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自己のテクノロジー

228-2(1116)  自己のテクノロジー
ミッシェル・フーコー、岩波書店、1990

あきらめました。やっぱりフーコーは難物です。理解したから紹介するのではなく、書いて行くことで見えて来ることをさらなる理解のよすがとすべく、この本のどこかでフーコーが「結論が見えている本を書くことは意味がない」と言っていたのに力を得て、とりあえず書きます。
ブルデューとフーコー。こいつら何考えてんねん? というひっかかりと「なぜ、彼らはこのことを考えてんねん?」というひっかかりと、両方あるんですけどね。

「自己のテクノロジー」というのは18世紀末に現れた一つの問いであり、近現代哲学の関心の中心の一つ。211
それは伝統的な哲学の問い、「世界とは何か」「人間とは何か」「真理とは何か」「認識とは何か」とは異なる。自己のテクノロジーが問うのは「現在の状況の中でわれわれとは何であるか」「今日われわれとは何であるか」という、永遠の、しかもたえず変化する問いであることを特徴とする、と。211
フーコーは「狂気と精神医学」「犯罪と処罰」の研究を通して、私たちの社会がさまざまに分類された排除を介して自分自身をいかに構成してきたかを明らかにしようとした。
この本で彼が取り組んでいるのは「自己に関する若干の倫理的技術を介して自分の自己同一性を直接的に構成してきたか」であった。212
さらにこの終章において、彼は「個人にかんする政治テクノロジー」つまり「われわれが自分たちを一つの社会として、一つの社会的実体の一部として、一つの国ないしは一つの国家の一部分として、認めるにいたったその仕方」を示そうと試みる。
国家の真理、存在意義?レゾンデタ、訳者は「国家の方針」と訳すことによって「国家」が個人に先行することをほのめかしているのだが、18世紀に出来した行政技術、国家統治の技術とは何だったのか?
福利厚生、公衆衛生、医療扶助、社会保障制度。そして国家としての戦争。214
国家にからめとられた生と死。国の中の秩序と平和。
しかし、フーコーは「国家の方針」は同時に合理的なものとして位置づけられたと、キリスト教的伝統「神の掟」との訣別を暗示する。

もちろんわたし自身の関心は当然教育へと向かうのだが、その出現は19世紀までまたねばならない。そして、参政、福祉、教育、軍隊という「国家の方針」統治の技術が完成しつつあった西洋と日本がであった、ということになるのかな。

前半で検討されている「自己のテクノロジー」は、ギリシア的アプローチとキリスト教的アプローチの対比である。
ギリシア的とは「自己」に気配りすること。キリスト教的とは「自己開示」であり、真理への接近のための霊魂の清らかさを保つために取られる「改悛」「告白」、「悪徳」との戦い。八つの「悪徳」とは大食、姦淫、貪欲、怒り、意気消沈、安逸、虚栄
それに照らして「自分」を点検する。なるほど。

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by eric-blog | 2008-04-28 19:35 | ■週5プロジェクト08
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