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万民の法

かくたです。
                            2003年6月20日配信
『人権について』の中からの紹介です。

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7-4-29 万民の法
ジョン・ロールズ

いやいや、苦労して読んだかいがありました。この講演で、ロールズは、「正義論」
で打ちたてた「公正としての正義」の根幹であった「平等」リベラリズムが、正義に
とって必須であるのかいなかを再検討しています。

「どのような社会でも基本的人権を尊重しなければならないが、必ずしもリベラルで
ある必要はない」そして、ロールズはそのような社会として「秩序ある階層社会」を
想定する。正義とは「社会からくる豊かさの分配」について、合意や納得があり、そ
れを巡って暴力が起こっていないというような、秩序がある、安定しているというこ
とだ。

階層社会が秩序を保つためには
1 その階層社会が平和を好み、外交や通商その他の平和的手段を通して、みずから
の正当な目的を達成しなければならない=膨張主義的でない
2 法体系が正義の共通善的構想によって導かれている
3 基本的人権を尊重している
ことが必要であろうと、ロールズは考察する。その際、満たされなければならない人
権とは、以下のように考えられるという。
・生存と安全を確保するための手段(生存権)
・自由の権利(奴隷制、農奴制、ならびに強制労働から解放される自由、良心の自由、
結社の自由、宗教の自由、移住の自由)
・財産権
・自然的正義の原則によって明示されるような形式的平等
・法の支配

「階層社会の人々は、リベラルな社会の人々と同じ様な自由かつ平等な市民とは見な
されませんが、彼等の道徳上の義務と責務について理解することができるし、社会生
活においてその役割を果たすこともできる社会の責任ある構成員である
「人々がみずからの道徳的義務と責務を認識し、それに従って行動することのできる、
責任能力を持ちかつ協力的な、社会の構成員であること」
つまり、平等ではないにせよ、役割を果たすという意味では、社会的に有意味な存在
であることが、階層社会にあればということだ。
「人権を尊ぶことを保障する正義の共通善によって導かれている」のであれば、その
社会は秩序ある、安定した社会であるだろうということだ。この場合、「正義に対し
て安定」であった、社会が変化しないわけではないという断わり書きつき。

「人権は体制の正当性とその法秩序の妥当性との必要条件である」

そのような秩序を「万民の法laws of peoples」とロールズは呼んでいるのである。
「正義論」で指摘した、「有利性の配分」についての正義を、公正に決定する「公正
としての正義」を、決定の公正さにおいて、階層社会、中でも協議制階層社会を排除
しないものが万民の法なのである。

公務員のための研修にぜひこの内容は取り入れたいなー。
「人権は、それを求める心において普遍的である」とわたしは「人権教育」の本でま
とめたのだけれど、国際的な、そして西洋的哲学的発展段階の議論に現われる人権と
いうものも、より身近なものとして考えられていくものなのだなという感想ですね。

明日からの「かなざわ地球市民の会」の研修に活かすぞ!
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by eric-blog | 2004-07-31 11:49 | ■週5プロジェクト03 | Comments(0)

LDC 国連大学レクチャー

                           2003年6月19日配信
かくたです。

昨日のワークショップの発展をどうするかにもつながるような内容でした。
石塚さんは、アフリカに詳しいし、ワクワクしてきちゃったーーーーー。
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7-3(28)LDC 国連大学レクチャー

How Can the Impoverishment of the Poorest COuntries Be Stopped?

Rubens Ricupero
UNCTAD=UNConference on Trade and Development
United Nations University
UNUPublic Lectures


ダクラス・ラミスの「経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか」(平
凡社、2000年)は、あっさりとした本だったので、週5プロジェクトではまだ紹介し
ていないが、その中に貧困についての4分類が紹介されている。誰か、どこかに原典
がありそうだけれど。

1.伝統的貧困 自給自足の生活が後れていて、困っていない。しかし、GNPとい
う尺度で測ると「貧困」と呼ばれる。
2.世界銀行が定義している「絶対的貧困」一日一ドル以下の収入で生きている人々
のこと。
3.「金持ち」に対して相対的に「貧困」ある社会に「金持ち!」と言われる人が存
在するならば、必ず存在する侮辱的な社会関係としての「貧困」。無力さ。
4.消費社会が作り出す欲望に駆られて「買えない」こととそのみじめさの「貧困」

で、WTO設立以来のこの10年間の間に、WTOへの仲間入を果たしたLDC(least
developed countries=最貧国)は一カ国もない、という現状認識である。UNCTADの事務
局長であるリカペロ氏が国連大学で行った講演録である。

今週は、『人権について』から論文を紹介すると言っていたのに、急な台風で、予定
が狂った。ので、手近に入手したもので、お茶を濁すのである。いやいや、LDCの問
題は「人権」「公正としての正義」いずれの問題にも関わりますでの。

LDCは、49カ国あるらしい。その内の34カ国までが、アフリカにあるらしい。それもサ
ハラ以南の地域らしい。(sub-Saharanという表現も、以前は「ブラック・アフリカ」
と表現されていたものが多文化主義的、バイヤス・フリー的に言い替えられたもの
か)
東チモールも、加わりそうなんだそうだ。

