あんずの木の下で 体の不自由な子どもたちの太平洋戦争
小手鞠るい、原書房、2015
2959冊目
太平洋戦争で、東京への空襲も激しくなってくる。光明学校は、1932年設立、東京都立光明特別支援学校である。
空襲が激しくなり始めて、子どもたちを守るために、学校に「疎開」させることを決める。1944年8月 世田谷区本校に現地疎開。
しかし、3月10日の東京大空襲は当時としては田舎であった世田谷でもその熱さを感じるほどの激しいものであった。そのために、松本校長は、さらなる疎開先を探す。
1945年5月15日 長野県上山田温泉に疎開。疎開のためのトラックは、当時学校の隣にあった軍隊に、「障害児たちがここにいては、足手まといになりますよ」と脅しをかけて準備させる。
そして、疎開が終わり、見送りに来た家族たちと涙の別れをしたその直後、世田谷の本校は空襲で跡形もなく燃えてしまう。
戦争が終わっても、到底東京はこどもたちが安全に暮らせるような状況ではなかった。校長は長野県で集団疎開をすることを決意する。
子どもたちを守りきった光明学校。
その道は決して簡単ではなかった。
足手まといになるという校長の脅しが効いたということは、取りも直さず、その理屈が社会で共有されていたことのしるしなのだから。
身体不自由のない大人たちが、子供と一緒に日向ぼっこをしているようにしか見えない支援学校に対して、「お国のために恥ずかしくないのか」とすら言われたのだ。