カテゴリ:■週5プロジェクト04( 195 )

オルター・グローバリゼーション宣言

78-7(366) オルター・グローバリゼーション宣言
スーザン・ジョージ、作品社、2004
Another World Is Possible, if...
Susan George

後書きで訳者が紹介しているのだが、スーザン・ジョージ自身は自分たちの運動のこ
とを「グローバル・ジャスティス」と呼ぶ方が好きなのだそうだ。わたしもそうだ。
ちょっと、この本のタイトルは残念な気がする。

それはさておき、内容は、大きく2部から構成されている。
Another world is possible, if....
Another world is within reach, if....
である。つまり、オルタナティブな世界像とそのための道の提示である。

016
「前例のない時代に直面しているがゆえに、多くの答えは、民主的な討論を通して、
集団でしか生み出すことができないようになっている。以前には、誰も国際的な空間
を民主化しようとはしなかったし、地球上のすべての人々に一定水準の生活を保証し
ようという試みもなかった。これらのゴールは、もはやユートピア的なものではなく、
現実的な見通しであり、そこから「もうひとつの世界は可能だ」という宣言が生まれ
る。」

資本主義の空間と時間

今年のERICのテーマは「市民性教育」であるが、ぜひ、グローバル・ジャスティスに
ついての検討はその項目に入れたいものだ。
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by eric-blog | 2005-03-04 18:25 | ■週5プロジェクト04 | Comments(2)

トラウマの発見

78-6(365)トラウマの発見

森 茂起、講談社選書メチエ、2005

日経の書評2/27付けで紹介されたもの。書評には「トラウマと向き合える社会的余裕
がトラウマ研究を進めている」というような紹介があったかと思う。なるほどそうな
のだが、わたしはこの本を読んで、「歴史の中の科学ジャーナリズム」「知の挑戦」
「専門知と公共性」など学問や科学そのものについての再整理という研究ジャンルに
分類した。「●●概論」というテキストが、同じように理論的発展の経緯や著名な学
者、それぞれの学説などを紹介していたのだが、この本が「トラウマ研究概論」では
なく「発見」であるところに学問や科学、研究が社会的文脈と切り離せないというこ
とを示唆している。

いま手元に日経がないので、確認できないが、書評を読んだ感じと読感の違いはそう
いうところかなと思う。

著者は、心的外傷を残すような刺激・ストレスの近代化の要因として技術の進歩があ
るという。それは一番最初にトラウマが問題にされた事故が「列車事故」であったこ
とから、技術の進歩が人間が出会う事故の大きさを拡大しているということだ。それ
は「近代文明が生んだ病」36と考えられる。
そこには、また「補償欲求」という心理的要因が働くという。38
惨事トラウマ
トラウマの二次受傷
そして、トラウマ研究は、そのような「共感の苦しみ」に突き動かされているという。
47
援助者の苦痛の軽減が研究そのものや、援助のためにも必要なのであると。

・限度を越えた苦しみ、特殊な性質の苦しみの記憶
がトラウマである。7
PTSD Post-traumatic stress disorder
・鉄道脊椎症、戦争神経症
・本人の麻痺、回避/解離、想起/反復強迫、記憶は消せない、偽の記憶
・援助者の共感の麻痺

治療の現在 181
・暗示法/カタルシス法の限界=支配・被支配というトラウマ状況の再現を引き起こ
しやすい
・トラウマ性記憶を物語記憶に変えること。「過去の体験に由来するイメージの処理」
断片的な記憶の再構成と統合によって「距離をもった過去の記憶」となっていく

トラウマの予防も大切185
・早期援助・予防的援助・危機介入

しかしトラウマに強い人間を作ろうとすることは、それ自体がトラウマになってい
る。それは「感じやすい」という特質、「苦しみを受け止める」という行為は、責め
られるべきことではなく、むしろ人間の尊厳に属することである。言い換えればトラ
ウマに弱いのが人間だということである。トラウマに強い人間を作るのは、人間を何
か別ののに変えようとする試みである。188
人間にはトラウマを修復する力が備わっている。189