アフリカに対する援助枠組みとして、新たにNew Partnership forAfrica's
Development(NEPAD)というのが、アフリカによる、アフリカの、アフリカのための主
導として創られたそうだ。目指すは、平和、安全、民主主義、良質な統治、人権、安
定した経済経営。

現実的には、アフリカ諸国の一人当り所得は、1980年のレベルから10%も低くなって
いる。経済成長率は3%だが、これは人口増加率で相殺されるレベル。

・構造調整などに取り組んだにも関わらず、投資を引き付けることができなかった。
・ODAも減少、1980年代のレベル以下に。
・貿易障壁=関税および非関税障壁
・莫大な累積債務

労働集約型農産物が主たる輸出品となるわけだが、それには、先進国の補助金行政が
邪魔をする。債務国救済枠組みも機能していない。

経済成長が急務だが、その効果が貧困な人々に行き渡るわけでもない。成長を促進す
る政策が、貧困層を困窮させる経済混乱につながることもある、など、経済成長一辺
倒ではうまくない。

で、いま取り組んでいるのは、国家レベルの政策決定者、市民社会組織、貧困なコミュ
ニティからの参加によって、対貧困プログラムをデザインすることなのだそうである。

構造調整が迅速で持続可能な成長をもたらすことに失敗した経験から、対貧困政策は、
経済成長、所得の配分、貧困層の福利という観点から注意深く評価されながら、進め
られる必要があるという。社会影響評価調査。

一方で、参加とオーナーシップと言っても、多国間借款の運用の厳密さがネックにな
り、どの程度、被援助国の主体性が発揮されうるか、疑問があるという。お金を受け
取り、活用できることを保証するための条件づけである社会的・政治的・経済的体制
が整っていないのだ。

何よりも、安全保障である。内戦、戦争、それらがアフリカを弱らせてきた。それら
を終結させるのが、アフリカ諸国側の責任であり、それが貧困撲滅に国際社会が協力
する前提条件だ、らしい。こりゃ、大変だ。先進国側からの協力がうまくいかなくて
も、いつでも言い訳にできそうな不安材料は、アフリカにはありそうだからね。

さて、TICADTokyo International COnference on African Developmentがこの10月に、
もちろん東京で行われる。「NGOキャパビル・ワークショップ」に参加していたアフ
リカ協議会の人もそのことに言及していた。わたしたちは、「Tokyo Agenda for
Action: African Development towards the 21st Century」に向けて、どのようなキャ
ンペーンを組む必要があり、また、できるのだろうか。金だす以上に知恵を出そうよ、
日本。にでっきるかなー?

ひょっとして、これを題材にキャンペーン・ワークショップの第2回をやったらおも
しろい? うん、おもしろそうだね。
Can-Doの永岡さんなんかをリソースパーソンに招いてサ。

昔、某団体のアフリカ担当から、「エチオピアでは、援助の視察が来ると貧困そうな
ふりをして、視察が帰ったら、豊かな日常生活を送っている」んだというような裏話
を、聞いたことがある。あのようなスタッフを放っておくようでは、この団体は、本
質に迫れないし、迫るつもりもないのだなと思った。

ERICの主催研修の9月13-15日は、「対立」がテーマだが、「合同キャンペーンづく
り」と対立の要素、という要素を取り入れたらどうだろうか。

ぜんぜん、本の紹介とは違うじゃないか、これは。
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by eric-blog | 2004-07-31 11:48 | ■週5プロジェクト03 | Comments(0)

正義論

                           2003年6月18日配信
かくたです。

明日は、台風とかで、研修が延期になりました。今週は忙しいと覚悟していたのです
が、拍子抜けーーーーーー。
出張を理由に、今週の週5プロジェクト、さぼろうと思っていたのに。(--);

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7-2(27) 正義論
ロールズ, ジョン
紀伊国屋、1979

すごい本である。460ページを超える大作である。1971年が原著の出た年。この前も
紹介したと思うが、最初のアイデアは1957年である。1999年の「人権について」まで、
40年の活動である。すごい。

訳本が出る1979年の段階で、多くの批判が寄せられているという程、刺激的な本であっ
たようだ。
20分で読むなど、とんでもない。センが引用し、サンデルが批判しているところから、
やっと読み込むところまで来た。『人権について』の中の「万民の法」を読み解くた
めに、そして合わせて紹介しようと思っていたのだが、正義論について紹介するだけ
でもずいぶんボリュームが多くなるので、「万民の法」は別途紹介することにする。

感動した言葉は、最初のページの出だしである。
「正義は、社会制度の第一の徳目であって、これは真理が思想体系の第一の徳目であ
るのと同様である。,,,法と制度は、正義にもとるならば、どんなに効率的で整然と
していても、改正されるか廃止されるかしなければならない。,,,真理と正義は、人
間活動の第一の徳目であるからそれぞれ妥協を許さないのである。」

真善美というものは、人間の内側から発するものだと思うのですが、正義も結構大
事?

