その娘もまた次の世代によって挑戦をうけるだろう。」301(昭和39年)

有吉佐和子、1931-1984
20年後とは昭和54年。1979年のことだ。http://www3.ocn.ne.jp/~ariyoshi/sawako/reading/sawakod10.htm
によると、この年有吉は『最後の植民地』を翻訳している。これが有吉なりの答えだったのかもしれない。
やはり、本文を引きたい。135
「水流に添う弱い川は全部自分に包含する気や。そのかわり見込みのある強い川には、全体で流れ込む気迫がある。」
それを生命力の強さと、有吉は表現しているのだが。
明治気質の花の娘、文緒の言動の何から何まで、わたし自身を見るようで、いまとなっては逆に親の立場からその言動を見るがゆえの苦しささえある。しかし、それもこれもありながら、決して花の人生も、そしてその後も暗い結末ではないところが不思議な読後感につながっている。
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by eric-blog | 2005-02-28 21:16 | ■週5プロジェクト04 | Comments(0)

ローマ人の物語13

78-2(361)ローマ人の物語13 最後の努力
塩野七生、新潮社、2004

毎年年末に一冊ずつ出る新刊本は、図書館で借りることにしている。文庫本のほうから入り、それは全巻揃えるつもりだからだ。

紀元3世紀に入り、拡大した前線を警備するために、ディオクレティアヌスは副帝を立てる。最初は「二頭政」そしてその後に「四頭政」へと。しかし、力のある者が分権したその後の世代交代は、簡単ではない。帝国の分裂の始まりだ。

もう1つのこの時代における変化は元老院や市民集会による認証を皇帝が受ける必要がないというようにしたこと。いずれ形骸化していたとしても、だ。これは後継者選びに際して市民すなわち軍兵たちによる擁立の弊害を避けるためだったわけだが、次のコンスタンティヌスがキリスト教を認める、そして「神による認証」へと皇帝のカリスマ性の保証が変化していくことにつながろうとは。

もう1つの変化は、ローマがその機能としても、中心地ではなくなっていったことである。ローマが本国で、その他の属州という格差がなくなり、ローマ街道が整備され、防衛線のために便利な場所に正副4帝の根拠地が置かれるようになったとき、ローマはその役割を終えたのだ
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by eric-blog | 2005-02-28 18:20 | ■週5プロジェクト04 | Comments(0)

ローマ人の物語13 最後の努力

78-2(361) ローマ人の物語13 最後の努力
塩野七生、新潮社、2004

毎年年末に一冊ずつ出る新刊本は、図書館で借りることにしている。文庫本のほうから入り、それは全巻揃えるつもりだからだ。

紀元3世紀に入り、拡大した前線を警備するために、ディオクレティアヌスは副帝を立てる。最初は「二頭政」そしてその後に「四頭政」へと。しかし、力のある者が分権したその後の世代交代は、簡単ではない。帝国の分裂の始まりだ。

もう1つのこの時代における変化は元老院や市民集会による認証を皇帝が受ける必要がないというようにしたこと。いずれ形骸化していたとしても、だ。これは後継者選びに際して市民すなわち軍兵たちによる擁立の弊害を避けるためだったわけだが、次のコンスタンティヌスがキリスト教を認める、そして「神による認証」へと皇帝のカリスマ性の保証が変化していくことにつながろうとは。

もう1つの変化は、ローマがその機能としても、中心地ではなくなっていったことである。ローマが本国で、その他の属州という格差がなくなり、ローマ街道が整備され、防衛線のために便利な場所に正副4帝の根拠地が置かれるようになったとき、ローマはその役割を終えたのだ。
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by eric-blog | 2005-02-27 11:56 | ■週5プロジェクト04 | Comments(0)