もしも、著者が「近代」「あるいは「近代的な科学技術」が人間関係そのものを変化
させたという点、そのためにトラウマの扱い方が変化したということまで射程に入れ
て語ってくれていたら、トラウマが近代に「発見された?景としては説得力が高く
なったであろうにと思う。

つまり、鉄道事故であれ、戦争の体験であれ、わたしたちはその経験の直後、ひょっ
とすると一人で、その経験を共有しない他者が、正常な日常を送っている、送れてい
るという状況の中で、一人で、その経験の物語りを紡ぐ必要がある。そのことが、物
語り記憶の紡ぎ直しを難しいものにし、そして「共感の共有経験を持たない他者」に
対する違和感をより強くするのではないだろうか。そのような視点が個人的虐待と惨
事のトラウマの質的な違いも説明することになるように思う。

いい本ではあるが、虐待によるトラウマも扱いながら、近代を技術事故だけにとどめ
ている分析が残念な本である。
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by eric-blog | 2005-03-04 18:24 | ■週5プロジェクト04 | Comments(0)

軍事組織とジェンダー-自衛隊の女性たち

78-5(364)軍事組織とジェンダー-自衛隊の女性たち
佐藤文香、慶應義塾大学出版会、2004

336ページもの大著である。博士論文の出版物。社会科学の意味のひとつは、このような日常的には不可視な領域に踏み込んでいけることだろう。読んでいて、ドキドキする。インタビュー、アンケートなどの実態調査、新聞、ジェンダー関連フェミニストの雑誌、そして論文など、多様なリソースに当たりながら書き上げられている。1997年から2002年までかかったという大作だ。

『軍事組織とジェンダー-自衛隊の女性たち』というタイトルは、「開発における女性Women in Development」から「ジェンダーと開発Gender and Development」WID/GADの視点の切り替えと同じである。

ジェンダー議論の存在を前提にフェミニストであることの選択をしているわたしは、人類の発展史的に、そして人間の自己実現の相互保証という教育的な社会の条件として平和共存主義、いわばロールズの万民の法の三原則=非拡大主義としての平和、法治、人権に賛成するものであるが、現実に軍隊が存在していることも事実だ。また、いまだに軍事によって国防を考える人々が存在することも。

ローマ帝国の国家予算はすべてが軍団兵の維持のためだった。いや、国家予算なるものの根源、創出が国防だったのだから。ローマ帝国の繁栄は、国防予算と言いながらその配分によってローマ街道、水道、物流・情報流に影響するインフラ整備を進めたこと。インフラなしでは戦えない軍隊の体質というか、インフラによる常勝国家の実現を遂げたことだ。軍団兵は男性だったんだけれどね。
いま、日本の国家のGNP1%の国防予算で、わたしたちは戦後60年の安全を保ってきた。白兵戦については「強国すぎる」日本だから、そこに脅威はありえない。ミサイルによる破壊の脅威に対する対策は、軍隊の人数ではなく、情報戦と迎撃力によってしか保てない。そして抑止力と迎撃力は拮抗しながらエスカレートするというのは冷戦構造で体験ずみ。「信頼醸成装置」による相互的武装解除が求められる。しかし、いま日本に対抗できる軍事費と設備を持った国はアジアには見当たらない。日本の現実は、世界第4位の国防予算をもってしても、迎撃力が不十分だとおびえなければならないというようなことではないはずだ。それが現実。

それはさておき、論文である。
三元図式のそれぞれについて論議を整理することが必要だと佐藤は言う。
53
●軍事組織の存在を正当なものと認めるか否か +-
●男女に対する役割と業務の平等な配分を認めるか否か +-
●男女の差異を個人差よりも大きなものと認めるか否か +-
この三次元軸にそって、8つの象限がめいめいされている。

1+-+ミリタリスト伝統主義者
2--+アンチミリタリスト伝統主義者
3+++ミリタリスト差異アリ平等派
4-++アンチミリタリスト差異アリ平等派
5++-ミリタリスト平等派
6-+-アンチミリタリスト平等派
7+--ミリタリスト実力至上主義者
8---アンチミリタリスト実力至上主義者

