281-7(1260)辺境から眺める アイヌが経験する近代
テッサ・モーリス=鈴木、みすず書房、2000
この週末に東京外国語大学多言語・多文化教育研究センター主催で、テッサさんの講演会があり、とても楽しみにしている。
アイヌ民族を狩猟採集の文化、民族として描き、日本民族と比較する視点を、わたしたちはついつい信じてしまう。しかし、著者は、17世紀以前、近代以前に、アイヌ文化には、農耕も焼物も、存在していたことの証明があるのに、この囚われは不思議なことだという。
北方圏に生きるアイヌおよびギリヤーク、イヌイットなどは、相互に交流し、多言語を話し、交易し、そして、基本的には自給自足できる生業を多様に身につけていたという。それらの自立した民族が「辺境の民」化されていくのが近代の国民国家の成立であり、近代産業化社会なのだという。
特に、松前藩時代から明治、土民保護法の成立が、日本社会におけるアイヌ民族の「辺境化」を徹底したという。
集約的漁業の労働力として収奪するためには、近代産業に依存し、貨幣経済に組み込む必要がある。そのために、農耕を禁じ、自給自足が不可能な状況に追い込んで行く。
先日、相模原市の環境デザイン・ワークショップを行った時、衛星都市という「辺境」として相模原市を見てみることを試みた。ベッドタウンであり、消費都市であり、余暇産業の需要が高く、土着性が少なく、移動性が高い。
また、日本社会そのものも近代化の中で「辺境」化され、特徴づけられていった歴史として見ることもできるだろう。
昨日16時からの「ETVの逆襲」、録画しておけば良かったと思ったが、立花隆、糸井重里、爆笑問題らが「考えるとわからなくなる」「流れに乗って行くしかない」「流れに乗っている人は、自分がどんな流れを作り出しているのか、わかっていない」などなどのコメントを最後に言っていた。
しかし、テッサ・モーリス=鈴木さんのような視点もまた、わたしたちを再帰的に形づくって行くことも事実なのだ。