紀ノ川

紀ノ川
有吉佐和子、新潮文庫、1964年、1997年65刷、新刊本1959年

いやーーー、読んだことがなかったです。

 「紀ノ川」の舞台になった和歌山市木ノ本。紀ノ川に沿ったこの一帯は、戦前まで木本、垣内の大地主が占めてきた。忙しい旦那衆にかわって、「大御っさん」と呼ばれるしっかりもんの女主人が家を支えてきた。「紀ノ川」は流域に生きた旧家の女たちの物語である。

 物語は、高野山に近い九度山から嫁ぐ主人公の花と祖母との慈尊院詣でから始まる。
やがて花嫁らを乗せた五艘の舟が紀ノ川の流れに。川沿いからの祝福の中.六十谷へと下る。 「紀ノ川沿いの嫁入りはのう、流れに逆らうてはならんのやえ。みんな流れにそうてきたんや。自然に逆らうのはなによりもいかんこっちゃ」。下流の旧家・真谷家への縁組みは大御っさんのこんなひと言で決まった。」http://www.zusi.net/meisaku/kinokawa/ariyoshi.htm

なんと、有吉自身の出身地の物語、フィクションなんだね。明治から大正、昭和の三代の女たちの物語を通してみごとに歴史が重ねられていく。ジェンダーについて検討するいい教材だと思うけどなー。以前映画化されたときは、大竹しのぶとかが出たんだっけか、なんだか絢爛豪華な着物の映画みたいな記憶しかない。

週末用に借りて読んでみて良かったあ。

解説を桂芳久さんが書いているが、有吉と岡本かの子の違いを次のように表現する。「女の系譜をたどりながら、歴史の縦糸をしっかりとらえている。...有吉には「生々流転」の意識はない」297
しかし、流れに逆らわない。自然を支配するには自然に従順であるべき。
あの敗戦と農地解放によって凋落した家のみが「家」と呼ぶにふさわしかった。
「われわれは伝統ということばを否定的な意味でしか使うことができない」T.S.エリオット
否定すべき対象の重みを実感した者のみが伝統とは何かと問い続ける。
三代目として描かれる華子も決してラストランナーではないと解説者は言う。そして「作者は将来第4部を書かねばならないだろう。そのとき華子の娘が、否定できなかった部分だけが新しかったことを証明するだけである。しかし、その娘もまた次の世代によって挑戦をうけるだろう。」301(昭和39年)

有吉佐和子、1931-1984
20年後とは昭和54年。1979年のことだ。http://www3.ocn.ne.jp/~ariyoshi/sawako/reading/sawakod10.htm
によると、この年有吉は『最後の植民地』を翻訳している。これが有吉なりの答えだったのかもしれない。
やはり、本文を引きたい。135
「水流に添う弱い川は全部自分に包含する気や。そのかわり見込みのある強い川には、全体で流れ込む気迫がある。」
それを生命力の強さと、有吉は表現しているのだが。
明治気質の花の娘、文緒の言動の何から何まで、わたし自身を見るようで、いまとなっては逆に親の立場からその言動を見るがゆえの苦しささえある。しかし、それもこれもありながら、決して花の人生も、そしてその後も暗い結末ではないところが不思議な読後感につながっている。
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by eric-blog | 2005-02-27 11:34 | ■週5プロジェクト04 | Comments(0)

ちば国際交流協会「コーディネーター・ボランティア」

050225 ちば国際交流協会「コーディネーター・ボランティア」

梅村さん、博士論文拙稿を熟読いただきありがとうございました。前のメールにも書きましたが、「博士論文」として仕上げることが課題ではなくなった今、気づくことがたくさんあります。