ここで、「主義者」と「○○派」と区分されているのはどこかというのがおもしろい。

軍事組織は公領域でもきわめて特殊。8
男性基準で後世され、ジェンダーを主要な編成原理としている。8

これってなんだか自衛隊をすごく「男性原理美化」する言い方だなー。全体を読んで感じたのは、自衛隊の実態に迫っていないということ。なぜ、「女性」の視点を持ち込むことが自衛隊の現実を見えないようにしてしまうのかが、また、おもしろい。必ず、他の自衛隊の実態についての本と同時に読むべきものだと感じた。

フェミニズムは
・公領域への女性の参入と平等
・近代を超える射程として「公私の分離とその序列」「公的領域の組織の編成原理」などの批判
を含んでいるために、「女性兵士が軍隊に入ることで何が変わるのか」を問うことになる。9
マイノリティとしての女性は「悪をなす」ことからも排除されているのか、それとも男性権力のより緊密な共犯関係による被差別者のさらなる差別に加担するのか。10
などの議論がある中で、著者は本書の方針を次のように言う。
・自衛隊における女性の過少代表性によって女性隊員に強いられている男性隊員とは異なる役割
・組織のジェンダーイデオロギーがもたらす男女間および女性間における軋轢

「近代国民国家が、みずからを構成する下位集団を編成し<国民>を創り出して行く過程は、同時に<非・国民>を創り出す過程であり、そしてまた国民をジェンダー化する過程でもあった。」(井桁『「日本」国家と女』2000年所収)

50年代の母親大会、60年代の女性団体の分裂、男性の運動の下請け的な側面。113
などの社会的な動きに則して、自衛隊の女性採用策も変わる。いま現在を佐藤は「第4期」ととらえるのだが、そのジェンダー表象の特徴をこうまとめている。
・プロとして男女がともに働く職場、平和創造者
・女らしい女性自衛官を男性の応援団に組み入れる203

第1期は分離、第2期は女性の特質、第3期は職域配置の三原則による分離、第4期には母性保護という制約209

訓練内容が男性の基準でつくられている233
小銃が男性の体格をモデルに作成されているため不利233
男性の基準に近づく努力と「プラス面は個人として、マイナス面は「婦人自衛官」全般としての評価」
分離型は、「二流の自衛官より一流の婦人自衛官」239

グリーンピースの船に乗っていた時、男女が船室を分け合っていたことを思い出す。体格が大きい二人の人間が場所を共有するのは不都合だからということだった。
出産、セクハラなど通常の職場でも問題になることについては、自衛隊でも同じのようだ。しかし、「傷つきやすい者は弱者を守る軍隊に居場所がない」265

「軍隊の女性」から「軍隊と女性」というより大きな物語へ エンロー、2000『策略--女性の軍事化とジェンダーの政治学』岩波近刊  332

軍隊の女性を突き放し、「ひとりにさせない」場をつくる335
そのために議論の訴状に乗せるということ。
------------
結局、フェミニストであるということは、「女性」というカテゴリー、ジェンダーを疑いながらも、「女性に起こる問題」と向き合うことからは解放されないものなのだよね。
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by eric-blog | 2005-03-01 11:25 | ■週5プロジェクト04 | Comments(0)

憲法24条+9条

78-4(363) 憲法24条+9条-なぜ男女平等がねらわれるのか
中里美 博、かもがわブックレット151、2005

著者は、憲法改変は「男女不平等な性別分業型家族に基礎をおいた軍事国家へと日本を作り変える」という構想なのだという。8
9条の改変だけではあまりにも露骨すぎて、国民の危機意識に火をつけてしまう。そこで「新しい人権」議論とセットにして、議論の行方を見えないようにする。

改変議論の背景や論点は次のように整理されています。
・家族や共同体の破壊が懸念される 9
・国民の義務に「家族を扶助する」ことが入れられるべき 10
・国家は家族を保護する 10
・家族の扶助する義務は男女不平等に課す 11
・国防の協力義務 11
・兵役の義務 「男は男らしく、女は女らしく」13

