233-1(1137) 愛国経済 中国の全球化
吉岡桂子、朝日新聞社、2008
週末読んでいたウィリアム・ボイドの影響だと思うのだけど、世界は「見るもの」と「見られるもの」に、エンターテインされる側とエンターテインする側あるいはエンターテインされる側にとってエンターテインメントになる側に分かれつつあるなあ。
アフリカ、戦争、汚職、欺瞞、裏切り、
ニューヨーク、画商、遺産相続、贋作、
ハリポタ騒動も含め、エンタテインメントの世界が「消費するもの」と消費者。
消費するためには「商品名」や売りが必要なのだが、「中国」というものは「大衆」(それとも人口?人口圧?)、中央統制、崩壊した社会主義経済、国粋主義的自由主義経済への移行。
「中国」という枠があるおかげで、その経済の全球的成長が、「国家」の中枢・中央集権に莫大なもうけをもたらし、統制と支配力を与える。中近東がオイルマネーで潤っているなら、中国はマンマネーで利潤を生み出すというわけだ。
隙あらば国境を超えて商売してやろうと、どの家族も構えている。一族郎党からの小金を資本にして。
海外に出るより、あるいは出るとしても、国内で「まとまろう」、国内で有意味なものを創りだして、海外でも認められれば、外へ、という島国的な意識とは違う。
にもかかわらず、彼らが国境を超えるときが、国家にとっては商売のチャンスなのだ。
願わくば、国家の商売が公共性を身にまとっていてくれればと。これは同じくウィリアム・ボイドの『グッドマン・イン・アフリカ』を読んでの感想。
世界で、そして世界の「安全な消費者」でいやすいのが、日本かもね。願わくば、「消費している世界」の危うさに気づいて、行動する消費者になってほしいものだが。その危うささえ、「消費」されているだけのように思えてならない。