ひとつは、ここしばらくの研修不完全燃焼傾向の原因だったのではないかということ。
ひとつは、動きの堅さとでも言うのでしょうか、いまの学問世界の病理が現れていた気がします。
両方とも「学問分野で通用するもの」とは何かとわたしが潜在意識的に感じ、実現しようとしていたのかという問題と係わってのことです。
前者は、より「専門家」という地位の確立、扱いへの助走的感覚だったのではないか。説得力のある、確立した論としての存在をどこかに求めていた気がします。そのために、そのとき、その場の参加者とともに作り上げることが、その感動と感覚がにぶっていた気がします。
論文というのは、実践と理論のつなぎを実験的に試行錯誤的に試みることだと思います。しかし、どうしても論文を書くという作業をするとき、自分の理論の確立を急ぐあまり、「見ないようにする」気持ちが働く、働いていた気がします。それが「説得」する気持ち、なんでそこまでわかんねぇんだという気持ちになっていたように思うのです。
後者は、専門分野での理論や動向は現実や実践とは違う論理で進んでいくものでもあります。論文を書くということは、多少なりともその専門分野での動向に擦り寄るような作業でもあります。そのために、論文の完成を求めれば、現実のニーズや変化に鈍感にならざるを得ず、実践の最適性を求めれば、論文としてはなんだっちゅう話にならざるを得ない。そんな気がしました。

いずれにせよ、今年は、羽を伸ばした形で、自由に本を書いてみたいと思っています。本を書く、言語化するという作業はいずれにせよ、実践の向上にすごく役立つことは明らかなので。ひとつは過去の共有のために、ひとつは未来へのパンくずとして。

さて、何だかとっても晴れ晴れとした気持ちで向かった千葉ですが、なんと長机2つを合わせた6つのシマを6-7個の椅子が取り巻くという超過密な場所で34名の参加者がぎっしり。

おなじみの「この場を快適に使うための心がけ」をやろうにも、どの二人一組かが決まらない。長机をはさんで、3組がむかいあって前の人と話すなんていう、すごい集中力が求められる事態にまで。

自己紹介は「これまでこの講座で学んだこと」のふりかえりを傾聴で。そこから「このようなコミュニケーションのトレーニングを日常や実践にどう活かすか」を考えることで組織でのチーム学習の必要性の確認。

じゃんけんで席替え。意外に混乱しなかったのはさすがだ。最初のルールづくりが活きている。

今度は、今日学びたいことは何かを話し合ってもらい、共有。今日の後半で何をするかを確認して、休憩。出入り口がひとつだけなので、ゆったりと15分。

「ものの見方・考え方」から【連想図・因果関係図】【年表】などを紹介。その後は「参加の文化」の3つのポイントに。
1. 肯定的風土
2. 対立は悪くない
3. 社会的提言

質問はふたつ。
「難しい」
「ERICという組織はうまく行っているのか」
前者については、生活習慣病への取り組みと同じで、決意の問題。
後者については、扱い方を知っていることの信頼。扱える自信が共有されていること。
努力を続ける。あきらめない。
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by eric-blog | 2005-02-26 12:09 | □研修プログラム | Comments(0)

宮崎は雨だった

050224宮崎

昨年に引き続き、宮崎県の研修。昨年は宮崎県が人権同和全国大会を控えての県レベルでのことであったのだが、今年は私学の研究会の県央部会からのお招き。

「共感から共生へ」ということで、アイスブレーキングと傾聴のトレーニングの後、ペア換え。

「天の職」
「しがまっこ溶けた」
「交流の心がけ」
「共生社会のためにわたし自身ができること」
「正確に聞く傾聴」

というような流れで1時間半。
12.50に宮崎空港について、14時から15時半まで、15.40にタクシーに乗って、18.30の飛行機で帰京。楽と言えば楽、もったいないと言えばもったいない。しかも天候が悪かったために、はらはらさせられ通しで、みやげ物やでゆっくりする時間もなかったという。

体育会系の方が、「自分はすもうで国際交流など行ってきた。子どもたちと楽しく交流すればそれでいいと思っていたが、卵を投げつけられたりするようなこともあった。交流というのは考えてやらなければいけないことなのかなと思った」というようなことを発言されたのが、わたしとしてはとてもうれしかったです。「考えてやるべきだ」ではなく、断定未満というところもとてもいいなと思いました。