なんてことを読んでくると改変派らは「攻められるには強国すぎ、攻め出るには小国すぎる」という17世紀に確認できた地政学的地位をどのように認識しているのかと思わざるを得ない。

改変の方向について人権に照らして考えてみる。
◎世界人権宣言「国家は個人の権利を奪えない」
◎差別撤廃「差別は社会的・文化的・歴史的に形成されており、それを理由に正当化することはできない。また、積極的差別是正措置を社会的・文化的・歴史的にとること」
◎子どもの権利「生存・保護・発達・参加」
少なくとも、改変の方向は「新しい人権」についての積極的な方向とは考えにくい。
また、人権については国際標準が先行している。日本は後追い状態。ということは、ここにいう「新たしい人権」というのは、現在の「男女共同参画」についての議論と同じく「国際標準はああいうてまっけどな、わてらは別の基準もってまっさかい」ということの表明を国家レベルでもやっちゃおうよ、ということ、そして国家レベルでなら、外交や交戦など、国家固有の機能についての条項も入れないとね、ということらしい。

国家レベルでも「新たな公共」についての議論が求められているということだ。しかし、しつこく、わたしは「攻められるには強国すぎ、攻め出るには小国」という認識の共有なしに、そして、いま日本が国際的にどのような位置にあるかの認識の提示のない国防議論は危ういと思う。すべての認識を書くことはできないのは当然だが、外交・交戦はセットのはずであり、それらの認識の提示、共有、前提としての言及なしで、「家族」や「国民の義務」の側だけから語られるのは納得できない。

著者は24条と9条のセットを「近代国家が、男性市民に与えた2つの正統な暴力」46すなわち公的暴力=軍隊と私的暴力=DVととらえます。そして、「男性の私的暴力と公的暴力のあいだに相互関係・強化関係があるということは、それらの暴力をなくしていく過程や努力にも相互関係があるというを意味します」47
「あれだけ凶暴な軍隊を維持し行使している社会では、DVは減らないでしょう。」48

「日本国憲法は公的暴力をなくす努力の指針。9条の消極的非暴力主義と前文の積極的非暴力主義。」

49
自民党案が国防の義務という"男らしい"公共心を育むためには、24条の男女平等家族では無理であり、...と考えた

男女の「私的平等」の課題、家族内労働の不平等は先進国と比べて大きい。

「家族」という枠組みをとりはらっても、人間のリプロダクションの場である親密圏は存続する。24条はそのような「新たな親密圏」のあり方の原則を言っているものだ。61
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by eric-blog | 2005-03-01 09:40 | ■週5プロジェクト04 | Comments(0)

テロリストは誰? ガイドブック

78-3(362) テロリストは誰? ガイドブック
グローバルピースキャンペーン編、ハーモニクス出版、2004

雑誌国際協力で紹介されていたビデオ上映会に行って来た。画面下に字幕が出ている
ビデオを数列に並んだ聴衆が見るのは無理があると思いました。それでガイドブック
を購入して途中で帰って来てしまいました。

でも、フランク・ドリルという『戦争中毒』発行人がクリップしたドキュメンタリー
10本をさらに編集した全部で10章からなる120分のうち、前半第5章までを見て、い
ちばん心に残ったのは「School of the Americas」という工作員養成機関です。暗殺、
情報操作による心理作戦のプロが育成されている機関であり、海外からの軍指導者を
対象として、米国の国家予算で運営されています。そこの卒業生たちがどのような事
件にからんで名前が上がってくるかということのリストは震撼すべきものがあります。