正義とは、ロールズは、社会協働の有利性の便益の配分のための原理なのだと言う。
「社会とは、相互の関係の中で、一定のルールに従って行動する人々の、多かれすく
なかれ自己充足的な連合体であると仮定しよう。さらに、これらのルールは、そこに
参加する人々の善を増進するように企図された協働の体系を明確に定める、と想定し
よう。すると、社会には、相互の有利化を求める協働事業ではあるが、利害の一致と
共に利害の対立が生じるという、際立った特徴がある。社会的協働は、全ての人々に、
一人て努力して一人で生活する場合よりもよい生活をもたらすことができるから、利
害の一致がある。人々は、共同作業によって生み出されるより多くの便益がどのよう
に分配されるかについて、無差別ではいられないから、利害の対立がある。,,,有利
性のこの分割を決定するさまざまな社会的取り決め(arrangement)の中から選定を行
い、適正な分配上の取り分についての合意を取り付けるためには、一組の原理が必要
とされる。これらの諸原理が、社会正義の諸原理である。」

ロールズにとっては、共同体、というか、連合体と彼は呼んでいるのだが、それは、
以下のように、正義によって結び付けられている。
・公共的正義感が、堅固な連合体を実現可能にする
・共有された正義の概念が市民的友情の絆を確立する
・正義への一般的な願望は、他の目的の追及に制限を加える
・正義の公共的な概念が、秩序ある人間的連合体の基本憲章を構成していると考えて
もよい。

そして、表題の「公正としての正義」というのは、この正義の諸原理を人々が合意す
るということによって達成されるという。
「社会の基本構造のための正義の諸原理が原初的合意の対象である
自分自身の利益の増進に関心をもち自由で合理的な人々が彼等の連合対の基礎的な条
項を定義するものとして、平等な初期状態で受け入れるであろう諸原理である。,,,
正義の諸原理を考えるこの方法を公正としての正義と呼びたい。」

わたし自身は、この表題を見たときに、「正義」は「公正」でなければ、意味がない
と理解し、そしてそれは的外れではなかったのだが、ロールズが言うように、原初状
態で、平等で、合理的で、という存在、あり方が可能なようには思えない。

「原初状態にある当事者は全て平等であると想定することは、合理的であるように思
われる。つまり、当事者全ては、諸原理を選択する手続き上、等しい権利を有してい
る。各人は提案し、それを受け入れる理由を述べる、等のことができる。これらの諸
条件の意図は、道徳的人間としての、つまり善の概念を持ち、正義感をもつことがで
きる創造物としての人間的存在間の平等を示すことにある。平等の基礎は、これら二
点に関する類似性にあると考えられる。諸目的の体系は価値の点で順位づけられるこ
とはなく、それぞれの人は、どのような諸原理が採用されようとそれを理解し、それ
に基づいて行動するのに欠くことのできない能力をもつと、想定される。無知のヴェー
ルと共に、これらの諸条件は、自分の利益を増大させることに関心をもつ合理的人間
が、社会的、自然的偶然性によって有利になるか不利になるかを誰も知らないときに、
平等であると同意するようなものとして正義の原理を定義する。」

そんな人間、どうすれば、形成することができるのか。それが知りたい!

ということで、ロールズを読んでいると、人間は、所与の条件的に「道徳的」で、正
義を好むらしいが、うーーん。さらに、「負荷なき個人」という共同体からの影響も
ないという前提も、確かに、議論を醸し出すだろう。


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とはいえ、「正義は、社会制度の第一の徳目である」というこの言葉に出会うだけで
も、良かった。今度、ワークショップ・ワークショップで、「正義」「自由」「共同
体主義」について「本とのインタビュー」をやりませんか?
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by eric-blog | 2004-07-31 11:46 | ■週5プロジェクト03 | Comments(0)

人権をめぐる5つの寓話

かくたです。
                            2003年6月17日配信
『人権について』の講演録の中から、今日はルークスのものを紹介します。おもしろ
かったのは、人権についての取り扱い方を、5つの国のパターンに分けて説明してい
るところです。ルークス自身は、「平等国」が目指すべき国だとするのですが、それ
を達成することは、自由主義、共同体主義の2つの限界からできないだろうとしてい
ます。
いずれかの国になってしまうことは現実にはないと思えるので、「未来のシナリオ」
を考えるワークショップとしては使える材料だなと思いました。


「人権をめぐる5つの寓話」 スティーブン・ルークス pp.23-49

それぞれの国の特徴と、限界、人権についての考え方を以下のように整理している。

utilitalia「功利国」
最大多数の最大幸福をめざす、功利とは=Welfare福祉であり、計測可能な物質的指
標で表わされる幸福のこと、また、人の欲望を満たすことが最大の善である。;官僚
やテクノクラート、裁判官に力があり、彼等が「最大の功利」を判断し裁定する。;
最大多数の幸福のために、一人ひとりの払わされる犠牲がどの程度になるのかわから
ない;ここでは人権は無用、それをふりかざして功利的判断に異議を唱えるかもしれ
ないから。「切り捨てられない権利はない」代表的代弁者はジェレミー・ベンサム

communitalia「共同国」
高度な公共心と集団的な目的を共有している社会;自我には「位置が与えられている」
集団との一体化を通じて自分達の存在を確認する。土地に愛着を感じ、ルーツを慈し
み、有機的な結び付きを感じている。思いやり、伝統、風習にのっとって、共同体は
受け継がれる;
しかし、これらの状況が現在ではほとんど移住者による変化にさらされている。そこ
で新共同国=多文化主義の立場で、複数の共同体の並列を認める。「承認をめぐる政
治」によって下位共同体は区別され、支援され、公正な処遇を受ける。;相対主義が
特徴;共同体に組み込まれきれない個人の逸脱、下位共同体からの集団の逸脱などの
逸脱が常にある。

