リアル世界をあきらめない この社会は変わらないと思っているあなたに

リアル世界をあきらめない この社会は変わらないと思っているあなたに

時代をつくる文化ラボ、はるか書房、2016

2787冊目


このところ、ヘビーなボリュームの自分史が続いて、うーーん、どう切り取ればいいのかなあと、タイトルだけの紹介になっている。


アヤーンさんは動画でも紹介されているように、今もイスラム教について積極的に語っていて、よく取り上げられているし、アーザル・ナフィーシーさんは『テヘランでロリータを読む』がプリズン・ブック・クラブで取り上げられていて、『語れなかった物語』共々読んでみた。1990年代がとても遠くに感じられる。並行宇宙の様子を見ているようだ。


リアル世界をあきらめない


と言うタイトルのこの本も、どこか並行宇宙のような気がしている。


テツガクをお仕事にしている人が「テツガク」しようよと呼びかける。それは自由のためなのだと。


「僕ら」と言う主語で「民主主義のアンチエイジング」を語る花子さんは「不干渉」「自由からの逃走」「電池切れ」など、いかにも人気のブロガーらしい言葉遣いで、ひやりと現実を見せてくれる。花子という連想を拒絶しているのか、僕らが新しい記号なのか。


子育て時代、非常勤講師を掛け持ちしていた男性が育児について語る。保育園の保護者会でのママさん達からの無言の「排除」の体験。教育学を語っている彼は子育てに関わることで「子どもも大人も成長できる社会を」と説く。


環境哲学をやっている人が、地域の緑を守る住民運動について、語っている。無責任な生活破壊の戦後史が続いていると指摘する。都会にあるムラは変わっていないと。


こういうことが「リアル世界をあきらめない」と言う悲壮な決意のもと、多くの匿名希望の登場人物とともに語られていることに驚く。


リアルな世界のなんとちっぽけになってしまったことよ。国際会議に出かけて行って、国際条約の行方にロビィ活動を展開したり、その動きをまた日本社会に持ち帰って、ローカルなアジェンダに落とし込んだりをしようとしていた1990年代。並行宇宙で起こっていたことは、女性性器切除や女性の意思とは無関係に決められていく結婚、イラン革命に巻き込まれて自由をなくしていった女性たちの物語。


カイロで開催された「国際人口開発会議」でも女性性器切除の問題は宗教とは切り離して「女性の選択の自由」と言う問題として捉えられるべきだと合意された。もちろん、「文化の問題だから、内政不干渉」と言うような主張もあったけれど、多くの女性たちは「そこから逃れたいと願う女たちがいる以上、連帯して支援する」と言う立場だった。


しかし、閉じられたカーテンの向こうにいる女性たちと、どのように連帯することができただろうか? 


当時は、ネットという手段が国際的な運動をやりやすくしているという認識が広がりつつあった。しかし、ネットの社会はあっという間に「監視社会」へと様相を変え、いまや紙媒体の本でさえ、住民運動を担った人々の名前が仮名で出てくる。ネット化されれば、消せなくなる。名前を出すのはその分野の専門家として名前が出てもいい人たちだけ。


リアルな世界が一層遠のいた感が残った本だ。


去年の大学の授業では「無意識の価値観」が共通の課題として浮かび上がってきた。今年は、まだ、なんの手かがりもないまま、1/3が過ぎようとしている。


「問う」て迷ったり、探ったり、悩んだりするよりは「決まりたい」「何者かに早くなりたい」熱はますます高まっている気がする。


「たった一つを変えるだけ」でマイクロ民主主義の実現を謳うQFTですら、すでに政治的なメッセージが強すぎるのだ。


孤独なミドルクラスのざわざわが止まらない。


そして、同時代を作ってきた「リアル同志」たちが、定年退職していく。そして、彼らはどこへ行くのだろうか? 孤独なミドルクラスのまま、それぞれが生き延びるのに汲々カツカツとしているのだろうか?


多分、少数派であろう彼らに、エールを送るべきなんだろうなあ。


ところで、3つほど、ついでに書いておこう。


一つは、途上国によく研究旅行に行く方からのお話。途上国も生活水準は全体として上がっている。しかし、格差は存在するし、ひょっとすると広がっている。色々なレベルが重層的に存在する感じになっている。一筋、道が違うと富裕層とスラムが隣り合わせている。世界のどこに行っても、なんか変わらない感がある。「途上国」というアイコンでは語れない。


一つ、『わすれな草』の認知症の女性は1980年代、左翼政治運動に没頭し、家族を持ちながら自由恋愛主義を貫いた。双方ともに恋人がいたのだが、そのことについて、男性が今となっては罪悪感を抱く。もっとリアルに彼女を幸せにすることができたはずなのにと。それはいま倉本聰さんが脚本を書いている『やすらぎの郷』にも出てくる。「あいつが他の男との関係に悩んでいた時に、食事を作らせ、家事をさせていたんだ」と石坂浩二さんのセリフ。


一つ、『わたし、ダニエル・ブレイク』はここにいるんだという映画。ここにいて、一生懸命暮らしているわたしたちは、なんなのだ?


わたしたちは「社会」という、他者との関係性を変えることができるのだろうか? それが「社会性」以前の課題になっていることが、よくよくわかってきた。


さはさりながら、しかし、民主主義という社会性や正義や公正さとかの社会性を問わなくてもいいのかなあ。それらが関係性の中にも貫かれることを求めていたのではなかったか。




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by eric-blog | 2017-05-14 17:43 | □週5プロジェクト17 | Comments(0)
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