1946年開校、中南米23カ国55000人以上

エルサルバドル、1980年12月、4人の女性教会関係者レイプ殺人事件、犯人の将校た
ち5名中3名がSOA卒業生
ロメロ大司教暗殺、1980年3月24日、暗殺計画者ダブイソンおよび実行犯の将校3名
中2名がSOA卒業生
エルモソテ村虐殺、900名、1981年12月11日、責任を問われた将校12名中10名がSOA卒
業生
サンサルバドル、イエズス会宣教師6人プラス2人の殺害、1989年11月16日、関わっ
た将校26名中19名がSOA卒業生
国連真相究明委員会からの1993年3月15日の報告でエルサルバドル内線での残虐行為
を名指しされた将校60数名中49名がSOA卒業生
ペルー、大学生9名と教授1名殺害で1994年2月に有罪になった軍幹部3名SOA卒業生
コロンビア軍将校250名中半数が人権侵害で糾弾されたが、SOA卒業生

優等卒業生らのその後
・元ボリビアの独裁者ヒューゴ・ボンサ
・マヌエル・ノリエガ前パナマ大統領、現在米国で服役中
などなど。

すごいね、教育の力って。1993年にジョセフ・ケネディ下院議員が軍事予算削減案を
提出。290万ドルというSOA運営費分をなくすということだった。まだ、実現していな
いのかも。

第10章に紹介されているのはブライアン・ウィルソン。『Legs』の著者、非暴力平
和運動家である。
ちょっと、これは見たかったな。

上映会を開こうという呼び掛けがガイドブックの最後にあります。info@wa3w.comま
で御連絡を。公式サイトはhttp://www.wa3w.com
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by eric-blog | 2005-02-28 21:17 | ■週5プロジェクト04 | Comments(0)

紀ノ川

78-1(360) 紀ノ川
有吉佐和子、新潮文庫、1964年、1997年65刷、新刊本1959年

いやーーー、読んだことがなかったです。

 「紀ノ川」の舞台になった和歌山市木ノ本。紀ノ川に沿ったこの一帯は、戦前まで木本、垣内の大地主が占めてきた。忙しい旦那衆にかわって、「大御っさん」と呼ばれるしっかりもんの女主人が家を支えてきた。「紀ノ川」は流域に生きた旧家の女たちの物語である。

 物語は、高野山に近い九度山から嫁ぐ主人公の花と祖母との慈尊院詣でから始まる。
やがて花嫁らを乗せた五艘の舟が紀ノ川の流れに。川沿いからの祝福の中.六十谷へと下る。 「紀ノ川沿いの嫁入りはのう、流れに逆らうてはならんのやえ。みんな流れにそうてきたんや。自然に逆らうのはなによりもいかんこっちゃ」。下流の旧家・真谷家への縁組みは大御っさんのこんなひと言で決まった。」http://www.zusi.net/meisaku/kinokawa/ariyoshi.htm

なんと、有吉自身の出身地の物語、フィクションなんだね。明治から大正、昭和の三代の女たちの物語を通してみごとに歴史が重ねられていく。ジェンダーについて検討するいい教材だと思うけどなー。以前映画化されたときは、大竹しのぶとかが出たんだっけか、なんだか絢爛豪華な着物の映画みたいな記憶しかない。

週末用に借りて読んでみて良かったあ。

解説を桂芳久さんが書いているが、有吉と岡本かの子の違いを次のように表現する。「女の系譜をたどりながら、歴史の縦糸をしっかりとらえている。...有吉には「生々流転」の意識はない」297
しかし、流れに逆らわない。自然を支配するには自然に従順であるべき。
あの敗戦と農地解放によって凋落した家のみが「家」と呼ぶにふさわしかった。
「われわれは伝統ということばを否定的な意味でしか使うことができない」T.S.エリオット
否定すべき対象の重みを実感した者のみが伝統とは何かと問い続ける。
三代目として描かれる華子も決してラストランナーではないと解説者は言う。そして「作者は将来第4部を書かねばならないだろう。そのとき華子の娘が、否定できなかった部分だけが新しかったことを証明するだけである。しかし、その娘もまた次の世代によって挑戦をうけるだろう。」301(昭和39年)