proletalia「無産国」対等で十全な人間によって構成される社会。生産できるものを
生産し、必要とするものを手に入れる。社会の成立の運動のきっかけとなった「無産
者」も、この社会が成立した場合には、消滅している。
それぞれの人間が完全で、対等なので、知識人、労働者という区分も消滅する社会。
問題がないのが問題。代表的予言者グラムシ、エンゲルス、マルクス

libatalia「自由国」
所有権が最大の権利、強制的再配分はしない、民営中心、機会の平等、市場優先、
自分の能力や努力に対する際限なき報酬が認めることが「権利」であり、生活の構造
が不正義の構造であるという考えが理解できない。「橋の下で眠る人は、橋の下で眠
らない人と同じ権利を持っている」社会である。

Iqalitalia「平等国」同一階層からなる社会、平等を達成するために必要な保障の不
平等は認める、最高の経済水準において、最高水準の条件での平等を達成できるよう
な経済を、もっとも効率よく樹立したいと願う社会である。

平等国の限界は、自由主義と共同体主義にある。

「いやしくも平等国に到達することができるとすれば、それは人権というプラトーか
らだけなのです。」

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未来のシナリオ、ないし、シナリオ・ワークショップに活用できるアイデアなのでは
ないだろうか。
どれかだけでは、これからのどの社会も成り立たないだろう。価値観の明確化には役
立つ分類なのではないでしょうか。
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by eric-blog | 2004-07-31 11:44 | ■週5プロジェクト03 | Comments(0)

人権について

かくたです。
                           2003年6月15日配信
11-13日の三日間自治体職員の研修の課題がよく見えた研修でした。

・行政の「公正さ」に対する意義の自覚が薄れている
・ビジョンがない

というのが、最大の印象です。あんなにおもしろくない「未来のシナリオ」は初めて
でした。

さて、今週は、来週の予告でお茶をにごし、来週は、一冊の本を分解して紹介するこ
とで、お茶をにごそうという。<(_ _)>


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6-5(25) 人権について−オックスフォード・アムネスティ・レクチャーズ
シュート、ハーリー編
みすず書房。1998

表題が示す通り、1993年の7つの講演記録をまとめたもの。
「人権をめぐる5つの寓話」 スティーブン・ルークス
「万民の法」 ジョン・ロールズ
「戦時の犯罪、平時の犯罪」 キャサリン・マッキノン
「人権、理性、感情」 リチャード・ローティ
「他者の権利」 ジャン=フランソワ・リオタール
「自然法の限界と邪悪のパラドックス」 アグネス・ヘラー
「多数決原理と個人の権利」 ヤン・エルスター

1993年とは、どのような時代であったのか。すでに、1998年までカバーしている2001
年発行の「世界史年表」によると、STARTII調印、ボスニア・ヘルツェゴビナ、新ユー
ゴ、ウガンダ・ルワンダ、国連ウィーン世界人権会議、ウルグアイ・ラウンド最終合


もちろん、1991年が湾岸戦争で、92年が地球サミットで、そして、それからちょう
ど10年たった今、わたしたちは、マルクス主義を信奉していた人達が、思い描いたよ
うに「線形的に」時代が進まなかった、ということを発見したと同様に、人権につい
ての議論も、「思い描いた」ようには進まないという挫折を味わっていると思います。
最近、読んだ上野千鶴子の「サラバ、...」で、宮台真司の時代感が紹介されていま
したが、これからの時代は、「まったりと生きる」とか、「人生は死ぬまでの暇つぶ
し」というような観念が紹介されていました。
マルクス主義でもなく、人権主義でもなく、わかりやすい主義によって時代が変遷し
ていくことはないだろうと、「歴史の終わり」を指摘したのはフランシス・フクヤマ
ですが、さまざまな混沌の中から、「自分が考える人間とは、人間の社会とは」を一
人ひとりがえらばなければならないのだなというのは思います。

1993年のこの論議から、さらに、2001年9月11日、そして、2003年アフガン攻撃、そ
してイラク攻撃を経たわたしたちの「挫折」というのは、何であったのか、ふりかえっ
て考えて見たいと思います。

そして、理論的な、インテリの挫折が、時代にどのような影響を及ぼすのか、そして、
そのようなこととは無関係に、人々が生きるということにおいて、何が「つながって
いる」のか、を考えたいと思います。

出張も重なる予定なので、それぞれの論文について、一日、というか、一本というこ
とにしていただくということで。

オーボワール、再見、アスタマターニャ。
今日は、「関係性の教育学」の会に出られなくて残念でした。どなたかぜひレポート
してください。
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by eric-blog | 2004-07-31 09:51 | ■週5プロジェクト03 | Comments(0)

サヨナラ、学校化社会

かくたです。
                    2003年6月10日配信
ちょっとやっぱり、一日に5本はむずかしいか。これからファシリテーター・ミーティングなので、来週まで、サヨナラ。

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6-4(24) サヨナラ、学校化社会
上野千鶴子
太郎次郎社、2002

上野千鶴子さんの本は、「枠組み」に刺激されることが多々あります。特に、わたし
が感動したのは、マイノリティが共闘できるかという問題に対し、「普遍的な理論に
対する禁欲」という言い方で、安易な共闘、そして、さまざまな差異と細部の切り捨
てを問題にした視点が、人権の本をまとめている時には、参考になりました。

さて、その上野さんが書いた、ベル・フックスの「Teaching to Transgress」にあた
るような、学生とのやりとりや、学生についての観察から論じた当世学生気質とそこ
からの分析とでも言う本です。軽く、読めます。(たまには、そういうのも紹介させ
てくれーーー!)

