私とは何か 「個人」から「分人」へ

私とは何か 「個人」から「分人」へ

平野啓一郎、講談社現代新書、2012

2798冊目


『ドーン』という彼の小説で出された概念「分人」について、著者本人が口述した内容を編集部が文字起こし、そして著者が修正した「わかりやすい解説」。


確かにわかりやすい。


「個人」は英語で言われるような「in-dividual」ではなく、「dividual」な存在なのだという。


個人は社会関係の中で、色々な場合に応じて多様なキャラを持っている。その関係性の中で現れる「その人らしい応答性」が「分人」であり、わたしたちは多様な側面を生きている。


「分人」とは、さらにはその関係性の中に「入り込む」存在でもあり、ある関係そのものを、その相手と共同生成しているものでもある。その共同生成するものがかけがえのないものであればあるほど、その関係は、その人にとって大切なものだということになる。


個性とは「分人」の構成比率と重みで決まる。


頭の良い人なのだなと思う。


『ドーン』を読んで、「分人」という概念に納得がいった、「個人」という概念に違和感があったことが説明されてスッキリした気がした、という感想があったという。


まだ読んでいないからなんとも言えないが、頭のいい人が出てきそうな気がする。


そして、私が日本社会に対して感じている違和感も、きっと顔を覗かせるのだろうと思う。そう、役割社会。


著者の言う「分人」の中で、「自分があまり好きではないキャラ」より、自分自身が好きでいられる「分人」でいられる関係をたくさん持てばいいと言う。


選択の問題。


選択の幅の問題。


選択の可能性の問題。


頭のいい人だなあ。と言うのが感想になるのも、宜なるかな。


彼の議論から、「女」と言う役割や記号は、意味がないのだろうか?


わたし自身は「女」と言う記号が嫌いで、それを求められる関係性を拒否してきたと思う。結果、結構狭いよな。仕事の面でも。趣味の面でも。


ま、居心地はいいけれどね。


役割社会、男性優位文化における強者の側の「分人」論は、どこかに逃げがあると思う。自分のせいではないと言う説明。ある役割としての「分人」の行動だからと言う正当化。



だから、「分人」としての課題としてあげられるのが「複数の人を愛することができるか」と言う問題になるわけだもんね。


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by eric-blog | 2017-05-26 17:25 | □週5プロジェクト17 | Comments(0)
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