「終わりの日の喜びのために」と「人生●●らしい」ははぶきました。またじゃんけんゲームも席替えのために一度「5回勝負」をやっただけで、負けじゃんけんまではできませんでした。
ちょっとわたし自身の「語り」が、参加者からの意見の共有よりも多かったですが、60名ほどの参加者で、結婚式場が会場で、という条件では仕方なかったかな、と。でもその体験談が参考になったなとは思いました。

来年も呼ばれるとすれば「対立」をやりたいなと思います。
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by eric-blog | 2005-02-25 10:43 | □研修プログラム | Comments(0)

自然の男性化/性の人工化

自然の男性化/性の人工化
クラウディア・フォン・ヴェールホフ、藤原書店、2003

トムゼン、マリア・ミースらとともに、フェミニズム理論家の一人なのだろう。昨年の2月15日購入となっている。ずっと読み続けているが、問題提起したいことはわかるのだが、それで何を言いたいのかわからない。著者は「西欧的思考」という認識の危機が生命の基盤を破壊しているために生じているという。そしてその危機が見えているのに、しがみついているとも。
19
知識が当然の帰結として認識にいたるというようなことはもはやありえない。それでもなお筋の通った知識を強いて求めようとすれば、それは「政治的に役立たない」から不要だとみなされるだろう。
20
本書には、いま現に支配している技術、支配している暴力、支配している自然理解という3つの中心テーマがある。それらはすべて相互に関連しあい、同一の現象に異なった側面から光をあてるものである。
21
戦争と平和、民主主義と独裁、体制化と社会運動、正常と破壊、人権と暴力が、互いに相反する[私たちがその一方を選ぶべき]選択肢などではなく同じメダルの表裏にすぎないとはっきりと明示することこそ、私たちの概念の「変革」なのだとすれば、その意味は何なのか。

わたしたちの思考と行動を支配している規範・カテゴリー・信頼性の「神々のたそがれ」がすでに始まり、チェルノブィリ原発の大災害以降ますます加速している  20

著者が同じメダルの表裏だという対概念そのものがなりたつ大前提というものがあって、それをわたしたちは疑うのだが、同時にそれはくずれてもいるということなのだ。崩れ始めたから、疑いが生まれたのか、いずれかはわからない。
著者が考えるのは「女たち」のことなのだが。

このような状況にあって、この本は何を描き出そうとしているのか、それがわからない。認識の基盤になっているものを疑っているために、ことばが何を意味するのかわからなくなる。例えば、「女」と言ったとき、それは過去の認識に絡めとられた、そしてその中で形成された存在を言うのか、あるいはそれを越える力を持つ存在を言うのか、それともその両方なのかが、つねにあいまいに起ち現れることになってしまっているという具合だ。
ものすごーーーーーーく、単純化してサマライズすれば、技術については
男性中心の西洋的思考の追究の結果としての科学技術社会は、出産という人類至高の生産行為を人工化、マシーン化してしまった。そして同様にすべての生産的なものをマシーン化してしまっている。いや、逆なのだ。生産をマシーン化してき続けた結果、もっとも至高な生産である出産までがマシーン化されるに至ったということなのだ。結果、人間そのものがマシーンから生まれる、までに至っている、この現状をどうするか。「男の出産マシーンから生まれる人間」***でも人工生命のことをそのように語るのは人工生命を買いかぶりすぎているので、わたしはこの議論についていけない。大前提が「えげっ?」極端に考えてみるという思考ゲームなのだというのであれば、おもしろいのだが****
自然を拷問にかけてきた近代科学の結果が、自然にどれほどの意味を持つのだろうか、という問題提起はおもしろい。31

さて、暴力についてだ。第二部「暴力は進歩か」113-218
もしも、いまの政治が暴力を管理するための装置として進歩してきたのだとするならば、そしてそれが女性に犠牲を強いる政治であるのならば、進歩などなかったというべきなのだ。と著者は申しておられるように思います。そしてなぜそのような「進歩」がありえたのかを問い直さねばと。