学校的価値というのは、業績原理で「やればできる」を前提にしたもので、しかも、
それは多いに「言語化」能力と対応している、その学校的な価値が、社会的な価値や
あるいは子育てにおける価値などにまで蔓延、共通してしまっているところが、あや
うい、というのが、「学校化社会」の問題だ、というのが、問題意識です。

そのことの立論と、描写には、上野さんらしく、いろいろと鋭い分析と主張があるの
ですが、わたしがおもしろいと思ったのは、
・女の子には、学校的価値基準で「できる」ことをウリにするか、「ジェンダー」を
逆手にとった「女性性」をウリにするか、選択肢がある。(男の子にはないので、大
変だろうなーと思うけど、上野さんには「男の子」のことはわからないので、放って
おく。)
です。

プラス、上野さんの「学生たちのトレーニング」方法が紹介されていて、「フィール
ド・ワーク」による第一次資料の獲得と、「KJ法」による分析→発見を、一年間でト
レーニングするというものです。それが彼女の知的生産の技術で、彼女は教員として
「ハウ」を教えるのだと言います。自分で「問い」をたて、資料、情報を収集し、分
析して「わかった」時の快感は何物にも変え難く、それが「研究者」であることの意
味だと言います。ディーコンの「前頭前野皮質」的快感みたいだね。

女性起業家のグループでも同様に指導し、知的生産性を上げていく方法を伝授するの
だそうです。

なんか、まさしく「ワークショップ」や「参加型」でやっていることと同じですね。
ただ、上野さんの「ハウ」はもちろん社会学に限定されるので、社会学を選考すると
決まった高等教育段階としてはいいけれど、中等教育段階までの問題を指摘する中に、
自分の教育方法論ですべて切って見ている感じがしなくもなくもない部分は、気にし
ないようにして読まないとね。
何が、学校化社会を進めたのかの分析はもう少し必要だなー。
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by eric-blog | 2004-07-31 09:50 | ■週5プロジェクト03 | Comments(0)

自由主義と正義の限界

かくたです。
2003年6月10日配信

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ぜんぜん、「道であった人に紹介する」感じじゃないね。
サンダルばきでわかるサンデル、なんてぐちっちゃうほど、わからない。
で、抜き書きみたいなのですが、許されよ。

でも、わかったことは、「わからない」と思っても強引に次のページ、次の部分と、
進めていって、最初に戻ると、その言葉になじみがある気は、少なくともしてくるも
のですね。ワークショップと同じで、「親和性」によるコミュニケーションの成立と
いうのが、本との間でもありますね。批判はできないけど。(^^); 否定はせずに肯
定的にその影響を受け止めるぐらいまでは...なんとか。いいのか、それで?

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6-3(23) 自由主義と正義の限界

1992
サンデル, M.J.
三嶺書房
Michael J. Sandel, Liberalism and the Limits of Justice, 1982

9
自由主義,,,は、自由で独立した人格の構想であり、それは自らが選択しない道徳的、
政治的責務には拘束されない。
自分自身をまったく負荷なき自我として構想することは、,,,広範囲な道徳的、政治
的責務の意味を理解できなくなることである。その責務によってわれわれは、特定の
共同体、生活史、伝統における成員であることと結び付いている。

宗教の自由を認めるということは、自由主義によれば、個人の選択を正とすることで
ある。しかし、宗教とは、共同体である。
ある共同体において、サブ共同体を認めるということは、そのサブ共同体が、共同体
の善を侵害しないという前提に基づいているのではないだろうか。

相対主義者による、自由主義の擁護は何ら擁護といえないものである。12

個人の権利とは、社会が認めるもの・保護するもの=ミル

共同体主義は、多数決主義ではない。28
善き生活のいかなる特定の構想も前提とはしない仕方で、権利が同定され、正当化さ
れうるかどうかである。28
社会の基本構造を支配している正義の原理が、その市民が信奉し、競い合う道徳的、
宗教的信念に関して、中立的でありえるかどうかである。いいかえれば、基本的問題
とは、正=権利が善に優先するかどうかである。28

善に対する正の優先は、,,,,個人の権利が非常に重要であるので、一般的福祉といえ
どもそれをじゅうりんできない,,,,われわれの権利を特定化する正義の原理が、その
正当化のために、善き生活のいかなる特定の構想にも依存しない,,,,

正義は善に相関的であり、それから独立していないと考えることによって、,,,自由
主義への共同体主義批判と同一視される。29

正義は善に相関的であるとは、普通に信奉されている価値から、あるいは、特定の共
同体か伝統において広く共有されている価値から、正義の原理がその道徳的効力を導
き出す。29
,,,つまり、共同の企て、ないしは、伝統に内在しているが、実現されていない理想
へと訴える。30