有吉佐和子、1931-1984
20年後とは昭和54年。1979年のことだ。http://www3.ocn.ne.jp/~ariyoshi/sawako/reading/sawakod10.htm
によると、この年有吉は『最後の植民地』を翻訳している。これが有吉なりの答えだったのかもしれない。
やはり、本文を引きたい。135
「水流に添う弱い川は全部自分に包含する気や。そのかわり見込みのある強い川には、全体で流れ込む気迫がある。」
それを生命力の強さと、有吉は表現しているのだが。
明治気質の花の娘、文緒の言動の何から何まで、わたし自身を見るようで、いまとなっては逆に親の立場からその言動を見るがゆえの苦しささえある。しかし、それもこれもありながら、決して花の人生も、そしてその後も暗い結末ではないところが不思議な読後感につながっている。
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by eric-blog | 2005-02-28 21:16 | ■週5プロジェクト04 | Comments(0)

ローマ人の物語13

78-2(361)ローマ人の物語13 最後の努力
塩野七生、新潮社、2004

毎年年末に一冊ずつ出る新刊本は、図書館で借りることにしている。文庫本のほうから入り、それは全巻揃えるつもりだからだ。

紀元3世紀に入り、拡大した前線を警備するために、ディオクレティアヌスは副帝を立てる。最初は「二頭政」そしてその後に「四頭政」へと。しかし、力のある者が分権したその後の世代交代は、簡単ではない。帝国の分裂の始まりだ。

もう1つのこの時代における変化は元老院や市民集会による認証を皇帝が受ける必要がないというようにしたこと。いずれ形骸化していたとしても、だ。これは後継者選びに際して市民すなわち軍兵たちによる擁立の弊害を避けるためだったわけだが、次のコンスタンティヌスがキリスト教を認める、そして「神による認証」へと皇帝のカリスマ性の保証が変化していくことにつながろうとは。

もう1つの変化は、ローマがその機能としても、中心地ではなくなっていったことである。ローマが本国で、その他の属州という格差がなくなり、ローマ街道が整備され、防衛線のために便利な場所に正副4帝の根拠地が置かれるようになったとき、ローマはその役割を終えたのだ
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by eric-blog | 2005-02-28 18:20 | ■週5プロジェクト04 | Comments(0)

ローマ人の物語13 最後の努力

78-2(361) ローマ人の物語13 最後の努力
塩野七生、新潮社、2004

毎年年末に一冊ずつ出る新刊本は、図書館で借りることにしている。文庫本のほうから入り、それは全巻揃えるつもりだからだ。

紀元3世紀に入り、拡大した前線を警備するために、ディオクレティアヌスは副帝を立てる。最初は「二頭政」そしてその後に「四頭政」へと。しかし、力のある者が分権したその後の世代交代は、簡単ではない。帝国の分裂の始まりだ。

もう1つのこの時代における変化は元老院や市民集会による認証を皇帝が受ける必要がないというようにしたこと。いずれ形骸化していたとしても、だ。これは後継者選びに際して市民すなわち軍兵たちによる擁立の弊害を避けるためだったわけだが、次のコンスタンティヌスがキリスト教を認める、そして「神による認証」へと皇帝のカリスマ性の保証が変化していくことにつながろうとは。

もう1つの変化は、ローマがその機能としても、中心地ではなくなっていったことである。ローマが本国で、その他の属州という格差がなくなり、ローマ街道が整備され、防衛線のために便利な場所に正副4帝の根拠地が置かれるようになったとき、ローマはその役割を終えたのだ。
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by eric-blog | 2005-02-27 11:56 | ■週5プロジェクト04 | Comments(0)

紀ノ川

紀ノ川
有吉佐和子、新潮文庫、1964年、1997年65刷、新刊本1959年

いやーーー、読んだことがなかったです。

 「紀ノ川」の舞台になった和歌山市木ノ本。紀ノ川に沿ったこの一帯は、戦前まで木本、垣内の大地主が占めてきた。忙しい旦那衆にかわって、「大御っさん」と呼ばれるしっかりもんの女主人が家を支えてきた。「紀ノ川」は流域に生きた旧家の女たちの物語である。

