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教育改革の思想国家主義から人間主義へ

155-2(740)教育改革の思想国家主義から人間主義へ
村井実、国土社、1987

後書きに下村哲夫さんが、エールを寄せている。百番目のサルのように、教育というのは一朝一夕で変わるのではなく、じょじょに広がって、そして、ある時大きな変化につながるのだという。

「だれかの号令にしたがって一挙に改革が出来るわけがない。百年かかって出来上がったものを改めるのに、百年かかっても不思議はないであろう。とにかく、時間こそかかれ、いや、むしろ十分に時間をかけて、ひとりからひとりへつ、私たち国民の間に、教育改革に相応しい新しい思想を育てていくことが根本なのである。しかもなお、その先駆けとなるのが、やはり教育でなければならないのである。」前書きより

著者は、明治以来の日本の教育は国家主義であったという。それを人間主義、民主主義にしなければならないという。
子どもが「善い」ものをもっている、のではなく、子どもは「善き」ものを育てたがっている。善きものへの意志を育てること、善きものを育てることが人間主義の教育なのだという。児童観、教育観としての性向善説。
それを含めて「教育の人間化」なのだと。

そのためには「思想のある教育」そして、教育者が求められている。

にもかかわらず、学校は「教育」「情報」「選抜」の三つの機能の間で、選抜的機能だけが伸長してきている。明治学校制度が始まった時、学校は地域文化の担い手であり、かつ新しい情報の発信源であった。しかし、今日、新しい情報の機能は影が薄くなり、そして、教育的機能は国家主義になっている。そして、戦後教育改革においても、国家主義は変わって来なかったのだと。「民主化」という政治的な主張は、決して日本の教育を変えはしなかった。
「教育を国家の政治目標に従属させるところから、内容上はおのずから国家目的を至上とする国家主義的という性格を帯びる。・・・国家が平和主義的になれば、すなわち平和主義的ともなるのでする。・・・戦後の教育が平和主義的となったからといって、必ずしもそれが国家主義的でなくなったわけではないということを、深く自覚しなければならないのである。」28

「国民の一人ひとりが人間として善く生きようとしている、その志しをとげさせることを目的とする教育なのである。」23

そして、それがどのような教育なのか、わたしたちは知らないのだという。「現実に私たちが経験している国花主義の場合とはまったくちがった、ほとんど対照的とすらいってよい形にならざるをえないであろうことは、論理的に推測できる。いったいどうなるのであろうか」23

わたしたちは、この20年、正統に教育について考えてきたのか、答えのない問いと、道を求め続けたのだろうか。

安易さに流れている現実が、大学受験科目を優先した進学校の「必修履修もれ」に現れている。なぜ、教育者たちは、かほどに安易なのか。安易な教育者たちからは、安易なアウトプットしか望めないのではないだろうか。
by eric-blog | 2006-11-01 13:29 | ■週5プロジェクト06
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