正義は善に相関的であということは、,,,正義の原理がその正当化のために、それが
めざす目的にある道徳的な価値か固有の善に左右されると考えること。,,,ある正を
承認するかどうかという論拠は、それが何らかの重要な人間の善を称え、推進すると
示すことに左右される。この善が、たまたま共同体の伝統で広く尊ばれたり、そこに
内在するかどうかは、決定的なことではない。,,,したがって厳密に言えば、共同体
主義ではない。それは、正が推進する企図あるいは目的の道徳的重要性に、正の論拠
を依存させているので、目的論的、ないしは、完成主義的である。30

正義を善の構想につなぐ2つの仕方のうちで、最初のものは不十分なものである。言っ
ていの週間がある特定の共同体の伝統によって是認されているむというたんなる事実
によって、それを正当であるとするのは十分ではない。正義を慣例の産物とすること
は、それから批判的な性格を奪うことになる。31

正=権利の論拠が実質的な道徳的、宗教的教義に対して、中立的であるべきであると
考える自由主義者と、正が優勢な社会的価値に基づくべきだと考える共同体主義者は
同様に間違っている。両者とも、正が促進する目的の内容に関しての判断にふれるこ
とを避けている。
正の正当化を左右するのは、それがめざしている目的の持つ道徳的重要性にある。31

--------------------------------------
正とは、批判的に、検討されるべきものであり、共同体に内在するものではない。批
判は、個人に由来するから、自由主義なのであるが、しかし、その個人は、「負荷な
き自我」ではなく、共同体としての正の追及を行うものなのである。
--------------------------------------
わたしがまとめるとサンデルはこういうことを
言っているのだと思う。

さあ、次は、いよいよロールズですが、果たして、読めるのか?

--用語集(訳本で並記されていたもののみ、英語あり)----------------
正 rights
善 good
権利 rights
正当 just

自己同一性 identity
負荷なき自我 unencumbered selves
自由主義 Liberalism
相対主義

道徳性の主観性
寛容
自由
公正
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by eric-blog | 2004-07-31 09:48 | ■週5プロジェクト03 | Comments(0)

バイアスフリーの英語表現ガイド

かくたです。
                    2003年6月10日配信
語るにつれ、自分自身のバイアスが明らかになるという、気恥ずかしさに、気後れし
ないというのは、どういう根性しているのでしょうねー。

ほほほほほほほほほ----------

6-2(22) バイアスフリーの英語表現ガイド
マリリン・シュウォーツ
全米大学出版局協会バイアスフリーの用語検討委員会
前田尚作[訳]
大修館、2003

さて、「植民地主義」とか「西洋植民地主義」とか、異文化との出会い方を総称する
言葉は、なかなか簡便な表現が難しいなー、と反省しつつ、「バイアスフリーな表現
のための」ガイドラインを共有しておこうではないか。
*バイアスとは「惰性による思い込みによって生まれる暗黙の基準」=「根拠のない
固定観念」

いよいよである。「差別用語」という、怖いような、避けたいような、過去型表現で
はなく、「Politicaly Correct(政治的に正しい)」というような、小賢しくたちふる
まおうというノウハウ系でもなく、「解放された」あり方を求める、そんな表現のた
めのガイドラインである。
とは言え、なぜ「解放された」「フリー」という言葉が、未来型とまで言いたくなる
表現ではないのだろうか。不思議である。言語表現において、われわれは、「いまだ
し」な存在なのだろうなー。

本を一読しての感想は、「ナーンダ、これからは、変に「英語らしい英語」「ちょっ
と通な表現」なんてものは、学ぶ必要はなくなるな」=ホッ、である。外国語として
英語を学ぶ人達は、まっすぐな表現ができるようになることを目指せばいいんだ、と
いうことだった。文学的表現なんて、さらされればさらされるほど、「性差別的」
「人種差別的」「男性優位主義」「自民族中心主義」「健常者至上主義」「異性愛中
心主義」「高齢者差別主義」的言語と感性を習得してしまうだけなのだから。
sexism, androcentrism, thnocentrism, normalism, heterosexism, ageism

ということで、これらの偏見に対して、「ゆがみのない公正な」言い方としての「バ
イアスフリー」なのである。

とは言え、この本は、結構スカスカである。この本だけでは、十分な言い替えの事例
にもありつけない。それを補うべく参考文献などが整っているのが、いい点だ。つま
り、言葉は生物だし、その時々、その人々によって違うから、「社会」とともに生き
ていることが大切だ、ということのようである。アンテナはってなさいよ、ついでに、
自分たちがなんと表現するか、発信しなさいよということのようでもある。

日本語に比較して、英語は、もともとの語の意味でのジェンダー、性・格がはっきり
しているのと、単数・複数の使い方が明確なのが混乱の元になっている。

Manで総称することはできない。「まやかしの総称」
単数形のものを受ける代名詞がhis/herが問題になる
対策としては、she/he, his/herを交互に用い、かつ前後も変える
s/heという二重代名詞形もあり。

Everyone has to carry their own luggage.
のように、theirを単数形で使う。(中世から近世にかけてあった用法だそうだ)