さあ、どんどん行くぞー。第3部「自然を認識する」219-290
「社会」と「自然」という概念の対置によって、自然と女性が搾取され、そしてそれは自然保護という運動によっても「保護」されるどころか破壊されるだけだ。取り組みの概念枠組みそのものが間違っているからだ。概念の間違いは人間中心主義の人間認識にある。そのような認識を進めてきたのは男性でそれが「自然の男性化」である。
そして認識された自然しか存在しなくなる。

「収奪される女たち」160-182という論文では女性学の危機についても触れられていて、「「学者は増える、専門化が進む、男たちも参入する」結果、女性の味方になる必要もなければ、まして自分が自己批判的、学問批判的に反省する、解放される必要もなくなる」というおもしろくも、興味もわかない実態に陥っていくことを指摘している。180

いずれにせよ、この難解な本をさらに難解にしているのが、印刷メディア言語表記の多様性だ。インターネット小説、携帯小説、組み文字文字ことばがはやるのもわかる気がする。意味の多重性に、もう普通の言語感覚はついていけない。これからこの本を読む人のために事例を挙げておく。
「」著者による強調。「自然化」とされるときもあり、自然化と「」なしのときもある。[] 訳者による補足。
() 著者自身による補足
ルビ 訳者の日本語にひらがなの読みをふっている場合と、カタカナで原語が示されている場合がある。

* 文節ごとに入れられているちょっとした注釈につける。
(22) 注釈

問題は女性の問い直しが男性の問い直しをやむなくせまることによって、全体の再構築が必要なのに、それがそうは進まないということ。それがわたしたちの生きている現実だということである。

『公共研究』批判と『オニババ化』をつなぐ本としてぜひ取り上げたかったものである。
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by eric-blog | 2005-02-25 10:06 | ■週5プロジェクト04 | Comments(0)

もう風も吹かない

平田オリザ作・演出の作品、昨日今日の二回だけの再公演。協力隊OBや桜美林大学学生などが出演。役柄と現実も近いためとても自然な演劇だった。まるで駒ヶ根の研修所を覗いているような。派遣への迷い、ODAへの疑問、所内の恋愛、規則やぶり、外務省の眼などテンコモリ。当日券も2000円!ぜひどうぞ!
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by eric-blog | 2005-02-24 10:30 | □研修プログラム | Comments(0)

エクソフォニー 母語の外へ出る旅

From: 足立 恵理
Reply-To: eric-panel@freeml.com
Date: Tue, 22 Feb 2005 12:51:37 +0900
To: eric-panel@freeml.com
Subject: [eric-panel:2715] Re: 再度05年度カレッジ講座日程など

ここ最近のERIC-パネルで、たくさんの自己紹介を読ませていただき、
ERICの多様性にあらためて気づきました。
わたしも、かくたさんの週5プロジェクトと、昨日の青柳さんのメール
に刺激を受け、「最近心に残った本」でごあいさつ?します。
ハンブルグ在住で、ドイツ語でも日本語でも活動している作家多和田葉子さん
の『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』(岩波書店、2003年)です。

外国語を学ぶということは、日本語を通して世の中の仕組みや人とのつきあい方
を学んできたわたしたちにとって、未知の自分を発見する?語の外へ出る旅」
だということ。ああしてはいけない、こうしてはいけないなどと日本語と一緒に
プログラミングされているタブー排斥機能が、外国語を話すことによって働かな
くなる状態のことを言っているのですが、いろんなアクティビティに応用できるし
すでにERICでもたくさんつくっていますね。国際理解、異文化理解等を日本の地域
でどう進めていくかに関心がある私は、境界上にたって物事を見る発見の楽しさ、
豊かさを伝えるエッセイに没頭しました。
著者の言葉に対する敏感さと愛情が、朗読のパフォーマンス等で披露する言葉
遊びや文章にもたくさん表れていて、楽しくなります。
ぜひ読んでみてください。
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by eric-blog | 2005-02-23 09:24 | ■週5プロジェクト04 | Comments(0)