 物語は、高野山に近い九度山から嫁ぐ主人公の花と祖母との慈尊院詣でから始まる。
やがて花嫁らを乗せた五艘の舟が紀ノ川の流れに。川沿いからの祝福の中.六十谷へと下る。 「紀ノ川沿いの嫁入りはのう、流れに逆らうてはならんのやえ。みんな流れにそうてきたんや。自然に逆らうのはなによりもいかんこっちゃ」。下流の旧家・真谷家への縁組みは大御っさんのこんなひと言で決まった。」http://www.zusi.net/meisaku/kinokawa/ariyoshi.htm

なんと、有吉自身の出身地の物語、フィクションなんだね。明治から大正、昭和の三代の女たちの物語を通してみごとに歴史が重ねられていく。ジェンダーについて検討するいい教材だと思うけどなー。以前映画化されたときは、大竹しのぶとかが出たんだっけか、なんだか絢爛豪華な着物の映画みたいな記憶しかない。

週末用に借りて読んでみて良かったあ。

解説を桂芳久さんが書いているが、有吉と岡本かの子の違いを次のように表現する。「女の系譜をたどりながら、歴史の縦糸をしっかりとらえている。...有吉には「生々流転」の意識はない」297
しかし、流れに逆らわない。自然を支配するには自然に従順であるべき。
あの敗戦と農地解放によって凋落した家のみが「家」と呼ぶにふさわしかった。
「われわれは伝統ということばを否定的な意味でしか使うことができない」T.S.エリオット
否定すべき対象の重みを実感した者のみが伝統とは何かと問い続ける。
三代目として描かれる華子も決してラストランナーではないと解説者は言う。そして「作者は将来第4部を書かねばならないだろう。そのとき華子の娘が、否定できなかった部分だけが新しかったことを証明するだけである。しかし、その娘もまた次の世代によって挑戦をうけるだろう。」301(昭和39年)

有吉佐和子、1931-1984
20年後とは昭和54年。1979年のことだ。http://www3.ocn.ne.jp/~ariyoshi/sawako/reading/sawakod10.htm
によると、この年有吉は『最後の植民地』を翻訳している。これが有吉なりの答えだったのかもしれない。
やはり、本文を引きたい。135
「水流に添う弱い川は全部自分に包含する気や。そのかわり見込みのある強い川には、全体で流れ込む気迫がある。」
それを生命力の強さと、有吉は表現しているのだが。
明治気質の花の娘、文緒の言動の何から何まで、わたし自身を見るようで、いまとなっては逆に親の立場からその言動を見るがゆえの苦しささえある。しかし、それもこれもありながら、決して花の人生も、そしてその後も暗い結末ではないところが不思議な読後感につながっている。
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by eric-blog | 2005-02-27 11:34 | ■週5プロジェクト04 | Comments(0)

自然の男性化/性の人工化

自然の男性化/性の人工化
クラウディア・フォン・ヴェールホフ、藤原書店、2003

トムゼン、マリア・ミースらとともに、フェミニズム理論家の一人なのだろう。昨年の2月15日購入となっている。ずっと読み続けているが、問題提起したいことはわかるのだが、それで何を言いたいのかわからない。著者は「西欧的思考」という認識の危機が生命の基盤を破壊しているために生じているという。そしてその危機が見えているのに、しがみついているとも。
19
知識が当然の帰結として認識にいたるというようなことはもはやありえない。それでもなお筋の通った知識を強いて求めようとすれば、それは「政治的に役立たない」から不要だとみなされるだろう。
20
本書には、いま現に支配している技術、支配している暴力、支配している自然理解という3つの中心テーマがある。それらはすべて相互に関連しあい、同一の現象に異なった側面から光をあてるものである。
21
戦争と平和、民主主義と独裁、体制化と社会運動、正常と破壊、人権と暴力が、互いに相反する[私たちがその一方を選ぶべき]選択肢などではなく同じメダルの表裏にすぎないとはっきりと明示することこそ、私たちの概念の「変革」なのだとすれば、その意味は何なのか。