その他、言葉の落し穴としておもしろいと思ったのは、
・Inside/Outside=身内/よそ者規則=「自称の自己決定」と「他称詞」の違い
・原文修正ができない復刻版にはきちんとした断わり書きdisclaimerをつける。
・color symbolism色彩象徴=これは、日本だと「男色」「女色」みたいに思うが、
これは人種偏見についての項目で出てくる。
・つらい思いがつまっている言葉を、軽々しく比喩的表現などに使わない。「虐殺」
「ホロコースト」
・発見神話discovery myth=旧世界、新世界
・自民族中心主義
・障害はなるべく具体的な症状で言う。しかし、治療中以外では、病名で代表させて
はならない。
・形容詞の名詞用法は避け、Person-first、つまり、「聴覚に支障がある人」という
ような表現がベター。
・犠牲者扱いする表現はネガティブな固定観念につながる
・handicapというのは、環境の側に、問題があることを言う表現。これはいいね。

さらにおかしかったのは、gender-inclusive expressionを「両性包括表現」39と、
わざわざまた二元論にとらわれた翻訳をしてしまっているところが、「言語の落し穴」
の底深さを表わしているなと。

参考文献の中で、おすすめなのは「きっと変えられる性差別用語」です。(上野千鶴
子・メディアの中の性差別を考える会編、1996、三省堂) 表現は「バイアスフリー」
とまではなっていないのは、時代のせいでしょう。(^^);

以下は、わたしが英語を教えているテキストに「PC= politically correct 政治
的に正しい言い方編」として、紹介しているものです。まずは、習得してから、それ
を超えるしかないのですね。来年度は、このあたりの流れも加味した「バイアスフリー
」な表現編にでもしようかな。ご笑納くだされ。もちろん、授業で扱う時は、「な
ぜ?」を考えるのですが、必ず授業でやるわけでもないので、「使うな」というよう
な断定的表現で「警告」しちゃっています。「なぜだか、考えよう」というようにし
ておいても良かったのですけれどね。別に。わたしの教えている学生さんたちは、
「思考・省エネルギー・モード」走行者なので。アイドリング・ストップどころか、
走行中でも思考をストップできちゃう。すごい技なんだよね。なんでかなー。

おまけ----------------------------

下の単語は、特に、英語の単語がそのまま日本でも使われていて、英語では表現が変
化してしまっているのに、日本語ではついつい使ってしまいがちな単語だ。英語にす
る時に気をつけないといけないとともに、日本語でも使わないようにすべき単語だ。

businessman →
chairman →
sportman →
salesman →
cameraman →

英語では次のような単語は、一般名称としてはもう使われない。

fireman →
policeman →
mailman →
manpower →
gentleman's agreement →
steward, stewardess →
housewife →
mankind →

physically/mentally handicapped →
deaf-and-dumb language →
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by eric-blog | 2004-07-31 09:46 | ■週5プロジェクト03 | Comments(1)

変貌する大地−インディアンと植民者の環境史

かくたです。
            2003年6月10日配信
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多文化主義的観点から、先住民と近代西洋型移住民との接点について前回のWK2で考
えましたが、一本、そのような生活スタイルの違う人々の出会いに、自然環境/生活
環境がどのようにまた改編されていくかに焦点を当てた本を紹介します。

スペイン人が中南米を侵略した時、武力よりも感染症などの威力がまさっていたので
はないかという指摘もありますが、環境改編にも、以外なファクターが働いていたり
するのですね。

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6-1(21) 変貌する大地−インディアンと植民者の環境史
クロノン, ウィリアム
けいそう書房,1995
原著Cahnges in the Land--Indians, Colonists, and the Ecology of New England,
1983

異文化との出会いは、環境も変える。この本の著者は、ここで研究されているニュー
イングランドの生態的植民地化は、同様の変化が植民地化しようとした世界中の地域
にもよくあてはまるものだと言う。(アルフレッド・クロスビー「生態的帝国主義−
ヨーロッパの生物学的拡大、900-1900」1986は、ヨーロッパについての同様の研究で
ある。)
「市場資本主義、輸送システムの拡大、産業革命は、強烈な生態的副次効果をもって
いる」
このような環境史的アプローチ、すなわち「よく馴染んだ歴史的出来事を、それに付
随したあまり馴染みのない生態変化に結び付ける仕方を探究すること」、そういう問
いかけが、わたしたちの過去についての見方を広げ、新しい洞察をえることに貢献す
るのではないかと著者は言う。

では、環境史的アプローチとは、どのような方法論によるものであろうか。
当時の記述
記述についての評価が不可欠=限定された立場、限定された訪問先、限定された関心、
限定された用語など。
表面的に似た種に対して、ヨーロッパ名を与えてしまっている記述
行政に残された記録
環境の変化を予期してもことか、あるいは変化への反応としてであったのか
切り株、立ち木、花粉化石、
考古学的証拠
これらの証拠に依拠しながら、まったく歴史的な証拠を残さないようにしてしまう状
況が存在することをも考えて議論を展開せざるをえない、と著者は指摘する。

さらに、人間の活動の何が変化をもたらしたかという「関係」を特定するのはさらに
困難である。20世紀初頭の生態学は、それに対照させる「人間の活動のない」状態で
の自然環境の変化は、ある特定の地域の「極相」的均衡の達成を知らなければならな
いと考えた。そこから、「変化は、邪魔の結果ではなく、生物群集が自らを維持し変
容させるという普通の過程の結果なのだ」という生態学研究のアプローチの変化があ
り、さらに、この著書で問題とするところの「人間の生活の2つのあり方」を検討す
る立場へと変化してきた。

