アイヌの歴史 海と宝のノマド

282-4(1265)アイヌの歴史 海と宝のノマド
瀬川拓郎、講談社選書メチエ401、2007

ノマドとは遊牧民のことだ。ウマモナドの語感に引かれて、ノマドに出会った。ではなく、テッサ・モーリス鈴木さんの「辺境から眺める」が近世アイヌの有り様が、近代化によって規定されたものであり、国民国家が「辺境」を生み出したと、言っていたその現実を、アイヌの側から、どのように選びとって行ったかを描こうとしている本、だ。規定されつつも、わたしたちは選んでいる。これは、「制度による精神療法」の「脱制度化」にも説明されていることだが、すべての制度をなくせば、わたしたちはない。その中で、どのように制度をその制度の所以であるところの目的にあったものとして、つまり人間のためにするものにしていくかが問われるのだと。


規定されつつも、アイヌが選択した、主体的に生きたものは何だったのかを、明らかにしたいと著者は言う。農耕社会が激変の歴史の中で変容と、複雑化し、矛盾が拡大してきたと同様に、彼らもそのような歴史を生き抜いて来たのだ。

「未開」社会の国家の拒否(ピエール・クラストル)
アフリカ狩猟採集民の平等社会(市川光雄)
支配と所有に取り込まれて、自由と平等を失った古代以降の社会(網野善彦)
などにも共通する、何かを彼らは生きているのではないか。

文明の一方的な論理である進歩史観を相対化すること。11

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(北海道の)続縄文社会は、コメを欠く二流の農耕社会への移行ではなく、資源の量と差異を背景にもつポテンシャルの大きな狩猟採集社会として、農耕社会に向きあうことを選択したのではないだろうか。
続縄文社会は、狩猟採集という選択によって農耕社会の宝を手に入れ、階層化を拡大してゆく道をあゆみだした。・・・階層化が宝の流通に拍車をかけ、「多くもつため過少生産からの乖離が生じていったのだろう。

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考古学であきらかになった戦争の9割以上が農耕社会にともなったものである。(佐原真)
戦争が多いか少ないかは、農耕社会か狩猟採集社会かというちがいによって決定されるのではない。それは単一の資源に大きく依存し、強い定住化が生じて、環境の変化に対する耐性の少ない生産のありかたがかかわっていた。(松木武彦)

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「商品」というウィルス
商品が伝統的な贈与経済を破壊する。(田中二郎『カラハリ砂漠の自然と人間』「狩猟採集社会を通底していた平等原則の価値観は、あらたな貨幣経済原理の流入のなかで、今大きくゆらぎつつある。」)
東北北部と青苗文化という位相の異なる中間的な世界の連動は、青苗文化が「商品」を同族的関係にある東北北部から入手し、それをさらに擦文文化との同族的な関係に埋め込んで「贈与」に変換する、一種の翻訳過程だったのであり、いわばウィルスの無害化の過程だったのだ。

15世紀以降には、その干渉作用をもった文化や地域も失われ、「アイヌの共生システムの喪失」230がおこる。

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サケの遡上しない川筋にも縄文遺跡は多く分布している。9世紀末から10世紀以降、この地域の人びとにとって、サケ漁が交易とかかわって必須の生業となるなかで、集落のリッチは劇的に転換し、サケが遡上しない多くの地域は居住不適地として切り捨てられてゆくことになった。

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アイヌ・エコシステム(渡辺仁)
アイヌ社会を川筋社会ととらえる。そして、アイヌの集落は段丘面に営まれるが、この定住集落を拠点として、河川原地帯ではクマ猟、給料では早春・初冬のシカ猟、段丘面では秋のシカ猟と植物採集、氾濫原では植物採集、河川ではサケ・マス漁という、生計活動にもとづく生態ゾーンが成立していた。

著者は、渡辺がこのモデルを「伝統的」な静態的概念としていたことを批判し、このモデルは10世紀以降に生じていった「交易適応」の生態的な社会モデルであり、さらにそれ以前の縄文エコシステムを設定して、歴史的な動態モデルを提起している。(先日の「リキッド」だね)

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気候や植生に規定された「陸域型」文化圏から、海流にもとづく「海洋型」文化圏への広域的な社会の転換もまた、縄文エコシステムからアイヌ・エコシステムへの転換ということができる。

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アイヌ社会の宝をみるとき、それは名誉と威信にほかならなかった。宝をもたない者が貧乏人と軽蔑されたのは、かれが名誉と威信をもたない者だったからだろう。マルセル・モースがいうように、タラかは「名誉の貨幣」だったのだ。
アイヌの宝とは異文化からやってくるものであり、差異そのものだった。宝をもつことは差異をもつことであり、他者とのあいだに簡単に埋めることのできない差異をもつことが名誉と威信を保証した。そして宝は他者との差異化を押し進め、社会の階層化を拡大してゆく基盤をなした。
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アイヌの歴史は名誉と威信を求める誇り高い歴史だったが、それは不平等や戦争の思想と一体のものだった。柔軟な自然利用と過少生産の縄文エコシステムは、硬直した自然利用と過剰生産のアイヌ・エコシステムに転換したが、それは同時に「日本」との共生の体系でもあった。進歩とも退歩とも単純に割り切れないこの両面性こそ、アイヌ社会の複雑化の実態だったといえる。
・ ・かれらの複雑化は、かれらという差異が生き残ろうとし、生き抜いてきた軌跡として理解しなければならないものだ。その点で、この「進化」は、私たちの評価などを越えたところにあるともいえる。
・ ・アイヌは狩猟採集に「とどまった」のではなく、歴史的な環境のなかで狩猟採集を「選びとった」のであり、私たちの歴史とつねに同時代を生き、深く交流しながら、複雑な狩猟採集社会としてちがった進化を遂げてきたのだ。アイヌ社会は最終的に日本社会に支配されたが、それは二つの集団間の力学的な問題であり、社会進化の優劣とは関係がない。
・ 私たちは、私たちとちがう価値を至上のものとし、ちがうかたちで進化した社会があったことを受け入れなければならないだろう。

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『ク スクップ オルシペ 私の一代の話』は忘れられない。
同じ都市環境のなかに生きながら、まったくちがった世界がみえている人びとがいることを、強い現実感をもって知ることができた。どこまでも均質にみえる世界のなかに、異文化が重なりあっているのを体感したのだ。

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商品と貨幣によって媒介された現代の社会は、自己と他者の差異化を徹底的におしすすめ、差異のヒエラルキーのなかで一人一人が孤立し、おたがいに無関心なバラバラの差異になるところまで、私たちを連れてゆこうとしていのかもしれない。
しかし、連帯を欠いた差異に未来はない。アイヌという差異と連帯し、共に生きるこができなければ、私たち一人一人が孤立し、剝き出しの差異になる未来を回避することなど、とうていできないにちがいない。

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『聖徳太子絵伝』に、蝦夷が「ワシ羽」という命に等しい宝を差し出している場面が、描かれているそうだ。40数点も描かれているという、絵伝も、それぞれに見てみたいなあ。

『ク スクップ オルシペ 私の一代の話』砂沢クラ、福武文庫、1990
「半生を語る 近文メノコ物語」
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by eric-blog | 2009-02-17 11:10 | ■週5プロジェクト08 | Comments(0)
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