わたしたちの思考と行動を支配している規範・カテゴリー・信頼性の「神々のたそがれ」がすでに始まり、チェルノブィリ原発の大災害以降ますます加速している  20

著者が同じメダルの表裏だという対概念そのものがなりたつ大前提というものがあって、それをわたしたちは疑うのだが、同時にそれはくずれてもいるということなのだ。崩れ始めたから、疑いが生まれたのか、いずれかはわからない。
著者が考えるのは「女たち」のことなのだが。

このような状況にあって、この本は何を描き出そうとしているのか、それがわからない。認識の基盤になっているものを疑っているために、ことばが何を意味するのかわからなくなる。例えば、「女」と言ったとき、それは過去の認識に絡めとられた、そしてその中で形成された存在を言うのか、あるいはそれを越える力を持つ存在を言うのか、それともその両方なのかが、つねにあいまいに起ち現れることになってしまっているという具合だ。
ものすごーーーーーーく、単純化してサマライズすれば、技術については
男性中心の西洋的思考の追究の結果としての科学技術社会は、出産という人類至高の生産行為を人工化、マシーン化してしまった。そして同様にすべての生産的なものをマシーン化してしまっている。いや、逆なのだ。生産をマシーン化してき続けた結果、もっとも至高な生産である出産までがマシーン化されるに至ったということなのだ。結果、人間そのものがマシーンから生まれる、までに至っている、この現状をどうするか。「男の出産マシーンから生まれる人間」***でも人工生命のことをそのように語るのは人工生命を買いかぶりすぎているので、わたしはこの議論についていけない。大前提が「えげっ?」極端に考えてみるという思考ゲームなのだというのであれば、おもしろいのだが****
自然を拷問にかけてきた近代科学の結果が、自然にどれほどの意味を持つのだろうか、という問題提起はおもしろい。31

さて、暴力についてだ。第二部「暴力は進歩か」113-218
もしも、いまの政治が暴力を管理するための装置として進歩してきたのだとするならば、そしてそれが女性に犠牲を強いる政治であるのならば、進歩などなかったというべきなのだ。と著者は申しておられるように思います。そしてなぜそのような「進歩」がありえたのかを問い直さねばと。

さあ、どんどん行くぞー。第3部「自然を認識する」219-290
「社会」と「自然」という概念の対置によって、自然と女性が搾取され、そしてそれは自然保護という運動によっても「保護」されるどころか破壊されるだけだ。取り組みの概念枠組みそのものが間違っているからだ。概念の間違いは人間中心主義の人間認識にある。そのような認識を進めてきたのは男性でそれが「自然の男性化」である。
そして認識された自然しか存在しなくなる。

「収奪される女たち」160-182という論文では女性学の危機についても触れられていて、「「学者は増える、専門化が進む、男たちも参入する」結果、女性の味方になる必要もなければ、まして自分が自己批判的、学問批判的に反省する、解放される必要もなくなる」というおもしろくも、興味もわかない実態に陥っていくことを指摘している。180

いずれにせよ、この難解な本をさらに難解にしているのが、印刷メディア言語表記の多様性だ。インターネット小説、携帯小説、組み文字文字ことばがはやるのもわかる気がする。意味の多重性に、もう普通の言語感覚はついていけない。これからこの本を読む人のために事例を挙げておく。
「」著者による強調。「自然化」とされるときもあり、自然化と「」なしのときもある。[] 訳者による補足。
() 著者自身による補足
ルビ 訳者の日本語にひらがなの読みをふっている場合と、カタカナで原語が示されている場合がある。

* 文節ごとに入れられているちょっとした注釈につける。
(22) 注釈

問題は女性の問い直しが男性の問い直しをやむなくせまることによって、全体の再構築が必要なのに、それがそうは進まないということ。それがわたしたちの生きている現実だということである。

『公共研究』批判と『オニババ化』をつなぐ本としてぜひ取り上げたかったものである。
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by eric-blog | 2005-02-25 10:06 | ■週5プロジェクト04 | Comments(0)