「生態史は、環境と文化の間の動的で変化する関係、つまり連続性を生み出すととも
に矛盾を生み出す傾向のある関係を事実として認めることから始まる。」

「環境は、最初のうちは、ある時点で人々が手に入れることのできる選択の範囲を形
成するだろう。しかし、それから後は、文化がこれらの選択を行いながら、環境を再
形成するのである。再形成された環境は、文化の再生産のために、一揃いの新しい可
能性を提供し、相互決定の新しいサイクルを開始させるのである。」
「人々が暮らしを創造し、再創造するしかたにみられる変化は、彼らの社会関係にお
ける変化のみならず、生態関係における変化の観点からも分析されなければならない
のである。」

著者はソローのウォールデンにおける慨嘆、「無傷の大地を改変したヨーロッパ人」
という考え方の限界を指摘しつつ、

「植民地時代のニュイングランドにおけるインディアンとヨーロッパ人の2つの人間
共同体のセットは、2つの生態関係のセットでもあって、対じして存在していた。彼
等は急速に、一つの世界に住むようになったが、そうなったのは、ニューイングラン
ドの景観があまりにも変化してしまい、初期の頃のインディアンが行っていた環境と
の相互作用のしかたを行うことができなくなっていった過程の中でであった。」

で、もちろん、狩猟による動物への影響や、森の開拓や、畑としての土地の囲い込み
やがあるのだけれど、「ブタ」なのだそうである。植民者が持ち込み、ガコガコ増え、
どこでも入り込み、なんでも食べる。ブタの管理についての法令が多いのだそうであ
る。家畜を囲い込むようになることが、柵の範囲を広げることになるんだよね。 

いまは堂々と歩き回っているブタの姿がなくなったら、カンボジアの風景は変わるだ
ろうなー。そういえば、ソロモンでは、ブタはかならず柵というか、オリの中だった
なー。沖縄でも囲いの中だし。
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by eric-blog | 2004-07-31 09:44 | ■週5プロジェクト03 | Comments(0)

トレス海峡の人々

かくたです。
                           2003年6月6日配信
こう毎日じゃあ、読む人大変だよね。
今日は、短く。補足ですから。
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WK2「多文化主義の前提と課題」での問題提起に関連して、もう一つの先住民の生き
延び方を紹介しよう。

5-5-20 多文化国家の先住民−オーストラリア・アボリジニの現在
小山修三、窪田幸子
世界思想社,2002

から、

第2章「トレス海峡条約」と先住の人々 松本博之 pp35-60

である。

トレス海峡は、オーストラリアとパプアニューギニアとの間の海峡である。トレス海
峡条約は1978年に国際条約としてむすばれ、85年から施行されている。伝統的住民お
よびその他の魚業者のための漁業協定に、開発、資源保護、環境保全の要素が加わっ
ている。伝統的住民に漁場利用の優先権を与えながら、その漁法などを「伝統的」な
ものに限定している。住民には、国際的な責任による決定に対して参加も拒否権もな
い。結果、「今となって見ると、俺たち以外のものを守っているようにしか思えない
。」と先住民が指摘するものになっている。

ここには、国際条約によって「保護」されながら、囲い込まれている先住民の姿があ
る。「伝統的漁業」という表現に、国際捕鯨条約における「生存捕鯨」という言葉も
思い浮かぶ。北米先住民に、伝統的な漁法による捕鯨を、商業捕鯨の捕獲枠外に認め
る条項だ。
クジラが、象徴的な存在になってしまった今、生存捕鯨は、ほとんど儀式的でしかな
い。先住民の「文化活動」になってしまっているからだ。それはあたかも、「物質的
植民地」になってしまったオーストラリアのアボリジニのように、文化的再生産活動
としてしか、わたしは認識していなかった。

トレス海峡条約の存在と、そのあり方に自分たちの生き方を狭められていると指摘す
る言説は、伝統をある時点の姿のものに静止的にとどめることで、近代から現代にとっ
てそれを亡き者にしようとしている現在を描き出す。

オルダス・ハクスレーの「すばらしき新世界」が描き出した世界。受精から出産、そ
して生育までが、4種の人間に分けられ、コントロールされる世界。合理的で、生産
性と効率の世界だ。その世界のかたすみに、「管理されない」「自然のまま」の人々
の居留地がある。混沌、無目的、非合理なものとして。しかし、いま、わたしたちは、
すばらしき新世界の予言が、実は「居留地」においてこそ、管理の進行が早かったと
いう現実となっていることを知る。そして、それは、わたしたちの世界もが、早晩、
管理されていく結末に向かう予感でしかないのだろうか。

重層的に折り重なりあう人間社会と環境との関わり方の未来はどこへ行くのだろうか。
変化を前提としない20世紀の国際条約群は、わたしたちの社会のあり方にどのような
影響を与え続けていくのだろうか。

西洋植民地主義のいきつくところ、どのような知性が、21世紀を生き延びるのか。
あるいは、それは知性とは呼べるものではないのかもしれない。教育は、何を提供で
きるのかなー。
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by eric-blog | 2004-07-30 19:48 | ■週5プロジェクト03 | Comments(1)