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ケガレからカミへ

161-1(768)ケガレからカミへ
新谷尚紀、木耳社、1987

伝承遊びの指導の時に、レクチャーをしてくれた方だという。どんなことを書いているのか。伝統・伝承・芸能について、たくさんの本を書かれているのだが、シンプルな主張のあるものを選んでみた。

民俗学の資史料の山から、神事にみられる「ケガレ」「ハラエヤル」などの行為が、「カミ」「マレビト」に対する畏怖、信仰へと、代る、替る、換る、変る過程とメカニズムを解いたもの。

岡山県久米郡の護法善神を祭る祭礼で、七日間の精進潔斎を行った護法実(ごほうざね)が、神へと近づく存在となりつつ、人のケガレを持って彼岸へと昇華するかのようなものがあるという。その祭りの描写の中で、「ケイゴの少年たちがギャーティ、ギャーティと叫びながら周囲を輪になって走り回り」75とある。

般若心経にある「ギャーティ、ギャーティ、ハアラアギャーティ」を新井満さんは「往くぞ、往くぞ、彼岸に往くぞ」とさとりに至る真言の意味を訳している。(『自由訳 般若心経』朝日新聞社、2005)
・新井満(1946年5月7日 - 2021年12月3日)

その真言を子どもたちが叫んで、ヒトをカミの次元へとけしかけて行くというのは、とても面白い構造である。神社、仏教、修験は、わかち難く結びついたものなのだなと思う。

と、まあ、これは前置き。この本を紹介しようと思ったのは、子どもの遊びについての分析が面白かったからだ。柳田国男の分類を引きながら、「おもちゃ遊び」「身体遊び」「場所遊び」「言葉遊び」をあげ、またロジェ・カイヨワやホイジンガが人間と遊びの関係について、従属よりも自由、堕落よりも創造を発見したことを引いて、これらの遊びと創造性の関連を示している。(204、図17)

おもちゃ遊び熟練・発明、ホンコとウソコ
身体遊び鍛練、ハンデ
場所遊び勇気・発見、異郷意識、リーダーシップ
言葉遊び創造、文芸・歌謡、ことわざ

もちろん、そこには「危険性」も伴うのだが、新谷さんは「子どもたち自身の間で上手な配慮が働いてるのも見逃せない」という。205
一人勝ちは長続きしないから、本気/ホンコとウソコを分けてやったり、身体遊びにハンデをつけたりなどをしているのだ。
言葉遊びについての著者の分析はおもしろい。「人の悪口をいい、はやしたてるものへと流れる危険性を常にはらんでいる。・・・しかし、それに対しても小さいうちは何の口答えもできず、くやしい思いをして耐えねばならないが、やがて、みんな、言葉の力に気づいていくことになる。(言い返す)ことわざを知るとともに次第に勇気がわいてきて、ことわざがまさに言葉の技であり、きわめて有効な武器ともなることに気づくのである。」209

210
どうやら、遊びというのは、二十世紀往こう、ホイジンガやカイヨワによってあらためて、人間にとって主体的で自由な精神にもとづく文化的な創造力に満ちた営為であると、高く評価されなおされてきていながらもなお、やはり実際上の人々の感覚としてはどこかうしろめたさの残る営為でありつづけているのは、それが今みたように、すべては人々を、暴力、性行為、賭博、のぞき、うそつき、いじめなどといった危険へとひきずりこまずにはおかない不気味な力を秘めているからであろう。そして、逆にまたそれを、子どもたち自身が今みたような上手な工夫によってそれぞれ回避する努力を重ねてきているところにこそ、遊びのもち文化的創造力というものをあらためて見てとることができるであろう。

子どもの遊びの特徴として
・真似事、現実社会の鏡
・流行現象と伝染力
があり、大人社会の秩序と価値の体系に対して、・・・超論理的なエネルギーでもって、その意味を問いなおしつづけている。212

言葉争いは、物理的暴力や衝突を避けるための儀式でもあるというのは、どっかにあったなあ。

英文に訳された抄録も巻末に含まれている。

by eric-blog | 2006-12-13 09:59 | ■週5プロジェクト06
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